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本願寺が東西に分裂したのは家康の政治的な意図がありますが、事の発端は戦国時代までさかのぼります。
――――――。天文元年(1532)天文法華の乱で山科本願寺を失った本願寺10世欄如は石山本願寺を築く。天下統一を目指す信長と10年もの長き戦いの末、顕如は和睦して、自身は引退する。新たに本願寺を継いだのは長子の教如(11代)が1592年に本願寺を継承する。しかし石山合戦の際父に協力した穏健派を遠のけたため、豊臣秀吉から宗主引退を命じられ、弟の准如(12代)が就任する。ちなみに、石山本願寺は取り壊され、秀吉が大阪城を築く。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いで家康に協力した教如を宗主に復帰させる予定でしたが、兄弟対立を利用して兄の教如に独立を促すことになる。
慶長7年(1602年)京都の七条烏丸に四町四方の寺院を寄進、群馬県前橋市の妙安寺より親鸞上人木像を迎え、ここに東本願寺(教如)が誕生するのである。また、東本願寺は3代将軍家光より境内の東方150メートルの寄進を受ける。
東本願寺は江戸時代を通じて4度の火災にあったため、重要文化文化大は多くない、しかし明治時代に再建された御影堂は木造建築として、日本最大級の建物である。
ちなみに私の実家は西本願寺です。
西本願寺では参拝料もいりません。御朱印もありません。無料のスタンプがあります。お守りやお札の販売もありません。宗教寺院ですが金儲けしていないのがいい。おまけに西本願寺の僧侶は長髪です。一回だけ剃れば後は伸ばそうが剃ろうが自由です。
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