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極楽寺坂について、司馬遼太郎の『三浦半島記 街道をゆく42』のなかで、「どうも『とはずがたり』の二条尼は、坂の名を取りちがえて記憶していたのではないか、と思った。坂の名を、化粧坂だと思っていたようである。」と書かれています。また『とはずがたり』には、「化粧坂といふ山をこえて鎌倉のかたを見れば、東山にて京を見るにはひきたがへて、きざはしなどのやうに、重々に、ふくろの中に物を入れたようにすまひたる、あな物わびしと、やうやうみえて、心とどまりぬべき心ちもせず。」とあります。しかし私は以前ブログで作者の記憶違いというより、そもそも実際に見える二つの景色に違いがあると考え、結論は持ち越しになっていました。
あらためて岩波文庫の『問はず語り』(玉井孝助校訂)を読んでみますと、八〇 八橋・熱田のところで、「さて熱田から八橋へつづけた道順は逆である。後年の思い出を記したのだから、記憶の誤かも知れないが、しかし作者は道中案内記を書くのが目的でないから、道順など、それほど意にとめず、所々で詠んだ歌を中心にして、その所々の思い出を書き留めたもの、これを記憶の誤などと取りあげるべきではなかろう。」と玉井氏は解説しています。
どうも最近、重箱の隅をつつくようなことに喜びを感じている自分がいるなと・・・反省しきりです。作者の記憶違いは、少しもこの文学の素晴らしさを損ねるものではないと、この一文を読んで納得しました。
写真は、4月8日の極楽寺の花祭りの日に写したもの。普段は境内撮影は禁止ですが、お手伝いの方にお許しいただきました。『とはずがたり』の作者が極楽寺に到着したのは旧暦の三月二十日すぎ。新暦なら四月中頃。ちょうど桜の花も見頃だったかもしれません。
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