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1589年、秀吉が53歳にして長男鶴松を淀殿との間にもうけている。しかし鶴松は2年数か月で早世してしまう。それから4年後の1593年淀殿は秀頼を出産している。鶴松の死後多くの女性と関係を持ったのに淀殿だけが秀吉の子を授かったのは不自然である。
一番かんがえられるのは生殖能力がないことを悟った秀吉が側近に淀殿と性的関係を結ぶことを命じたのではないでしようか。
ではそれは誰かというと一番有力な説は大野治長ではないかといわれている。淀殿の乳母である大蔵卿殿の子に当たる関係で二人は親しかったといわれている。江戸時代には大野治長は淀殿と密通していたという記録が残されている。秀吉没後の淀殿からの信頼の受け方から見ればこの説が有力である。
また、一説では石田三成説もあるが、秀頼は1593年8月生まれであるため、前年から朝鮮にわたっていた三成は白である。
これらの説はあくまで推測であって、確定ではありません。現在でも特別な治療なしで0年後に生まれた夫婦が私の周りには何人もいます。
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