高住神社公式ブログ

英彦山豊前坊高住神社の公式ブログです。

5月17日(月)の様子

2021年05月17日 09時47分02秒 | 日別天気・交通情報

本日の高住神社の状況です。

◆15℃

◆雨

 

例年より一ヶ月ほど早い梅雨入り。

ここまで早いのはめずらしく、今年の梅雨はどうなるのか心配。

油木ダムの貯水率が大きく下がってきているので、少しでも早く雨季が来てくれるのは京都平野に暮らす人々にとって念願なところかも知れません。

農家の方に梅雨入りが田植えの目安かと尋ねると、今はそうでもないという返事。

「入梅」というのは、気象上の梅雨入りと農事暦上とでは違うようで、田植え後に行う皆作祈願も例年とほぼ変わらずに予約が入りました。

今でこそダムや灌漑用水、貯水池の設備発達で均一な水量が確保できるようになっていますが、未発達だった時代は不確定な天候のみをたよりにせずに農事暦で目安を設ける、祭り自体もそうした生活サイクルと共にあったのでしょうね。

 

梅雨を集め、獅子の口からの滴りも順調に。

お地蔵さんの赤いニット帽が目を引きます。

 

こちらは馬頭観音像。

同じく獅子の口に祀られており、牛馬安全の祈りを捧げていたのでしょうか。

観音と呼ばれるのに怒った顔をしている、ちょっと不思議な仏様。

一般的に馬頭観音は、街道沿いや村落の辻、峠など「道」にかかわるところで、道中に倒れた馬の供養や旅路の安全を祈るなど、生活に近い環境に祀られることが多いです。

密教では観音菩薩の憤怒身として衆生の無智煩悩を排除し、諸悪を毀壊する存在らしく、適材適所というか、入り口に祀られているのも良い塩梅なのかも知れません。

憤怒相の上で無の表情をしている馬が目印。

 

獅子の口から流れる水が、山の保水力のバロメーター。

早めの梅雨明けになっても水が枯れませんように。

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5月13日(木)の様子

2021年05月13日 14時41分00秒 | 日別天気・交通情報
本日の高住神社の状況です。
◆雨のち曇り
◆12℃
 
撮り貯めておいた動画を編集して、1分ほどのプロモーションビデオに仕上げてみましたのでご覧下さい。
(タイトルセンスがなくてすみません…)

今年は動画制作に挑戦しながら、遠隔地でもここの空気が伝わるよう試していこうと思います。


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諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》・後編

2021年05月12日 10時32分16秒 | 豊日別神考察

前・中・後編と分けた最後後編です。

中篇はちら

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前回のまとめ

四面宮は、
 ①一身四面の筑紫国魂神(国土創生神話)
 ②中央と四峰から成る山容(地形景観)
 ③十丈の身を持つ白蛇化身の四面美女(開山伝承Ⅰ)

 筑紫島の心臓部(信仰的中心)にして、四か国の平定を祈る中央祭祀場であったこと

それを裏付ける理由として
 ④高麗から飛来した四王女と四面大菩薩(開山伝承Ⅱ)
 ⑤高句麗系氏族の渡来(先進文明の流入)
 ⑥風土記譚・天孫降臨・行基伝説(英雄来訪による聖地認定)

といった高度文化を運んできた氏族による繁栄とそれに基づく先進文明が切り開かれていたと思われます。

 

①②③は「此処に存在するもの」、④⑤⑥は「他所から来たもの」という分け方になっています。

土着の文化・信仰があり、そこに他方から持ち込まれた文化・信仰が新たな気風をもたらすというのは、仏教伝来がまさにそうでした。雲仙はかつて比叡山、高野山とともに「天下の三山」と並び称され、比叡山や高野山より百年ほど前にはすでに霊山として信仰されていました。延暦九年(790年)には弘法大師が訪れたという伝説もあり、霊山の信憑性を高める逸話となっています。

ただし、雲仙が仏教霊場として開かれたというとそうではなく、「山岳信仰」の霊山として道を歩んでいます。温泉山満明寺は、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊のあわせて一千坊を抱え持つ一大勢力を持ち、島原半島全域を支配するほどの力を誇っていました。幾度の堂宇焼失に遭うものの、その時々で再建復興を果たしています。
雲仙温泉協会

