湖北(琵琶湖の北部)の雰囲気が何となく好きだ。
この辺りは日本史に何度か登場する地でもある。
朝倉、浅井軍に挟まれ身動きできなくなった信長があわてて京へ逃げ帰ったルートがこの湖北から朽木への道筋らしい。
また信長亡き後、天下取りを秀吉と柴田勝家が争った決戦の地、賤ケ岳があるし、少し東には あの有名な関ヶ原もあるから落ち武者はこの辺りを必死になって逃げたことだろう。
車を進めた日、何故か奥琵琶湖パークウェイは通行止めだったので、脇道のどん詰まりにある隠れ里のような菅浦地区へ入ってみた。
「ようこそ」と書いてあるが道は車を拒む程に狭く余所者が入られない雰囲気がする。もしかしたら落ち武者が隠れ住んだ里なのかも知れない。
珍しいことに こちらの神社には素足で参拝する風習があるようだ。
ある程度写真を撮ったら長居は無用と早々に引き揚げた。
珍しいカタカナのマキノ町を通り、道の駅「籐樹の里あどがわ」で車中泊。
翌日は堅田の浮御堂へ寄った後、比叡山へ上がるのに奥比叡ドライブウェイを通ろうとしたのだが、調べてみると道路の通行料より比叡山坂本ケーブルを使った方が安いことに気がついた。
ケーブル駅に車を置き乗車。このケーブルは二度目だ。途中の山腹には あの土佐日記の紀貫之の墓があったはずだ。
山頂に近い延暦寺駅に付き、あとは坂道を1キロ程歩かなければならない。
新しく御朱印帳を買って御朱印を頂き根本中堂へ入り手を合わせて不滅の法灯を見た。
そうそう、比叡山には延暦寺という寺は無いのを知っていた?
根本中堂も横川中堂も 全部ひっくるめて延暦寺だ。
その比叡を降りて三井寺(園城寺)へ行った。寺域から湧く水を天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使ったことから三井寺と呼ばれるようになったが、かつては山上の延暦寺と抗争を繰り返し何度も焼かれた歴史がある。
だから御朱印をお願いする時に「比叡山で買った御朱印帳で申し訳ないのですが・・・」と云ったらニヤリと笑みを浮かべて「もう気にしていませんから」と言われた(笑)
抗争時、比叡山にいた弁慶が三井寺の鐘を山上へ運ぼうとして傷が付いた「弁慶の引き摺り鐘」なんてものもある。
広大な寺域は様々なロケにも使われているので歩いていて楽しい寺でもある。