豊日別神の存在を考えるにあたり、各地に点在する豊日別信仰を訪ね調査するのを目的とした豊日別神考察。
信仰の断片を拾い上げて点と点を繋げることが究明の糸口となることから、史跡や伝承といった史料ベースに考えていきたいと思います。
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今回は、長崎県にある温泉神社と諫早神社を訪ねてみました。
(緊急事態宣言発出前の探訪であり、投稿日とは関係ありません。)
先ずは[諫早編]から。
諫早神社は、長崎半島と島原半島を繋ぐ諫早市に御鎮座し、『四面宮(しめんぐう)』と称し尊ばれてきた神社です。
御創建は神亀五年(728年)、”九州総守護”として筑紫島〈※1〉の国魂の神々をお祀りしているという謂れがあります。
その九州総守護の神々の一柱として、豊日別神をお祀りされています。
※1…筑紫島(つくしのしま)は現在の九州のことを指し、イザナギ神イザナミ神の国産みで誕生した島。古事記本文に『身一つにして面四つあり』と、白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別との御名がつけられ、国土神、国魂神(くにたまのかみ)として祭祀されている。
諫早神社の御由緒は、平城京・奈良時代の神亀五年、聖武天皇は九州を守護する神社を建てるよう行基に命じ、当地に石祠を建て祀ったことが四面宮の始まりとされています。(諫早神社HPならび『諫早ものがたり』より)
神仏習合の影響が濃く敷地内には真言宗荘厳寺が建ち、諫早地域の氏神として、西郷家・竜造寺家・諫早家など歴代領主に篤く信奉されてきたそうです。
また、長崎半島と島原半島を繋ぐ当地は、長崎街道-諫早街道を結ぶ要所として人の入出も多く、九州諸大名の信仰を集め、諫早地域の中心神社として栄えたそうです。
地元の人々からは「おしめん(四面)さん」と親しみを込めて呼ばれ、諫早地域を中心に長崎県内には四面宮の名がついた神社が25社以上、祈雨や止雨祈願など領民の生活に寄り添った祈りが捧げられてきた神社でしたが、明治初期の神仏分離令を受け、荘厳寺は廃寺(本尊などは近隣の寺へ移設)、四面宮の呼び名も廃され、現在の「諫早神社」へと社名変更が起こり、近郷の四面宮もまた同様に改称が起こりました。これにより「温泉神社」の存在が浮き上がってくるのですが、その話は後半の雲仙編で説明いたします。
こうした歴史により、九州守護の勅願社として始まった四面宮の存在、そして筑紫島国魂神の一柱である豊日別神が祀られている理由がおおよそ掴めたかと思います。
近年(2021年現在)、情報化とともに多くの人々の耳目を集め、木彫りのアマビエ像もそのひとつ。
アマビエは熊本の海に現れたと記され、熊本の海といえば有明海・八代海のほか、天草諸島が接する天草灘も含まれるからでしょうか、海を共有する諫早地域にも伝承があってもおかしくありませんね。
後日、知人より諫早市御館山・稲荷神社の由来を見させて頂き機会を得、その由緒は”僧行基菩薩が、五智光山の山号をもって開基、元禄元年四面上宮を、宝暦元年豊前英彦山の分霊豊前坊を安鎮、幽邃の霊地に京都伏見稲荷の分霊が勘定された” (御守袋裏面由来より)とのことから、いつかの時代には英彦山との繋がり、豊前坊の名も知れ渡っていたことが伺えます。
豊日別神と豊前坊の関係がどのように伝わっていたかは不明ですが、英彦山とは主従関係ではない関係性が見出せそうな気がします。
その辺りは中後編・雲仙編で考察したいと思います。
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