神仏習合とは、既存の神祇信仰に外から来た仏教が習合(教義等が融合すること)した状態で、山を神聖視する自然崇拝と密教が組み合わさり生まれた「修験道」も、神仏習合の形態のひとつ。雲仙においても修験道が栄えた時代がありましたが、先に述べておくと、キリシタン大名有馬氏による寺社破壊、島原天草一揆などキリスト教伝来の影響が大きな打撃となり、修験道が衰退してしまったために手がかりがほとんどありませんでした。長崎は今でこそ南蛮文化の合流地として知られていますが、新たな文化・信仰が入ってくることは歴史を大きく変革させる要因となるのです。

 
温泉神社総本社から雲仙地獄は近い

 

雲仙の山岳信仰は、雲仙地方に根づいていた信仰に密教が習合した独自の信仰形態を有していました。その根づいていた信仰こそが「四面神信仰」です。

 

◆①《四面信仰は古くは雲仙の温泉神信仰に発します。雲仙岳の文献への初出は『肥前国風土記』で峯湯泉とあり、景行天皇巡航の個所には高来津座の神があり、これにより高来津座神を祀る一群があったとこと考えられます。
平安時代ごろから密教の普及に伴い雲仙に修験道が入り、その道場となると、曼荼羅の世界観のもとに古くらの高来津座神―温泉神を中心として東に阿閦如来、南に宝生如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就を本地仏とする四面神信仰が流布します。
四面神について『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』から金剛界曼荼羅の世界観のなか温泉神を大日如来を中心に、その四方を阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の如来とした五智如来を置いたことがわかります。》
諫早市役所「おうちミュージアム」中世戦国編四面神信仰

 

◆②《四面神は『古事記』国生み神話にみる筑紫島(九州)の一身四面神に由来するといわれ、肥前国を代表する霊山の一つである雲仙岳の神である。その信仰は雲仙岳の山麓各地に広がりをみせており、諫早の四面宮は有力な分社の一つであった。》
長崎県HP>長崎の文化財>諫早市>天祐寺の木造四面菩薩坐像

  ◆①・② 画像転載不可のため、各リンク先をご覧ください

 

四面信仰、または四面神信仰は、『肥前国風土記』(713年)に登場する山の神・高来津座を祀る信仰に始まるとされ、古代の神観念は同族集団(氏族)の先祖を”神”として祀ること、これが氏神の起源であり、引用文に見える高来津座神を祀る一群とは、始祖である高来津座を神として祀る氏族がいたということでしょう。

温泉神(雲仙岳の神格化)は山岳信仰に基づくものであり、温泉山は当初、在来宗教である神祇信仰(四面宮)と外来宗教である仏教(満明寺)の両社寺を祀ることで開かれましたが、平安時代頃に伝わった密教思想(7世紀後半に成立)が温泉神信仰を習合させ、本地垂迹としての四面神本地仏を、阿閦如来〈東〉、宝生如来〈南〉、阿弥陀如来〈西〉、不空成就如来〈北〉とし、その中心にいる温泉神を大日如来として、五智如来を置いたとされています。(◆①より)

 

温泉山縁起』 同山鎮将四面大菩薩縁起

吾大権現四面大菩薩者、 三世常恒法帝四重円壇之聖衆也。 一宮(千々石村)東方阿閦如来、主発菩提心徳、発菩提心霊地立廟祠。 二宮(山田村)南方宝生如来、居福徳荘厳位、山田之幽原祐霊祠。 三宮(諫早村)西方阿弥陀如来、住説法談議之智、説法談議名区構社壇。 四宮(有家村)北方釈迦如来、形成所作智之用、成所作智勝境荘瑞籬。 中宮(温泉山)中台心王大日、遍照曼荼羅之惣徳、輪円妙躰也。
[中略]
所謂一宮者為異賊征伐向于西。 二宮者為逆徒降伏向于北。 三宮者為帝都守護向于東。 四宮者為当国擁護之誓願向于南。
抑奉尋此大菩薩本縁、高麗国有二人王。 一人者善王、一人者悪王。 善王名善大王母、悪王名漢龍王。 彼善大王之女荷葉后者、容貌超于人面勝于世。 奉名娑達宮后、奉嫁漢龍王、結夫婦之儀、為婚姻之礼終有懐妊。 四十日中四人之姫君誕生。 漢龍王不審之余、至四十五日時被御覧、有四人姫君。 成奇特之思奉問事由於荷葉后、其后答云、我是密厳之教主、周遍法界之躰性成。 為群類済度現四仏尊容給。 結法界定印放光大光明。 其時四人姫君出自四方各放光明。 其後漢龍王深任慈悲心、修善根集功徳。 彼四人自高麗指本朝飛来、今四面大菩薩是也。
本地垂迹資料便覧・諫早神社「温泉山縁起」

