昨日、久しぶりに、京大卒の知人が我が家を訪ねて来てくれた。
正に、クリスマス・イブのプレゼントのような有難い訪問だった。
森羅万象の会話を交わした中で、私が本を出版した経緯に話が及んだ。
偶々、本棚に、私の本が1冊、置いてあった。
表紙のデザインを決定したのは北野病院に入院中の事だった。
北野病院は京大医学部の附属病院に等しい大病院である。
「白い巨塔」風に、部長以下若手の医師たち5,6人が各病室を巡回する。
出版社から表紙のデザインについて数種類の案が届いていた時に、二度目の巡回があった。
どれにしょうか考えている事を話した時に、一人の若手の医師が言った。
「キサラさん、私に任せてくれませんか?私は、こういうの得意なんです」
私は、即座に、かれに任せた。それが、この表紙である事を冒頭の知人に話した。
正に、クリスマス・イブのプレゼントのような有難い訪問だった。
森羅万象の会話を交わした中で、私が本を出版した経緯に話が及んだ。
偶々、本棚に、私の本が1冊、置いてあった。
表紙のデザインを決定したのは北野病院に入院中の事だった。
北野病院は京大医学部の附属病院に等しい大病院である。
「白い巨塔」風に、部長以下若手の医師たち5,6人が各病室を巡回する。
出版社から表紙のデザインについて数種類の案が届いていた時に、二度目の巡回があった。
どれにしょうか考えている事を話した時に、一人の若手の医師が言った。
「キサラさん、私に任せてくれませんか?私は、こういうの得意なんです」
私は、即座に、かれに任せた。それが、この表紙である事を冒頭の知人に話した。
今朝、昨日の訪問が有難かった事に思いを致しながら、本当に久しぶりに私の本をめくってみた。
私は、これまで自分の本に対して、照れくさい気持ちを、いつも持っていた。
だから、そんなに読み返す事がなかった。
それもまた大いなる損失だった事を再認識した。
私の本は、約1年間、紀伊国屋梅田本店の社会経済の棚に、故・堺屋太一や高橋洋一さん等の名立たる言論人の著作本と共に並んでいたのである。
紀伊国屋の担当者は、私の本はベストセラーになるような本ではないけれど、一定数は必ず売れる、として陳列してくれていたのである。
ある日、陳列棚から消えていたので、担当者に理由を訪ねた。
「一定数は必ず売れると確信していたのですが、予想外の販売不振だった…」
読者はご存じのように、それは全く当然の結果だったのである。
何故なら、私は、言論界では全く無名の人間である。
おまけに、親しい知人や読者はご存じの理由で、仕方なく、芥川賢治のペンネームで登場したから猶更である。
本名で登場していたならば、ビジネスを通じて知り合った幾多の知人、友人が必ずや購入してくれていたはずでもある。
2011/6/1に本欄で12/1に出版が決定した事を告知し、ご購入の案内を書いて発表した。
この時点での本欄の状況は、the turntable of civilizationと検索すると、検索数2,000万件超で、1ページから70ページ超まで、本欄の各国語の章で埋められていた。
それが、件の犯罪者が、各ブログ運営会社で軽く100件超の「運転代行」だとか「秘書代行」だとかのブログを作成し、本欄に対して、逆SEO攻撃の犯罪を開始して来た。
愚劣で支離滅裂な内容のブログ案内が書かれた後に、掲載してあるのは、本欄の各章を勝手に無断で掲載しているだけのブログ。
そんなもので、検索結果の1ページから10ページまでを埋め尽くしてきた。
忽ち、本欄は検索数は1/100に激減。
更に、この犯罪者は、ツイッターで、「芥川賢治ことキサラさんという悪徳作家」だとか「芥川賢治ことキサラさんという悪徳不動産屋」等と、とんでもない犯罪行為を開始しだした。
簡単に言えば、商店街の片隅に、全く無名だけれども、本物の和菓子屋があった。
インターネットの時代である。誰もがスマホを有している。
このような犯罪者が、「あの店の材料は〇〇でできている」等の誹謗中傷を書きたてて来たら、その和菓子屋は忽ち倒産するだろう。
私は、本書を再読して痛感したのである。
この本は、紀伊国屋梅田本店の担当者が見抜いた通り、名著である。
この名著が、件の犯罪者によって葬り去られた事は、21世紀の世界と人類に対する許しがたい犯罪である。
私は、これまで自分の本に対して、照れくさい気持ちを、いつも持っていた。
だから、そんなに読み返す事がなかった。
それもまた大いなる損失だった事を再認識した。
私の本は、約1年間、紀伊国屋梅田本店の社会経済の棚に、故・堺屋太一や高橋洋一さん等の名立たる言論人の著作本と共に並んでいたのである。
紀伊国屋の担当者は、私の本はベストセラーになるような本ではないけれど、一定数は必ず売れる、として陳列してくれていたのである。
ある日、陳列棚から消えていたので、担当者に理由を訪ねた。
「一定数は必ず売れると確信していたのですが、予想外の販売不振だった…」
読者はご存じのように、それは全く当然の結果だったのである。
何故なら、私は、言論界では全く無名の人間である。
おまけに、親しい知人や読者はご存じの理由で、仕方なく、芥川賢治のペンネームで登場したから猶更である。
本名で登場していたならば、ビジネスを通じて知り合った幾多の知人、友人が必ずや購入してくれていたはずでもある。
2011/6/1に本欄で12/1に出版が決定した事を告知し、ご購入の案内を書いて発表した。
この時点での本欄の状況は、the turntable of civilizationと検索すると、検索数2,000万件超で、1ページから70ページ超まで、本欄の各国語の章で埋められていた。
それが、件の犯罪者が、各ブログ運営会社で軽く100件超の「運転代行」だとか「秘書代行」だとかのブログを作成し、本欄に対して、逆SEO攻撃の犯罪を開始して来た。
愚劣で支離滅裂な内容のブログ案内が書かれた後に、掲載してあるのは、本欄の各章を勝手に無断で掲載しているだけのブログ。
そんなもので、検索結果の1ページから10ページまでを埋め尽くしてきた。
忽ち、本欄は検索数は1/100に激減。
更に、この犯罪者は、ツイッターで、「芥川賢治ことキサラさんという悪徳作家」だとか「芥川賢治ことキサラさんという悪徳不動産屋」等と、とんでもない犯罪行為を開始しだした。
簡単に言えば、商店街の片隅に、全く無名だけれども、本物の和菓子屋があった。
インターネットの時代である。誰もがスマホを有している。
このような犯罪者が、「あの店の材料は〇〇でできている」等の誹謗中傷を書きたてて来たら、その和菓子屋は忽ち倒産するだろう。
私は、本書を再読して痛感したのである。
この本は、紀伊国屋梅田本店の担当者が見抜いた通り、名著である。
この名著が、件の犯罪者によって葬り去られた事は、21世紀の世界と人類に対する許しがたい犯罪である。
神仏は尊ぶが、神仏に頼まず 2011/3/24
昨夜、いつもより早めに眠ったら、当然のように早めに目が覚めた。
テレビを観て思ったことは、これまでのテレビ(特に民放)と言うのは政治家の記者会見やらぶら下がり会見に、5局及び新聞社等が群がっての記者会見。あとはお笑い番組。
ワイドショー悸の類もお笑い番組と定義しても大差はない。
そして定型的なドラマ。
国の中枢である大企業や中小企業、日本には様々な分野で世界のトップシェアを占めたり、世界を股にかけて日夜奮闘している企業群があり、それが国家を作っている訳だ。
政治は極端に言えば、企業群の活躍や様々な労働者を補佐するものと言っても過言ではあるまい。
お上意識なんぞは本末転倒。
悪人という存在をなくせないのが人間の宿命のようにしてあるから、警察は必要。
本来は必要悪のようなもの。
でも、それは警察や検察が、国を作っているのだなどという方向に行ったらおしまいだろう。
番犬が吠えるのは当然だが、俺が主人だとして床の間の真ん中に座ることなどあり得ないのだから。
国にしても同じことだろう。
自らの労働が国民の食料を作ったり、利益を生み出しているすべての労働者が主人であって、労働者が納めた税金で飯を食っている者は、番犬と言っても過言ではないだろう。
(国家とは自国の労働者を守るための番犬である)……私の、今朝のつぶやき。
政治家の顔とお笑い番組だけで、主人たちの生活がない。
主人たちが何をしているのか、どんな問題を抱えているのか、外国の情勢は、今どうなのか。
外国は何を考えているのか、商機はどこにあるのかetc.。
放映すべきは山ほどあるだろう。
しかも経済は生き物で、日々刻々変わってゆくものだから、番組を作るのが追いつかないほど題材は無限にあるはずだ。
