『吾妻鏡』によれば正治二(1200)年一月十三日に栄西を導師にして頼朝の一周忌が行われました。同年閏二月十二日には、「尼御台所(北条政子)の御願として伽藍を建立せんがために亀谷の地を點じ出さる。」 そして十三日には、「亀谷の地を葉上房栄西に寄付せられ、清浄結界の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆らその地に行道す。施主(政子)監臨したまふ。・・・同舎(壽福寺)栄作の事始めなり。」 と北条政子の希望で栄西を開山として壽福寺が建立されました。
また源実朝とは、建保二(1214)年二月大四日「将軍家いささか御病惱。諸人奔走す。ただし殊なる御事なし。これもしは去夜御淵酔の餘気か。ここに葉上僧正御加持に候ずるのところ、この事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召し進ず。しかうして一巻の書を相副へ、これを献じせしむ。茶徳を誉むるところの書なり。将軍家御感悦に及ぶと云々。」 栄西が『喫茶養生記』を実朝に献上した行ですが、栄西と実朝の親しさが伝わるエピソードです。
このような栄西に係る記事は、建保三(1215)年6月小五日の「壽福寺長老葉上僧正栄西入滅す。痢病によってなり。結縁と称し、鎌倉中の諸人群集す。遠江守(源親広)、将軍家の御使として、終焉の砌に莅むと云々。」 と栄西の死をもって最後となりますが、随所に出てきます。『吾妻鏡』については元寇以後の13世紀後半に編纂されたと言われていますが、一つ一つの記事を見ると日時、天気、出来事、登場人物が具体的かつ詳細に書かれており、少なくともその土台となる日記は間違いなく存在したと思われます。これだけ栄西のことが記録されているということは、鎌倉幕府にとって栄西が単に宗教上の結びつき以上の存在で、無視できない人物であったことは間違いないでしょう。また壽福寺も北条政子や実朝そして後に執権となる北条泰時もたびたび訪れたサロンのようになっていたのではないでしょうか。
あくまでも私見ですが、栄西がいたこと、栄西の国際感覚を政子や実朝、歴代の北条執権が学んだこと、栄西のもたらした臨済宗により後日、蘭渓道隆や無学祖元といった中国の高僧を招聘できたことが、なにか鎌倉幕府にとって大事なイベントだったと思われてなりません。
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