 

五智如来とは金剛界曼荼羅の金剛界五仏であり、雲仙岳を中心に仏の世界観を見出していました。『温泉山縁起』(諫早神社)には、一宮(千々石村)東方阿閦如来・・・とあるように、雲仙岳を中心に島原半島全体を金剛界曼荼羅になぞらえていたのでしょう。◆②の「天祐寺の木造四面菩薩坐像」は初期女性神像の特徴を継承しつつ、仏教における天部の女神など様々な尊像の要素を取り込んでいるように、密教思想に取り込まれた四面神信仰が仏の姿を取った信仰形態として広まったのだと思われます。

 

長々と引用が続き複雑になってきたので、一度整理しましょう。

  〈1〉四面信仰・四面神信仰は雲仙地方に根づいていた独自の信仰形態である
  〈2〉温泉山(高来峯=雲仙岳)の神は高来津座神であり、高来津座神は一身四面神(筑紫国魂神)を祀る領主(祭主)でもあった
  〈3〉高来津座の系譜の人々(高来郡民=氏族)が氏神として始祖を祀り、高来津座神もまた四面信仰を構成する神格となる
  〈4〉密教伝来(7世紀後半)を受け、島原半島全域を金剛界になぞらえた神仏習合思想が始まる
  〈5〉金剛界五仏は中央雲仙岳と半島四方の四面宮分社(諫早神社含む)に当てられ、本地垂迹説の元で新たな四面信仰が生まれた

 

ここで考えておきたいのは、古代においては山自体を崇拝する原始的信仰であったのに対し、中世は密教的宇宙観に基づいた半島全域を対象とする複合的信仰が展開されたということです。

修験道とは、山岳を神体や仏身になぞらえ、密教的宇宙観の元に入峰・抖擻など様々な修行をすることで、神仏と一体化し超自然的能力(験力)を感得する実践型宗教とも言えます。山自体を崇拝対象とし、その礼拝施設として各地に置かれた四面宮が、中央雲仙岳とともに金剛界曼荼羅の仏尊に当てられるといった信仰の習合と世界観の拡大が、四面信仰を一地方の限られた信仰以上の働きへと底上げしてくれたようです。

先述の通り、雲仙に栄えた修験道の様子を資料を通して知ることは難しくなっています。16世紀半ばにキリシタンが伝来、時の領主有馬晴信は大いにキリシタンを受け入れ、自身も帰依しキリシタン大名として知られるところです。領主有馬氏の積極的なキリスト教布教に対し、温泉山修験道(在来宗教)とキリシタン(外来宗教)とで大きな争いが生まれ、九州戦国社会の不安から天正八年(1580年)に領内の神社仏閣を破壊。このことは薩摩島津氏の家老『上井覚兼日記』に「当郡南蛮宗にて温泉坊中残り無く破滅に候」と記されるように散々たるありさまだったようです。こうしたことから、壊滅は免れたものの温泉山修験道は大きな打撃を受け、往時の勢いを告げる資料は数限りしか残されていないようです。

 

さて、3つめのキーワード「山岳信仰」ですが、今までの経緯から純然とした流れで歴史を重ねてきた訳ではないことが分かるかと思います。山そのものを崇める自然崇拝の時代から渡来民による祖先崇拝が合わさり、そこに密教と習合した山岳霊場が生まれた。複合的重層的にわたる信仰が、空間的広がり(山単体から半島全域へ)時間的広がり(原始信仰から複合的宗教へ)の推移とともに温泉山信仰を変容させていった。その芯の部分にあるのが四面信仰であり、一身四面神=筑紫島の国土神を表すのは雲仙岳そのものだったのではないでしょうか。

雲仙岳は神体山として仰がれ、時に航海の目印または遠征の指標として、半島の中心で息をするかのように噴煙を上げ、時に地を揺らして生物を脅かし溶岩の川を流しては数多の命を奪い、荒涼と異界めいた噴気地帯は根の国(あの世)そのもの。しかしそれと同じくらいに豊潤な水を生み出しては緑を養い生命を育み、温かい泉を湧かしては人々に安らぎを与える。古代人にとって死と生が混在する不可思議な山を、人智を超えた存在=「神」と見ることにそう時間はかからなかったことでしょう。一身四面神の異形な姿も、そうした山の姿・火山活動・生態への影響といったものを人格化神格化したものだと思われます。

