前・中・後編と分けた最後後編です。
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前回のまとめ
四面宮は、
①一身四面の筑紫国魂神(国土創生神話)
②中央と四峰から成る山容(地形景観)
③十丈の身を持つ白蛇化身の四面美女(開山伝承Ⅰ)
筑紫島の心臓部(信仰的中心)にして、四か国の平定を祈る中央祭祀場であったこと
それを裏付ける理由として
④高麗から飛来した四王女と四面大菩薩(開山伝承Ⅱ)
⑤高句麗系氏族の渡来(先進文明の流入)
⑥風土記譚・天孫降臨・行基伝説(英雄来訪による聖地認定)
といった高度文化を運んできた氏族による繁栄とそれに基づく先進文明が切り開かれていたと思われます。
①②③は「此処に存在するもの」、④⑤⑥は「他所から来たもの」という分け方になっています。
土着の文化・信仰があり、そこに他方から持ち込まれた文化・信仰が新たな気風をもたらすというのは、仏教伝来がまさにそうでした。雲仙はかつて比叡山、高野山とともに「天下の三山」と並び称され、比叡山や高野山より百年ほど前にはすでに霊山として信仰されていました。延暦九年(790年)には弘法大師が訪れたという伝説もあり、霊山の信憑性を高める逸話となっています。
ただし、雲仙が仏教霊場として開かれたというとそうではなく、「山岳信仰」の霊山として道を歩んでいます。温泉山満明寺は、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊のあわせて一千坊を抱え持つ一大勢力を持ち、島原半島全域を支配するほどの力を誇っていました。幾度の堂宇焼失に遭うものの、その時々で再建復興を果たしています。
(雲仙温泉協会)
神仏習合とは、既存の神祇信仰に外から来た仏教が習合(教義等が融合すること)した状態で、山を神聖視する自然崇拝と密教が組み合わさり生まれた「修験道」も、神仏習合の形態のひとつ。雲仙においても修験道が栄えた時代がありましたが、先に述べておくと、キリシタン大名有馬氏による寺社破壊、島原天草一揆などキリスト教伝来の影響が大きな打撃となり、修験道が衰退してしまったために手がかりがほとんどありませんでした。長崎は今でこそ南蛮文化の合流地として知られていますが、新たな文化・信仰が入ってくることは歴史を大きく変革させる要因となるのです。
温泉神社総本社から雲仙地獄は近い
雲仙の山岳信仰は、雲仙地方に根づいていた信仰に密教が習合した独自の信仰形態を有していました。その根づいていた信仰こそが「四面神信仰」です。
◆①《四面信仰は古くは雲仙の温泉神信仰に発します。雲仙岳の文献への初出は『肥前国風土記』で峯湯泉とあり、景行天皇巡航の個所には高来津座の神があり、これにより高来津座神を祀る一群があったとこと考えられます。
平安時代ごろから密教の普及に伴い雲仙に修験道が入り、その道場となると、曼荼羅の世界観のもとに古くらの高来津座神―温泉神を中心として東に阿閦如来、南に宝生如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就を本地仏とする四面神信仰が流布します。
四面神について『温泉山鎮将四面大菩薩縁起』から金剛界曼荼羅の世界観のなか温泉神を大日如来を中心に、その四方を阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就の如来とした五智如来を置いたことがわかります。》
(諫早市役所「おうちミュージアム」中世戦国編>四面神信仰)
◆②《四面神は『古事記』国生み神話にみる筑紫島(九州)の一身四面神に由来するといわれ、肥前国を代表する霊山の一つである雲仙岳の神である。その信仰は雲仙岳の山麓各地に広がりをみせており、諫早の四面宮は有力な分社の一つであった。》
(長崎県HP>長崎の文化財>諫早市>天祐寺の木造四面菩薩坐像)
◆①・② 画像転載不可のため、各リンク先をご覧ください
四面信仰、または四面神信仰は、『肥前国風土記』(713年)に登場する山の神・高来津座を祀る信仰に始まるとされ、古代の神観念は同族集団(氏族)の先祖を”神”として祀ること、これが氏神の起源であり、引用文に見える高来津座神を祀る一群とは、始祖である高来津座を神として祀る氏族がいたということでしょう。
