承久の乱の戦後処理で高山寺に逃げ込んだ敵方の武将やその家族を探索するために命を受けた安達景盛は栂尾の高山寺を探索し、明恵上人を捕縛し、北条泰時のいる六波羅探題に連れてきました。北条泰時はかねてから明恵上人の名声を聞き及んでいましたので、明恵上人を上座に迎え丁重にもてなします。この話は『明惠上人伝記』(平泉洸全訳注 講談社学術文庫)に書かれている話で、『吾妻鏡』には記載されていませんが、ほぼ真実の出来事といわれています。。
さてこの明恵上人ですが、神護寺にいた文覚上人とも関わり、後鳥羽上皇から栂尾の高山寺を賜わり、華厳宗中興の祖とも言われていいます。北条泰時も京都の六波羅探題在任中は明恵上人の元を訪れ、教えを乞い、その後の泰時の政治に影響を与えていますし、捕縛した安達景盛(既に出家し、蓮生房覚智)は明恵上人に心酔し、彼やその家族の生き方に影響したと思われます。
その明恵上人ですが、優れた人物であることは間違いないのですが、彼が中興したという華厳の教えがどんなものか?いろいろ調べても未だに理解できていません。手がかりを得るためいくつかの文献に当ってみました。まず司馬遼太郎『この国かたち 二』にある「華厳」の解説です。
奈良朝は、仏教の時代であった。・・。体系的な思想としては、華厳経だけで、それも奈良朝でも、遅い時期に入った。・・。聖武天皇がこの経に接し、華厳世界の中心的な存在である毘盧遮那仏を「大仏」と「大仏殿」のかたちにして造営したのも、はじめて”体系”に接したことの昂奮のあらわれだったといっていい。 華厳経もまた大乗仏教で、従って釈迦以後の成立なのである。・・。この経典に盛られた思想こそ、のちの日本的思考法や思想の先祖の一つになったいうのが、この稿の主題である。たとえば、一はすなわち多である。多はすなわち一である(一即多、多即一)という言い方。また、一個の米粒をみて、宇宙と人事の一切がこめられている(即応されている)という日本的考え方も、華厳経から出発した。・・。本来の仏教は解脱が目的であって、救済の思想はなかった。・・。劇的なことに、大乗仏教が出るにおよんで、救済が入ったのである。・・。華厳によると、廬毘舎那仏という真理(悟りのすがた)からみれば、仏や菩薩が毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるだけでなく、迷いもまた毘盧遮那仏の悟りのあらわれとされる。人間どころか、草や石、あるいは餓鬼や地獄まで法(毘盧遮那仏)に包摂され、一つの存在がすべての存在をふくみ、また一現象が他の現象とかかわりつつ、無礙に円融してゆくというのである。となると、一切の衆生は当然のありかたとして仏になってゆく。
何とも司馬遼太郎の文からも、私自身、華厳の世界は今一つ理解できませんでした。まだまだ修行がたらないようです。写真は高山寺の明恵上人の開山堂です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます