夢窓疎石
建治元年(1275)11月1日、伊勢国(三重県)に生まれた。父は源氏の流れをくみ宇多天皇の九世の孫という佐々木朝綱、母は平氏の出身である。疎石四歳の時、一家は甲斐国(山梨県)に移住したが、この年の8月に母を亡くしている。しかし、母によって信仰的に薫育された疎石は、仏像を見れば拝み、お経を唱えていたという。弘安6年(1283)九歳の疎石は父に連れられて平塩山の空阿を訪れた。疎石は空阿のもとで仏典や孔子・老子の典籍などを学び、10歳の時には七日で「法華経」を読誦して母の冥福を祈り、人々はその非凡さを嘆じた。
正応五年(1292)18歳で奈良に行き、東大寺戒壇院の慈観律師に従って受戒した。その後さらに遊学してより深く仏教の教学を学んだが、天台教学の講師が死に臨んで苦しみ、醜態をさらすのを見て、学問的研究だけでは生死の問題を解決することはできないと悟り、禅の教えに傾倒していった。
そんなある日、疎石は夢の中で中国の疎山・石頭を訪れ、そこでであった僧から達磨大師の像を預かり、「これを大切にするように」と言われる。目覚めた疎石は自分が禅宗に縁があると考え疎山・石頭から一文字ずつとって疎石と名乗り、夢の縁から夢窓と号したという。
20歳になった疎石は京都に上がり、建仁寺の無隠円範について禅の修行に入った。翌年10月には鎌倉にて高僧に歴参し、いずれの師にもその聡明さを賞賛された。永仁5年(1297)京都建仁寺の無隠に再び侍すが、8月、一山一寧が来日すると、すぐに教えを受けている。正安元年(1299)、一山が鎌倉建長寺に住することになると、疎石も従い、諸家の語録を学び修行を重ねていった。
正安2年(1300)秋、疎石は出羽国に旧知の人を訪ねようとしたが、その人の訃報を聞き、途中にある松島寺にとどまった。当時この地に天台止観を理路整然と講じる一人の僧がおり、疎石もこれを聴講して悟るところがあったが、それはそれまでに聞き学んだ教えが開発されただけで、真実の悟りはやはり禅によるべきであると考えるに至った。
嘉元3年(1305)、疎石は常陸国臼庭に行き、小庵で坐禅三昧の生活を始めた。ある夜、疎石は長時間の坐禅から立ち上がり壁にもたれようとしたが、暗かったために壁のないところにもたれてしまい転倒し、その拍子にすっきりと悟りを得ることができた。すぐに疎石は鎌倉の高峰顕日のもとへ向かい悟ったところを提示すると、顕日は「達磨の意をあなたは得た。よく護持するように」と讃えたという。
正中2年(1325)春、後醍醐天皇が京都南禅寺の住持に疎石を招くが翌年には鎌倉へ赴きその後2年間円覚寺に住した。長年荒廃していた円覚寺は疎石によって復興している。元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山、また南禅寺住持に再任され建武2年(1335)には夢窓国師の号を下賜されるなど、天皇の疎石への崇敬はますます深くなっていった。この頃、足利尊氏が疎石に対して弟子の礼を執り、疎石は尊氏を悔悟させるため怨親平等を説き、安国寺利生塔の建立を勧めた。
暦応2年(1339)8月に後醍醐天皇が崩じると、尊氏は疎石の進言を受け天龍寺の開創事業が始まり、康永4年(1345)には後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。観応2年(1351)には僧堂が落成し、疎石は一度は雲居庵に退いたが弟子の教化に当たっている。同年8月の後醍醐天皇十三回忌法要の翌日、疎石は病の兆候を見せて臨川寺に退去し、9月30日、衆生に親しく別れを告げて示寂した。77才であった。疎石の教化を受けた者は13045人いたと伝わり、朝廷からも篤く帰依され、歴朝は疎石の徳を尊び、夢窓・正覚・心宗・普済・玄猷・仏統・大円の七つの国師号を下賜している。