温泉神(雲仙岳の神格化)は山岳信仰に基づくものであり、温泉山は当初、在来宗教である神祇信仰(四面宮)と外来宗教である仏教(満明寺)の両社寺を祀ることで開かれましたが、平安時代頃に伝わった密教思想(7世紀後半に成立)が温泉神信仰を習合させ、本地垂迹としての四面神本地仏を、阿閦如来〈東〉、宝生如来〈南〉、阿弥陀如来〈西〉、不空成就如来〈北〉とし、その中心にいる温泉神を大日如来として、五智如来を置いたとされています。(◆①より)
『温泉山縁起』 同山鎮将四面大菩薩縁起
吾大権現四面大菩薩者、 三世常恒法帝四重円壇之聖衆也。 一宮(千々石村)東方阿閦如来、主発菩提心徳、発菩提心霊地立廟祠。 二宮(山田村)南方宝生如来、居福徳荘厳位、山田之幽原祐霊祠。 三宮(諫早村)西方阿弥陀如来、住説法談議之智、説法談議名区構社壇。 四宮(有家村)北方釈迦如来、形成所作智之用、成所作智勝境荘瑞籬。 中宮(温泉山)中台心王大日、遍照曼荼羅之惣徳、輪円妙躰也。
[中略]
所謂一宮者為異賊征伐向于西。 二宮者為逆徒降伏向于北。 三宮者為帝都守護向于東。 四宮者為当国擁護之誓願向于南。
抑奉尋此大菩薩本縁、高麗国有二人王。 一人者善王、一人者悪王。 善王名善大王母、悪王名漢龍王。 彼善大王之女荷葉后者、容貌超于人面勝于世。 奉名娑達宮后、奉嫁漢龍王、結夫婦之儀、為婚姻之礼終有懐妊。 四十日中四人之姫君誕生。 漢龍王不審之余、至四十五日時被御覧、有四人姫君。 成奇特之思奉問事由於荷葉后、其后答云、我是密厳之教主、周遍法界之躰性成。 為群類済度現四仏尊容給。 結法界定印放光大光明。 其時四人姫君出自四方各放光明。 其後漢龍王深任慈悲心、修善根集功徳。 彼四人自高麗指本朝飛来、今四面大菩薩是也。
(本地垂迹資料便覧・諫早神社「温泉山縁起」)
五智如来とは金剛界曼荼羅の金剛界五仏であり、雲仙岳を中心に仏の世界観を見出していました。『温泉山縁起』(諫早神社)には、一宮(千々石村)東方阿閦如来・・・とあるように、雲仙岳を中心に島原半島全体を金剛界曼荼羅になぞらえていたのでしょう。◆②の「天祐寺の木造四面菩薩坐像」は、初期女性神像の特徴を継承しつつ、仏教における天部の女神など様々な尊像の要素を取り込んでいるように、密教思想に取り込まれた四面神信仰が仏の姿を取った信仰形態として広まったのだと思われます。
長々と引用が続き複雑になってきたので、一度整理しましょう。
〈1〉四面信仰・四面神信仰は雲仙地方に根づいていた独自の信仰形態である
〈2〉温泉山(高来峯=雲仙岳)の神は高来津座神であり、高来津座神は一身四面神(筑紫国魂神)を祀る領主(祭主)でもあった
〈3〉高来津座の系譜の人々(高来郡民=氏族)が氏神として始祖を祀り、高来津座神もまた四面信仰を構成する神格となる
〈4〉密教伝来(7世紀後半)を受け、島原半島全域を金剛界になぞらえた神仏習合思想が始まる
〈5〉金剛界五仏は中央雲仙岳と半島四方の四面宮分社(諫早神社含む)に当てられ、本地垂迹説の元で新たな四面信仰が生まれた
ここで考えておきたいのは、古代においては山自体を崇拝する原始的信仰であったのに対し、中世は密教的宇宙観に基づいた半島全域を対象とする複合的信仰が展開されたということです。
修験道とは、山岳を神体や仏身になぞらえ、密教的宇宙観の元に入峰・抖擻など様々な修行をすることで、神仏と一体化し超自然的能力(験力)を感得する実践型宗教とも言えます。山自体を崇拝対象とし、その礼拝施設として各地に置かれた四面宮が、中央雲仙岳とともに金剛界曼荼羅の仏尊に当てられるといった信仰の習合と世界観の拡大が、四面信仰を一地方の限られた信仰以上の働きへと底上げしてくれたようです。
先述の通り、雲仙に栄えた修験道の様子を資料を通して知ることは難しくなっています。16世紀半ばにキリシタンが伝来、時の領主有馬晴信は大いにキリシタンを受け入れ、自身も帰依しキリシタン大名として知られるところです。領主有馬氏の積極的なキリスト教布教に対し、温泉山修験道(在来宗教)とキリシタン(外来宗教)とで大きな争いが生まれ、九州戦国社会の不安から天正八年(1580年)に領内の神社仏閣を破壊。このことは薩摩島津氏の家老『上井覚兼日記』に「当郡南蛮宗にて温泉坊中残り無く破滅に候」と記されるように散々たるありさまだったようです。こうしたことから、壊滅は免れたものの温泉山修験道は大きな打撃を受け、往時の勢いを告げる資料は数限りしか残されていないようです。