なお、既存宗教と外来宗教の融和がキリスト教とではうまくいかなかったのは、宗教観の違いもさながら、宣教師たちは硫黄や硝石といった鉱物資源の湧く山と見做していた節があることから、山に対する意識・観念がまるで違っていたことも理由でしょう。国生み神話が現実にはないと知っている現代日本人でも、古代人とそう変わらず自然への畏敬を持ち続けていられるのは、魂と精神が繋ぐ何かを大切にしているからかも知れません。


満明寺の修験者たちは雲仙地獄を目の当たりにしていたので、功徳を説くのに地獄をありありと表現できたことだろう。


産出される硫黄を狙いイエズス会は雲仙を掌握しようとしたが、他の九州諸大名の勢力に押され諦めざるを得なかった。

 

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 

前編・中編・後編の内容をまとめると、「雲仙地方に根づいていた四面信仰は、国生み神話にて誕生した九州(筑紫島)そのものを祀る信仰の中心的祭祀場として生まれ、古代に雲仙岳(温泉山)を目標に渡海してきた渡来人によって氏族の名が授けられる〈高来峰・高来郡〉。中世には初期仏教をもって神仏両面を尊崇する社寺が行基によって開かれ、さらに密教が伝来し神仏を一体とした修験道が盛んとなる。活発となった信仰は広範囲に勢力が及ぶようになり、神仏習合した姿での四面信仰は諫早を始め島原半島全域に影響を与えた。」

 

ここまでの流れの通り、当初の目的でありテーマである豊日別神の繋がりは“直接的にはない”というのが分かりました。

雲仙には雲仙の成立過程があり、そこに豊国の祖神が個別に登場することはなかったのです。これはここまで調べてみないと分からないことでした。

しかし、雲仙と英彦山を繋ぐ糸はあり、江戸時代に作られたであろう『宣度大先達春峰入絵巻(せんどだいせんだつはるみねいりえまき)』という英彦山修験者の峰入りを描いた絵巻物が諫早に伝わっており、島原半島内にも英彦山・彦山・豊前坊と名づく神社があったりと、並々ならぬ関係性が伺い知れます。
諫早市役所「おうちミュージアム」中世戦国編宣度大先達春峰入絵巻

前編の末に紹介した御館山稲荷神社は直接豊前坊の御霊を勧請したと記され、温泉山修験道と英彦山修験道との交流があったと見做すべきでしょう。

英彦山からも雲仙岳が眺められ、古処山、筑後平野、佐賀平野、太良岳と修験の山を繋ぐルートで往来していたのかも知れません。なぜかその辺りには豊前坊信仰が伝わっているので可能性がまったくないわけではないですね。

 

 

 

だいぶ長くなりましたが、三部に分けて書いた豊日別神考察、諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》編。これで終了です。

四面宮ものがたりや諫早市文化財に新しく指定された仏像など、今年に入らなければ知り得なかった情報があり、執筆に大変有益な資料となりました。

(当文は一私人の考察であり文責は持ちますが、学術的論拠はありませんので読み物としてお楽しみ下さい)

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諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》・中篇

2021年05月11日 17時29分00秒 | 豊日別神考察

長いので中編と後編に分けました。

前編はこちら

----------------------------

 

島原半島の中央にそびえる雲仙岳(1,483M)は、普賢岳・妙見岳・国見岳を中心に、大小二十以上の山々から構成される火山です。

活発に活動する火山として知られ、1990年から1995年にかけて島原地域を襲った「平成の大噴火」の大規模火砕流の凄まじさは、爪跡の悲惨さが物語っています。

その際に生成された溶岩ドームが後に「平成新山」と名づけられ雲仙岳最高峰となったことから、自然エネルギーの強大さが幾ばくかを理解できることでしょう。

現代においてなお活動し続ける火山雲仙岳は、古代においても格別の信仰を集める山でした。

 

