北条泰時シリーズの続きです。今回は御成敗式目(貞永式目)を取りあげます。日本史の授業で習った以来の言葉であまり馴染みがありません。北条泰時が執権の時、貞永元年(1232)に制定されました。全部で51か条。最初は神社・お寺のことからはじまり、刑法、民法、訴訟法などで構成されています。なお『吾妻鏡』には次のように書かれています。
八月十日。武州(泰時)の造らしめたまふ御成敗式目その篇を終へらる。五十箇条なり。今日以後の訴論の是非は、固くこの法を守りて裁許せらるべきの由さだめらるると云々。これすなわち淡海公(藤原不比等)の律令に比すべきか。かれは海内の亀鏡、これは関東の鴻宝なり。
亀鏡(きけい)とは、よりどころとなる模範のこと。鴻宝とは、大きな宝のことです。ここで注目していただきたいのは、『吾妻鏡』ではかの藤原不比等の大宝律令と対比して関東の大きな宝と言っています。以前にも書きましたが、梅原猛は藤原不比等は律令国家の基礎を作り上げ、『日本書紀』や『古事記』を書かせた人物として紹介しています。その不比等と比べ『吾妻鏡』は泰時をずいぶん持ち上げています。私もここから江戸時代まで700年近く続く武家政権の基礎を作り上げたのは、源頼朝や政子の意思を継ぐ北条泰時ではなかったかと密かに思っています。そして承久の乱が天皇や貴族が支配する政治から武家政治のターニングポイントではないかと・・・。
さてこの御成敗式目は鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が公卿になるタイミングに合わせて制定されました。官位が従三位となれば政所を開設でき、頼経は実朝がそうしたように自ら政治を行うことができます。御家人たちにとっては、この公家将軍が理非の成敗権を持ち、自分たちを裁く決定権を持つことが許せなかったのでしょう。
写真は成就院からみた由比ガ浜から材木座の海岸です。こんな狭い土地に150年ものあいだ政治の中心があったとは・・・。不思議な気がしますね。
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