6月4日13時から6月5日昼まで京都にある妙心寺の「大攝心(おおぜっしん)」に参加しました。実は帰宅してはじめて「大攝心」の意味を調べるような不届き者で、一緒に参加された熱心な檀家の皆様には大変ご迷惑をお掛けしました。この「大攝心」に参加しようと思った理由は、一つは、妙心寺の法堂の雲龍図(狩野探幽作)の下で参禅できること。二つ目は、『臨済録』提唱を京都にいた時に毎月の座禅会でお世話になった霊雲院の則竹秀南老大師自ら行っていただけること。三つ目は、臨済禅の知識をもっと深めたいと考えたからです。
「大攝心」とは、禅を修行している僧にとっては非常に厳しい行の一つで、毎月1回、7日間禅堂に詰めて坐禅三昧の時間を集中的に過ごすことです。修行の座禅ですから、素人が参禅するのとは違い、両足を膝にのせる結跏趺坐で線香が燃え尽きるまで、約30分間ですが、それを連続して2時間づつ繰り返し坐禅をする修行です。半跏趺坐しかできない私ではその痛さは分かりませんが、気が遠くなるなるくらい厳しいもののようです。その中で「大悟」するのは至難で、夏目漱石でさえ修行途中で諦めました。
私たちが行った坐禅は1日目が夜10時まで1時間づつ3回、翌日は朝4時起床で5時から1時間半の坐禅で、実際の「大攝心」の真似事ですが、「二便往来(トイレ休憩)」という言葉や薬石や粥座の作法など修行の雰囲気を少しだけ感じることが出来ました。そして最後に名前の下に「〇〇〇〇居士」と書かれた修了証書をありがたくいただいて帰宅した訳です。「居士」という文字は位牌だけに使うものと思っていましたが、1日であっても修行を積んで「仏」になったということでしょうか。
ともかく5年前に京都に住み、妙心寺境内を通って通勤し、霊雲院で毎月の座禅会に参加し、「微笑会」の会員になったことで、檀家でもないのにこんな貴重な経験ができたのですから、「ご縁」の不思議さをつくづく感じた二日間でした。
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