神護寺の国宝伝源頼朝像は日本史の教科書にも掲載されており、多少勉強した人なら知らない人はいないほど、有名な似絵です。ただ最近になってこの絵は源頼朝を画いたものではないという説があり、私も頼朝を解説するのにこの伝源頼朝像を封印して甲斐善光寺の頼朝像を使うようにしています。このことをご本家の神護寺はどう考えているのか?神護寺のホームページにその答えが掲載されていましたので、拾い読みしてみましょう。
そもそもこの伝源頼朝像は、後白河法皇が文治六年(1190)に御幸されるのに先立って、その2年前に仙洞院を建立し、建久三年(1192)の後白河法皇崩御後、有名な似絵が室内に掛けられ、『神護寺略記』によれば、後白河法皇以下5人の名前が明記されていました。中央が後白河法皇、その左右に源頼朝、平重盛、下座に平業房、藤原光能で、いずれも視線を法皇に向け、お仕えする形に配されていたようです。このうち、法皇像は室町時代の写し、業房像は現存していません。さてここから異説の話。
近年新聞などにY氏(HPには本名が記されている)発表の新説が掲載され、十分な検証もなく、ある出版社などは足利直義像だと表記しているとのこと。実は私もこれを信じ、足利直義を説明する際に使おうとしていました。幸いまだ説明する機会はありませんが・・。神護寺はこの新説を否定し、この伝源頼朝像の表記を変更する必要はなく、製作時期も13世紀初頭をくだらいないとしています。
しかしY氏は、妙智院所蔵の無等周位筆「夢窓疎石像」を取りあげ、表現が似ている点をとらえ、『東山御文庫』文にある足利直義が康永四年(1345)に尊氏像とともに奉納したものだとしています。どうもこの説は十分に証明できるものではないようで、神護寺内外に尊氏、直義像が納められた記録がないことを根拠としています。さてどちらに軍配が上がるかよく分かりませんが、後白河法皇とともに掛けられた似絵であること、神護寺の再興に源頼朝は援助していること、文覚上人と頼朝との関わりなどから判断すれば、伝源頼朝像であって欲しいと思います。
さて神護寺の寺宝のなかに北条政子が文覚上人の弟子である上覚にあてた手紙がのこっています。その内容は、政子の子大姫と木曽義高の話で、大姫が義高のことを思い二十歳近くで亡くなり、そのお悔やみの手紙を上覚から受取り、その礼状だと、ホームページには紹介されていました。これも神護寺だから残っていたのでしょうね。やはり京都を学ばずして鎌倉は語れないと、つくづく思いました。
写真は神護寺の金堂です。ご本尊である国宝 薬師如来立像が安置されています。像高170.6cm、カヤの一材から彫出した一木造りの像です。参拝した時に私ひとりしかいませんでしたので、まじかでゆっくりとお薬師さんを拝むことができました。冊子でみると小さくみえますが、実際にみると、迫力ある容貌とどっしりとした体つきで、その姿に圧倒されました。
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