さらに、ビジネスの原点としての人間の哲学、哲理についても、当然ながら語らなければならない。
テレビや新聞は、本来じっとしている暇もないほど、忙しい職場のはずだ。
主人の顔がさっぱり見えず、番犬や余興の芸人やらばかりを映していたら、物事が、何をなすべきかが見えなくなるのは当然ではないか。
労働者だって、全体を観ながら仕事をしているのは10%に満たないエリートであって、90%は自分の持ち場のことしか見えないのだから。
マスコミやメディアと言われるもののなすべきことは、我が国のすべてのありよう(すべての分野を網羅した)や、諸外国の実情や、刻々の政策を伝える歴史や、そこから生まれる国民感情etc.だ。
政治屋の顔と、お笑いタレントの顔ばかり映して来た二十年超が生み出したのが、三月十一日以前の日本だ。
先進国史上初めての長期デフレに沈んでいた日本だ。
元気だったのが政治屋と芸人とテレビ関係者だけだったのは、そう言うことだったからだ。
本物として自分を確立し、世界を正しく認識できなかったら、人生は、闇の中の魑魅魍魎だ。
ありとあらゆる悪に忍び込まれ、たった一度の人生を無駄にするのみならず、終いには戦争しかない。
宮本武蔵は言った。
「われ、神仏は尊ぶが、神仏に頼まず」と。
昨夜、いつもより早めに眠ったら、当然のように早めに目が覚めた。
テレビを観て思ったことは、これまでのテレビ(特に民放)と言うのは政治家の記者会見やらぶら下がり会見に、5局及び新聞社等が群がっての記者会見。あとはお笑い番組。
ワイドショー悸の類もお笑い番組と定義しても大差はない。
そして定型的なドラマ。
国の中枢である大企業や中小企業、日本には様々な分野で世界のトップシェアを占めたり、世界を股にかけて日夜奮闘している企業群があり、それが国家を作っている訳だ。
政治は極端に言えば、企業群の活躍や様々な労働者を補佐するものと言っても過言ではあるまい。
お上意識なんぞは本末転倒。
悪人という存在をなくせないのが人間の宿命のようにしてあるから、警察は必要。
本来は必要悪のようなもの。
でも、それは警察や検察が、国を作っているのだなどという方向に行ったらおしまいだろう。
番犬が吠えるのは当然だが、俺が主人だとして床の間の真ん中に座ることなどあり得ないのだから。
国にしても同じことだろう。
自らの労働が国民の食料を作ったり、利益を生み出しているすべての労働者が主人であって、労働者が納めた税金で飯を食っている者は、番犬と言っても過言ではないだろう。
(国家とは自国の労働者を守るための番犬である)……私の、今朝のつぶやき。
政治家の顔とお笑い番組だけで、主人たちの生活がない。
主人たちが何をしているのか、どんな問題を抱えているのか、外国の情勢は、今どうなのか。
外国は何を考えているのか、商機はどこにあるのかetc.。
放映すべきは山ほどあるだろう。
しかも経済は生き物で、日々刻々変わってゆくものだから、番組を作るのが追いつかないほど題材は無限にあるはずだ。
さらに、ビジネスの原点としての人間の哲学、哲理についても、当然ながら語らなければならない。
テレビや新聞は、本来じっとしている暇もないほど、忙しい職場のはずだ。
主人の顔がさっぱり見えず、番犬や余興の芸人やらばかりを映していたら、物事が、何をなすべきかが見えなくなるのは当然ではないか。
労働者だって、全体を観ながら仕事をしているのは10%に満たないエリートであって、90%は自分の持ち場のことしか見えないのだから。
マスコミやメディアと言われるもののなすべきことは、我が国のすべてのありよう(すべての分野を網羅した)や、諸外国の実情や、刻々の政策を伝える歴史や、そこから生まれる国民感情etc.だ。
政治屋の顔と、お笑いタレントの顔ばかり映して来た二十年超が生み出したのが、三月十一日以前の日本だ。
先進国史上初めての長期デフレに沈んでいた日本だ。
元気だったのが政治屋と芸人とテレビ関係者だけだったのは、そう言うことだったからだ。
本物として自分を確立し、世界を正しく認識できなかったら、人生は、闇の中の魑魅魍魎だ。
ありとあらゆる悪に忍び込まれ、たった一度の人生を無駄にするのみならず、終いには戦争しかない。
宮本武蔵は言った。
「われ、神仏は尊ぶが、神仏に頼まず」と。
2024/12/2 in Kyoto