さて、3つめのキーワード「山岳信仰」ですが、今までの経緯から純然とした流れで歴史を重ねてきた訳ではないことが分かるかと思います。山そのものを崇める自然崇拝の時代から渡来民による祖先崇拝が合わさり、そこに密教と習合した山岳霊場が生まれた。複合的重層的にわたる信仰が、空間的広がり(山単体から半島全域へ)と時間的広がり(原始信仰から複合的宗教へ)の推移とともに温泉山信仰を変容させていった。その芯の部分にあるのが四面信仰であり、一身四面神=筑紫島の国土神を表すのは雲仙岳そのものだったのではないでしょうか。
雲仙岳は神体山として仰がれ、時に航海の目印または遠征の指標として、半島の中心で息をするかのように噴煙を上げ、時に地を揺らして生物を脅かし溶岩の川を流しては数多の命を奪い、荒涼と異界めいた噴気地帯は根の国(あの世)そのもの。しかしそれと同じくらいに豊潤な水を生み出しては緑を養い生命を育み、温かい泉を湧かしては人々に安らぎを与える。古代人にとって死と生が混在する不可思議な山を、人智を超えた存在=「神」と見ることにそう時間はかからなかったことでしょう。一身四面神の異形な姿も、そうした山の姿・火山活動・生態への影響といったものを人格化神格化したものだと思われます。
なお、既存宗教と外来宗教の融和がキリスト教とではうまくいかなかったのは、宗教観の違いもさながら、宣教師たちは硫黄や硝石といった鉱物資源の湧く山と見做していた節があることから、山に対する意識・観念がまるで違っていたことも理由でしょう。国生み神話が現実にはないと知っている現代日本人でも、古代人とそう変わらず自然への畏敬を持ち続けていられるのは、魂と精神が繋ぐ何かを大切にしているからかも知れません。
満明寺の修験者たちは雲仙地獄を目の当たりにしていたので、功徳を説くのに地獄をありありと表現できたことだろう。
産出される硫黄を狙いイエズス会は雲仙を掌握しようとしたが、他の九州諸大名の勢力に押され諦めざるを得なかった。
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前編・中編・後編の内容をまとめると、「雲仙地方に根づいていた四面信仰は、国生み神話にて誕生した九州(筑紫島)そのものを祀る信仰の中心的祭祀場として生まれ、古代に雲仙岳(温泉山)を目標に渡海してきた渡来人によって氏族の名が授けられる〈高来峰・高来郡〉。中世には初期仏教をもって神仏両面を尊崇する社寺が行基によって開かれ、さらに密教が伝来し神仏を一体とした修験道が盛んとなる。活発となった信仰は広範囲に勢力が及ぶようになり、神仏習合した姿での四面信仰は諫早を始め島原半島全域に影響を与えた。」
ここまでの流れの通り、当初の目的でありテーマである豊日別神の繋がりは“直接的にはない”というのが分かりました。
雲仙には雲仙の成立過程があり、そこに豊国の祖神が個別に登場することはなかったのです。これはここまで調べてみないと分からないことでした。
しかし、雲仙と英彦山を繋ぐ糸はあり、江戸時代に作られたであろう『宣度大先達春峰入絵巻(せんどだいせんだつはるみねいりえまき)』という英彦山修験者の峰入りを描いた絵巻物が諫早に伝わっており、島原半島内にも英彦山・彦山・豊前坊と名づく神社があったりと、並々ならぬ関係性が伺い知れます。
(諫早市役所「おうちミュージアム」中世戦国編>宣度大先達春峰入絵巻)
前編の末に紹介した御館山稲荷神社は直接豊前坊の御霊を勧請したと記され、温泉山修験道と英彦山修験道との交流があったと見做すべきでしょう。
英彦山からも雲仙岳が眺められ、古処山、筑後平野、佐賀平野、太良岳と修験の山を繋ぐルートで往来していたのかも知れません。なぜかその辺りには豊前坊信仰が伝わっているので可能性がまったくないわけではないですね。
だいぶ長くなりましたが、三部に分けて書いた豊日別神考察、諫早・雲仙地方と《四面宮信仰》編。これで終了です。
四面宮ものがたりや諫早市文化財に新しく指定された仏像など、今年に入らなければ知り得なかった情報があり、執筆に大変有益な資料となりました。
(当文は一私人の考察であり文責は持ちますが、学術的論拠はありませんので読み物としてお楽しみ下さい)
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