本日の高住神社の状況です。
◆雪
◆-5℃
◆積雪量…50cm
朝もやが立つ彦山川。
停滞した雪雲が遠去かり、気温が少しずつ上がり始める兆しでしょう。
北国の風情ただようこの景色もそろそろ見納めですね。
今日は成人の日ですが、コロナ対策で式典を中止や延期する自治体や、成人式への参加を控える呼び声が起きている様子。
田川市郡では前日10日に成人式を行ったようで、参加者が適度にいる地域とあってか、十分に感染症対策に配慮した上で開催することができたようです。
しばらくすれば市政たよりや町報を通じて、新成人の晴れ姿と笑顔を見られることでしょう。
さて、成人式がいつから行われるようになったのか。
戦後間もないときにある地方の町で始まった青年団による成年式がルーツとされ、それが全国に広まり、昭和23年の祝日法によって毎年1月15日が「成人の日」と定められたとのこと。
「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日として、各自治体主催のもと、祝賀の式典を行うようになったのが今の成人式の流れのようです。
今取りざたされているのは、ウイルス感染拡大を防ぐために集会を控えよという理由ですが、たしかに密になる機会を設けることへの是非は問われる内容でしょう。
しかし中には、「分かっていて行くのは、大人としての自覚が足りない」とか、「成人式は歴史が浅いからしなくても良い」といった論調で語る人もいて、それはいかがなものかと疑問に思うところです。
成人式を掘り下げれば、男子の「元服(げんぷく)」、女子の「成女式」に至ります。
元服とは15歳になった男子が行う儀式で、大人の服を着るとともに冠をつける(加冠)の歳。
髪を切って烏帽子をかぶり、刀をもらって成人としての名前をもらうことが許されたのです。そして元服すると神事に参加することが許され、社会教育を受ける。民間にあっては大人の着衣であった褌(ふんどし)の着用ができることから褌祝いなどとも呼ばれるものがありました。
一方、女性はというと13歳前後で成女式となるものが行われ、髪を結い、笄(こうがい)を髪に差し「髪上げの儀」などと呼ばれました。
さらに振り袖から留め袖に着替え、針仕事を習うようになります。お歯黒や眉毛を剃り落としたり、初めて腰巻きを付けることから「湯文字祝い」といわれたそうです。
これらは通過儀礼のひとつですが、日本文化をみると「髪」というのは成長過程を示す重要なファクターで、霊性と深く関わってきます。産まれてからは男女ともに剃り上げ、三歳の髪置の儀でようやく髪を生やし、それ以降は切り揃えたりと童児の髪型・禿(かむろ)で過ごし、元服をもって成人の髪型となります。七つまでは神の子と呼ばれるように霊魂の不安定な幼児期から"人"として完成する「成人」まで、様々な通過儀礼を重ねてやっと人間として認められるようになります。ですから髪型というのは、幼児から童児、大人へと段階を経て変化してゆくものなのですね。
時代とともに元服や成女式の内容は変化していきますが、身体の大人化が進む頃に行われるものであり、それを目に見えるかたちで整えていったということでしょうか。
大人の仲間入り、つまり「一人前」として認めてもらえるというのは、とても喜ばしいものだったようです。
そうした儀式は宮中や貴族社会では1月5日までに、武家社会では1月11日までに行われたようで、ハレの儀式であることから大正月に近い日を選んだのでしょう。
昭和23年に制定された「成人の日」が1月15日とされたのはこれがベースにあり、正月行事と重ならないよう松の内に当たるこの日を選んだと説明されています。
この1月15日という日もまた小正月であり、青年の前途を祝うハレの日にふさわしい日です。
現在は平成12年の改定によって、1月の第二月曜日となりましたが、本来はこうした「大人社会が成人として認め迎え入れる場」が起源という訳です。
今と違って平均寿命も短く、また成人条件も異なっていることから元服と現在の成人式を比較できないように、社会進出の年齢、就学・就職の変化、大人の条件の考え方といった違いさえも数十年前と変わってきているわけですから、成長への通過儀礼の機能を失わせてきた社会にも問題があると考えれば、成人式をイベントとして迎えるからといって彼らばかりを責めるのはおかしな話です。
一人前と認めるのは大人社会の視点。受け入れる我々側の問題でもあります。かつて元服や成女式といった儀を通して社会教育や性知識を学ばせたものの、現在は民法をもって成年年齢を定めているだけです。成年をとっくに迎えた自分自身が、かつて想像し得た成熟した「大人」に達しているか振り返る時があるように、何かの節目で少しずつ大人になるのを実感していくのではないでしょうか。
成人式に出席しようとせずとも、二十歳という節目をもって彼ら自身が大人を自覚しようとしている最中、それに水を差す真似は決してせずに、祝福することで心に込み上げる感情を忘れさせないように、そして大人への成長過程で今日という通過点が思い出として人生の支えになるよう祈念いたします。
(参考文献:『祝祭日の研究ー「祝い」を忘れた日本人へ』産経新聞取材班 2001年 角川書店)
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