人生悠遊

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鎌倉を知る --北条泰時と実朝。今日は1月27日ーー

2021-01-26 19:17:19 | 日記

『吾妻鏡』によれば、建保七年(1219)1月27日に源実朝は公暁に殺害されました。理解が正しければ今日が命日。実朝愛が高じ、殺害の黒幕を知りたく、太宰治、小林秀雄、吉本隆明、五味文彦、坂井孝一など本を読んでみました。単独犯とか、北条義時や三浦義村の黒幕説など諸説あります。当然ながらどれも断定していませんが、最近私の妄想の世界では義時の子である北条泰時が重要参考人として浮上しております。

泰時は実朝より10歳年上。建保元年(1231)に実朝の学問所番に選ばれ、以後実朝のそばで働いています。そして実朝が暗殺される前年には侍所司5人の別当に選ばれました。三浦義村もその中の一人。また同月に父義時が建立した大倉薬師堂について諫言した話が『吾妻鏡』にあります。事件当時、泰時は37歳で駿河守。『吾妻鏡』には右大臣拝賀式の行列に式部大夫泰時の名前があるだけで、殺害の場面には一切登場しません。これだけでは証拠にはなりませんが、その後の『吾妻鏡』に無視したように実朝のことは殆ど触れられおらず、頼朝、政子、義時は随処に登場します。また暦仁元年(1238)に将軍頼経に随行して上京したとき、実朝室の兄坊門忠信の面会を断ったという記事があります。この忠信は承久の乱のときに朝廷側にいたのですが、政子、義時に命乞いをして助命されました。泰時が実朝を慕っていれば会ってもよさそうなものですが、この面会謝絶の記事は意図的です。

義時の後を引き継いだ泰時の政治は、実朝を反面教師として公家将軍頼経との関係を構築したと思われます。頼経は藤原道家の子で承久元年(1219)に2歳で鎌倉に下向してきました。元仁元年(1224)に政子が死ぬまでは政子が将軍の代わりに親裁権を持ち続けました。泰時は政治の安定を図るため、頼経が元服する時期に評定衆による合議制で親裁権を執権の手に入れ、公卿となる時期に御成敗式目を制定し確固たるものにしています。これが実朝暗殺への泰時の関与とどう結びつくのか?。私はすべての事情を知っていながら、敢て『吾妻鏡』に載せず、沈黙している人物こそ最も怪しいと睨んでいます。そして三浦義村は延暦元年(1239)12月に亡くなるまでそばで泰時を支えてきました。泰時が亡くなったのは仁治三年(1242)6月です。

さて写真はマスクをした鶴岡八幡宮の狛犬。「沈黙は金」ちょっと場所とタイミングが良すぎました。

 

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