雲仙と豊日別神を繋ぐのに、いくつかのキーワードがあります。

「温泉(うんぜん)」 「渡来人」 「山岳信仰」

諫早神社が「四面宮(しめんぐう)」と呼ばれていたことは前編で説明しましたが、四面宮の大元は雲仙岳にあり、それが現在の温泉神社(うんぜんじんじゃ)です。

御創建は大宝元年(701年)、僧行基によるとされています。天草から雲仙の噴煙を見た行基は求法の地として訪れます。祈願を続けながら山の主を尋ねると、十丈の白い大蛇が現れ、行基を見るなり四面の美女へと姿を変じました。行基が何者かと尋ねると、九州の守り神であると答えたのち輝いて消え去り、このことを時の天皇であった文武天皇に報告したところ、天皇は九州の守り神を祀る寺社を建てよと行基に命ぜられました。それにより大乗院満明寺と四面宮を開山創祀したことが、雲仙の起こりとされています。

(参考:『四面宮ものがたり』環境庁作成「雲仙」PDF雲仙温泉観光協会

先述の諫早神社でも行基の名が登場しましたが、墾田・灌漑開発や貧民救済などの社会事業に取り組むなど、民衆から称えられた宗教的指導者、人徳者として知られていました。後に行基は聖武天皇の信任を得て大僧正の位を戴き、東大寺の大仏造立の責任者に就くなど国家的にも認められ、入滅後は「行基菩薩」と呼ばれ、その功績は様々な逸話を巻き込みながら伝説化して語られるようになるなど、雲仙の始まりにもそうしたものが含まれているのかも知れません。

 

社名の温泉は”おんせん”ではなく「うんぜん」と読みます。

『雲仙』という表記は、昭和9年の国立国定公園指定にあたり、“温泉温泉(うんぜんおんせん)”だと紛らわしいため「雲仙」と改めたことに始まります。

和銅六年(713年)に書かれた『肥前国風土記』高来郡の項

《峯湯泉 在郡南 此湯泉之源出郡南高来峯四南之峯流於東流之勢甚多熱異餘湯伹和冷水乃得休浴其味酸有流黄白土及和松其葉納有子大如小豆令得喫》
(明治初期写『肥前国風土記』写本/早稲田大学文学学術教員 高松寿夫運営「古代和歌」HPより引用)

これに高来峯として雲仙岳の記述が見られ、温泉(おんせん)の湧き出る山として知られていたことが伺えます。行基開山の満明寺は山号を「温泉山(うんぜんざん)」といい、湯の峰として早くから認知されていたようです。

忘れてしまいがちになるのが、温泉神社の元々の社名が四面宮(しめんぐう)ということ。何度も雲仙と温泉の違いを説明していると勘違いをしそうになりますが、明治元年の神仏分離を受け、明治二年(1869年)に「筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)」と変更、のち大正三年(1914年)に現在の「温泉神社」と改称し、県社に列格されます。それに伴い、雲仙・諫早地域に勧請された二十数社の四面宮も、「温泉神社」や地域名を冠した神社へと社名変更され、諫早神社も同様に四面宮からの改称という経緯を辿った神社のひとつというわけです。

湯の湧き出づる峰と信仰始まりの地、これがひとつめのキーワード「温泉(うんぜん)」です。

 

[温泉神社御祭神]

・白日別命(しらひわけのみこと)
・豊日別命(とよひわけのみこと)
・豊日向日豊久士比泥別命(とよひむかひとよくじひねのみこと)
・建日別命(たけひわけのみこと) 
・速日別命(はやひわけのみこと)

 

明治二年に一旦改称された筑紫国魂神社の名で分かる通り、「筑紫島(九州)の国土神」を全て祀る神社という立ち位置で祀られています。

「次に筑紫の島を生みき。この島も身一つにして面(おも)四つあり。面毎に名あり。かれ、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾国を建日別と謂ふ。(※1)ー古事記上巻」
(※1 四面宮会HPには、火の国を速日別、日向国を豊久士比泥別と記しているが、ここでは社史ではなく一般的に知られている古事記原文から引用する)

「身一つにして面四つあり」というのは、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の四国を差し、なぜそれぞれの国の主要地ではなく雲仙の地にまとめて祀られているのかというのは、雲仙の立地に深く関係しています。

