本日の高住神社の状況です。
◆雨
◆3℃
霧にけぶる老桜はいつもと違う雰囲気で、幻想的と表現すれば良い響きですが、蟲惑的な妖しささすら感じます。
平安時代には「花」といえば桜を指すほど親しみ愛でられてきた花で、散り際のはかなさは人の心の移ろいやすさや世の無常に例え詠われてきたように、可憐さと別の一面も見出されてきたのでしょうか、遠い昔には、桜の咲く頃に疫神(えきじん)がはびこる、といった説が考えられていました。
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平安時代より以前、律令国家における祭祀の基礎と定められた神祇令(じんぎりょう)では、桜の花が飛散するのに伴って疫神(えきじん)が四方に分散して病(やまい)を起こすという当時の考えより、「鎮花祭(ちんかさい)」という花鎮めのまつりを公的に行っていました。
疫病の正体が分からぬ時代、社会や人々を脅かす災疫は悪神のしわざと信じられていたため、そうした悪神(疫神)を祀ることで鎮めるまつりが鎮花祭です。
律令制が整い始める7世紀~8世紀頃の日本は、数度に渡る疫病流行に見舞われています。《続日本紀・日本紀略》
天平期の天然痘大流行は民衆のみならず朝廷にも影響を及ぼし、災禍から免れるために東大寺大仏造立、国分寺・国分尼寺の創建、幾度に渡る改元など、どうにかして不安な情勢から逃れようとしていたのがうかがえます。
国分寺建立の詔を出した聖武天皇の后、光明皇后は仏教の信仰篤く、施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)という貧窮の病人や孤児の救済施設を建てるなど、今でいう社会福祉に尽くした方でした。
こうした事績からか光明皇后には伝説があり、法華寺の浴室で千の病人の垢を流すと願を立て、最後にらい病の男の膿を口で吸い出すと、その者は阿閦如来(あしゅくにょらい)へと変じたという奇跡譚が伝わっています。
歴史書や伝説からも、天然痘やらい病といった感染症が日常的にあったこと、ときおり大流行を引き起こして社会機能の停滞や世情不安に陥らせていたことが分かります。
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少し話を戻しまして、疫病は悪神の仕業と説きましたが、その悪神とは、政変で殺されたり非業の死を遂げた者の怨霊、御霊(ごりょう)が正体と考えられていました。
それは血で血を洗う権力争いからくる後ろめたさもあったのだろうと想像するのですが、御霊とされた存在に対して、霊廟や社を設けて丁重に崇めたり、位階や諡号を追贈して慰めるなど、祟りを起こした怨霊を祭ることでその怒りを鎮めようとした訳です。
効果のほどはいかにといったところですが、平安時代になると早良親王、橘逸勢、藤原広嗣など、政争での敗者の怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われ、同じように報われぬ最期を迎えた崇徳天皇や菅原道真といった人物もまた、“祟り神的存在”として祀られるようになっていきました。
こうして奈良時代から平安時代にかけて、社会を陥れる疫病は御霊のしわざと信じられるようになり、祇園御霊会(のちの祇園祭・祇園信仰)や天神信仰らに影響を与えたり受けながら夏の祭りとして確立していくのですが、そうしていくうちに公的祭祀であったはずの「鎮花祭」はその役割から公の部分が外れていき、桜の散開とともに疫神が猛威をふるうという考え方は薄れていったようです。
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桜のはかなさが美の象徴と考えられるようになったのは平安時代以降で、戦乱や天災、疫病といった乱れる世の中に末法思想が台頭したこと、死が身近にあったことに命のはかなさや無常観が生まれ、爛漫に咲く桜があっけなく散るさまにもそうしたイメージを重ねたのかも知れません。
その後の文学でも桜はたびたび死のイメージと繋げられ語られてきたりと、現在わたしたちが持っている桜の印象は王朝時代に固まったものと思われます。
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かつて疫神のしわざと考えられてきた疫病も、現在では細菌やウイルスが原因と解明され、予防策や対処法も確立されています。
しかし、受け継がれてきた祭祀を考えるにあたり、目に見えぬものへの恐れが「疫病という祟り」にとなってふりかかるという土俗的な考え方は決して否定してはならず、かつての日本人はこう考えていたという精神性と自然観を読み解くことが必要なのです。
それと同じように、現実や道理を無視して盲目的に祭りを行うことも、未発達な文化への後戻りにしかなりません。
今我々がすべきことのヒントは歴史にあります。過去を学び、そして未来へ語り継ぐことが、今を生きる我々の使命です。
国難に見舞われている今だからこそ歴史を学び、人が招く災禍を起こさぬよう、繰り返さぬよう意識して努めましょう。