お昼頃少し雨がぱらついた程で、暑くもなく、寒くもなく、過ごしやすい一日であったように思います。本日は神社の由緒について、お話をさせて頂きます。
鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代に創祀されたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入江の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正倉院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央一丈余りの高所に、はるばる太平を望むかの如く鎮座していた。境内は舟の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏のなく、地形も変動して面影はない。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭三十七年に社殿の東側草地を発掘したところ、千五百年以前の地下式住居跡(約七坪)が発見され、また境内の樫の古木は最大のもので樹齢九百年といわれ、座間市原始林の一部であるところから、古代の祭祀遺跡が埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日をしのばせる。明治6年12月、神奈川県下二十大区、二十七ヶ村(座間市入谷村、座間宿村、新田宿村、四ツ谷村、新戸村、磯部村、下溝村、上溝村、当麻村、田名村、大島村、下九沢村、上九沢村、相原村、橋本村、小山村、清兵衛神田、矢部村、同神田村、渕ノ辺村鵜ノ森村、上鶴間村、下鶴間村、柏ヶ谷村、栗原村、上今泉村、下泉村)の郷社に列せられた。これは現在の座間市、相模原市の全域と大和市と海老名市の一部を占める広域なものであった。さらに昭和四十三年一月、神奈川県神社庁献幣使参向神社となり、現在に至っています。
また当社の御祭神は 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の二柱の神様をお祀りしております。
パンフレットにも由緒が載っております。
本殿前の様子
ゴールデンウイーク頃は新緑の時期でもあり、とても境内は気持ちいいです。お近くにお越しの際は、是非お立ち寄り下さい。