中国から渡来する船にとって最初に見える高い山、それが雲仙岳であり、古代人は星や特徴的な地形を渡海目標とする航海術を用いて移動していました。

《航海術の基本は、自分の現在地を知ること、つまり「船位測定」にある。自分が今どこいるのかが分かるからこそ、正しい方向に進んでいるのかを知ることもできる。
 (中略) 最も基本的な船位測定法の1つが、「地文航法」である。これは灯台や山、岬や島など、陸上の目標物を対象にして船位を測定する方法である。古くは、漁師などが陸地の特徴的な地形を目印にする「山アテ」と呼ばれる方法があり、(一部抜粋)》

(参考:日本埋立浚渫協会 umidas 海の基本講座「#013航海術」より)

 

中国大陸から東シナ海を通って日本に渡る目印、「山アテ」として雲仙岳は知られており、そのことから日本山の異称を受けていたようで、九州への玄関のひとつであったのでしょう。島原半島の中心にそびえる雲仙岳は、海上のみならず九州本土からの目印ともなったと考えられます。

『肥前国風土記』高来郡の項には、景行天皇が肥後国玉名郡の長渚浜の仮宮に居た時、雲仙岳を見て、離島なのか陸続きなのか知りたいので調べてまいれと大野宿禰(オホノスクネ)を遣わせると、土地の者が出迎えてくれて「私はこの山の神で、高来津座(※2)という。天皇の使いが来るというのでお迎えに来た。」と言う。このことから高来郡と呼ばれるようになったと、地名の起こりが記されています。
(※2 タカクツクラと読むようだが、サイトによっては異なる読み方があるので注意書きに記す)

ここで2つめのキーワード、「渡来人」です。

神名および地名では高来=たかく・たかきと読ませていますが、“こうらい”とも読めるように、渡来人との繋がりを示唆しています。中国および朝鮮半島から海を渡ってやってきた高い文化を持つ人々は、肥前国風土記(713年)が編纂された7世紀以前には既に訪れており、5世紀末には新羅系秦氏が豊前国に入植し冶金や鋳造など高度な文化をもたらしていたこと《八幡神の始まり》など、渡来集団とその祖先神や崇拝している神が新たな神として土地の物語に組み込まれていくことはめずらしいことではありませんでした。

百済滅亡660年、高句麗滅亡が668年にあり、倭国に多くの人々が亡命してきた歴史からも、7世紀頃には高句麗系氏族が島原半島に居着いていたと想像されます。温泉山満明寺の歴史に、高麗(高句麗)から四人の王女が飛来し、阿蘇大明神の奨めで瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が去った跡地・雲仙岳に鎮座され四面大菩薩となった話が伝えられています。
雲仙には天孫降臨も伝えられ、温泉山縁起によれば、初め雲仙に降臨され、加無之呂(かむしろ・・・神代。当時の島原半島中心地)から肥後国八代に渡ろうにも海が荒れてなかなか渡れず、ようやく八回目で渡海できたことから八代の名がつき、そこから日向国高千穂に向かわれたという伝承があります。
環境庁作成「雲仙」PDF、鶴亀城址と神代の由来案内板より)

 

雲仙岳主峰群の山容は普賢岳を中心にして四方を取り巻く峰々から成り、その姿から一身四面を想像させたのかも知れません。温泉山の縁起に登場する高麗からやってきた四人の王女、行基開山伝承に出てくる白蛇の変じた四面の美女。共通するのは「四つの顔」

四面宮は、
①一身四面の筑紫国魂神(国土創生神話)
②中央と四峰から成る山容(地形景観)
③十丈の身を持つ白蛇化身の四面美女(開山伝承Ⅰ)

筑紫島の心臓部(信仰的中心)にして、四か国の平定を祈る中央祭祀場であったこと

それを裏付ける理由として
④高麗から飛来した四王女と四面大菩薩(開山伝承Ⅱ)
⑤高句麗系氏族の渡来(先進文明の流入)
⑥風土記譚・天孫降臨・行基伝説(英雄来訪による聖地認定)

といった高度文化を運んできた氏族による繁栄とそれに基づく先進文明が切り開かれていたと思われます。

肥前国風土記による景行天皇行幸では、他の地域では土蜘蛛といった土豪を武力を持って従わせた話が載っているのに関わらず、高来津座は御使いである大野宿禰を丁重に迎えに行ったことと、その名が高来の起こりとなった話から、天皇に恭順する姿勢を示したことで正当な領有者として認められたことを示唆していると思われます。
高来津座の意味を字から読み解くと、《高来(高麗)、津(格助詞。「の」の意)、座(クラ・・・著く場所。貴人の場合は御座所〈おましどころ〉という。)『高麗人の坐す所』といった意味であり、土蜘蛛など野蛮な豪族とは一線を画す存在だったことがその呼称から伺えるのです。

行基を迎えた白蛇化身の四面美女の伝説、高麗から飛来した四王女が後に四面大菩薩と成った縁起を照らし合わせれば、高来津座は高麗から渡来した女性貴人を中心とした集団であり、倭政権と争うことなく雲仙支配を許されたと想像されます。それには倭政権を納得させる何かがあったはずで、3つ目のキーワードに続きます。 

以下、後編へ。

 

 

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諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》・前編

2021年05月10日 11時13分43秒 | 豊日別神考察

豊日別神の存在を考えるにあたり、各地に点在する豊日別信仰を訪ね調査するのを目的とした豊日別神考察。

信仰の断片を拾い上げて点と点を繋げることが究明の糸口となることから、史跡や伝承といった史料ベースに考えていきたいと思います。

 

-----------------------------

 

今回は、長崎県にある温泉神社と諫早神社を訪ねてみました。

(緊急事態宣言発出前の探訪であり、投稿日とは関係ありません。)

 

先ずは[諫早編]から。

諫早神社は、長崎半島と島原半島を繋ぐ諫早市に御鎮座し、『四面宮(しめんぐう)』と称し尊ばれてきた神社です。

御創建は神亀五年(728年)、”九州総守護”として筑紫島〈※1〉の国魂の神々をお祀りしているという謂れがあります。

その九州総守護の神々の一柱として、豊日別神をお祀りされています。

※1…筑紫島(つくしのしま)は現在の九州のことを指し、イザナギ神イザナミ神の国産みで誕生した島。古事記本文に『身一つにして面四つあり』と、白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別との御名がつけられ、国土神、国魂神(くにたまのかみ)として祭祀されている。

諫早神社の御由緒は、平城京・奈良時代の神亀五年、聖武天皇は九州を守護する神社を建てるよう行基に命じ、当地に石祠を建て祀ったことが四面宮の始まりとされています。(諫早神社HPならび『諫早ものがたり』より)

神仏習合の影響が濃く敷地内には真言宗荘厳寺が建ち、諫早地域の氏神として、西郷家・竜造寺家・諫早家など歴代領主に篤く信奉されてきたそうです。

また、長崎半島と島原半島を繋ぐ当地は、長崎街道-諫早街道を結ぶ要所として人の入出も多く、九州諸大名の信仰を集め、諫早地域の中心神社として栄えたそうです。

地元の人々からは「おしめん(四面)さん」と親しみを込めて呼ばれ、諫早地域を中心に長崎県内には四面宮の名がついた神社が25社以上、祈雨や止雨祈願など領民の生活に寄り添った祈りが捧げられてきた神社でしたが、明治初期の神仏分離令を受け、荘厳寺は廃寺(本尊などは近隣の寺へ移設)、四面宮の呼び名も廃され、現在の「諫早神社」へと社名変更が起こり、近郷の四面宮もまた同様に改称が起こりました。これにより「温泉神社」の存在が浮き上がってくるのですが、その話は後半の雲仙編で説明いたします。

こうした歴史により、九州守護の勅願社として始まった四面宮の存在、そして筑紫島国魂神の一柱である豊日別神が祀られている理由がおおよそ掴めたかと思います。

 

 

近年(2021年現在)、情報化とともに多くの人々の耳目を集め、木彫りのアマビエ像もそのひとつ。

アマビエは熊本の海に現れたと記され、熊本の海といえば有明海・八代海のほか、天草諸島が接する天草灘も含まれるからでしょうか、海を共有する諫早地域にも伝承があってもおかしくありませんね。

 

後日、知人より諫早市御館山・稲荷神社の由来を見させて頂き機会を得、その由緒は”僧行基菩薩が、五智光山の山号をもって開基、元禄元年四面上宮を、宝暦元年豊前英彦山の分霊豊前坊を安鎮、幽邃の霊地に京都伏見稲荷の分霊が勘定された” (御守袋裏面由来より)とのことから、いつかの時代には英彦山との繋がり、豊前坊の名も知れ渡っていたことが伺えます。

豊日別神と豊前坊の関係がどのように伝わっていたかは不明ですが、英彦山とは主従関係ではない関係性が見出せそうな気がします。

その辺りは中後編・雲仙編で考察したいと思います。

 

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