城願寺の境内には、本堂のほか七騎堂という建物が建っています。この七騎堂に祀られているのは、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、源頼朝、土屋宗達、土肥実平、田代信綱の七武将。この七人が治承四年(1180年)八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びました。土肥実平の子である土肥彌太郎遠平は、『吾妻鏡』によれば、御使として御台所の御方に進ぜられ、別離以後の愁緒を申さると云々と書かれています。
また「七騎落」という謡曲があるようで、その説明書きもありました。
謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と思愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。 石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。 主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大けん禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木造が収められている。
この謡曲に八というのは忌んだ数字で船に乗るのは七騎とありますが、『真名本曽我物語』には源氏にとってハという数字は大変めでたい数字であることか縷々書かれている箇所があります。八幡大菩薩、八正道・・・等々。この謡曲の創作者は八騎でなく七騎にするために悩んだのでしょう。その謡曲が現代まで伝わっているのですから、作者の思いは通じたと思われます。
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