人生悠遊

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鎌倉を知る --北畠親房による北条泰時の人物評価--

2022-08-16 09:54:28 | 日記

『吾妻鏡』には北条泰時を顕彰する記事が溢れかえっていますが、この本は北条氏の手によって書かれたと言われており、その内容をどこまで信じたらいいか分かりません。それに対して北畠親房が書いた『神皇正統記』にある泰時評は著者の経歴や、本が書かれた時期が泰時存命の時期とそんなにかけ離れていないことから、ある程度信用できるかもしれません。

まずは岩波文庫の『神皇正統記』(岩佐 正校注)にある解説から北畠親房がどんな人物か探ってみましょう。北畠親房は正応6年(1292)に北畠師重(正三位右衛門督)の長男として生まれました。延慶元年(1308)には16歳で従三位(公卿)。後醍醐天皇は文保二年(1318)に即位していますが、親房は中納言として世良親王の養育係になっています。鎌倉幕府が亡びた元弘3年(1333)には、義良親王を奉じて子息の顕家と陸奥に下向。延元4年(1339)に後醍醐天皇崩御。この年に『神皇正統記』が成立しました。正平6年(1351)に正平の一統がなり、翌正平7年、60歳の時に16年ぶりに京都に戻ってきています。そして正平9年(1354)に62歳で亡くなりました。

北畠親房は若いころから身につけた学問(神・仏・需の三道にわたる広汎な思想体系)、人生から得た体験をなどから帰納し、歴史に照らしてこの世界はどうあるべきかを考え、まさに後醍醐天皇が亡くなった年にこの『神皇正統記』を書きました。内容は書物のタイトルの通り、神代から第96代後村上天皇までの正統記です。正統とは『広辞苑』によれば、正しいちすじ、正しい系統のことです。そんな親房が書いた北条泰時の人物評ですので、まず間違いはないかと思われます。『神皇正統記』第87代、第46世、後嵯峨院の条に泰時のことが書かれています。

・・・。鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすへ奉りぬ。誠に天命也。正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかく聞こえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代わりてはからひ申けるもことはりなり。 大方泰時心ただしく、政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとどめしかば、風の前にちりなくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時がちからとぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其の主たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからず家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや、されどことなる才徳はきこえず。 又大名の下にほこる心やありけむ、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。其政次第のままにおとろへ、ついに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までもたもてるところ彼の余薫なれば、恨ところなしと云つべし。

この北畠親房の文章に北条泰時の人物評価が要約されていると言って過言ではないでしょう。

 

 

 

 

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