鎌倉十橋を勉強していると出てくるのがこの「針磨(はりすり)橋」です。江ノ電の極楽寺の駅から稲村ケ崎への道沿い極楽寺川に架かる橋ですが、現在は流れる川は暗渠になっており注意しないと見過ごします。橋の名前「針磨」の由来も、むかし針金を磨いて針をつくる老婆が住んでいたとか言われてもピンときませんでした。
ところが最近、七里ヶ浜の海岸で砂鉄が取れることが紹介された記事を読み、一気に理解が深まりました。また徳川光圀が編纂を命じた『新編鎌倉志』のなか、「七里濱」の項には次のように書かれています。「この浜に鉄砂あり。黒きこと漆の如し。極細にしていささかも餘の砂を交えず。日に映ずれば輝いて銀の如し。包丁小刀等をみがくに佳なり」 。この編纂にあたった家臣は実際に「鉄砂」を手に取ってみたのでしょう。この箇所の記述は文章がいきいきとしています。
また近くの鎌倉高校では七里ヶ浜の砂鉄から玉鋼(たまはがね)を作る実験をしたとのことです。良質な玉鋼が出来れば日本刀の製造も可能です。推測するに、稲村ケ崎から極楽寺にかけてこの砂鉄を使用して針金を磨いたり、加工して鉄製品を作る職人集団がいたと思われます。そうであれば「針磨橋」の名の由来も腑に落ちます。
『新編鎌倉志』にはもう一つ興味深い記述があります。「金洗澤は七里濱の内。行合川の西の方なり。此の所にて昔金を掘りたる故に名づく」。 実際に金が採掘されたとは考えられませんが、何かロマンを感じて楽しいですよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます