
冬草にふかくも入るる腕かな きちせあや
季語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)
【冬の草】 ふゆのくさ
◇「冬草」 ◇「冬青草」 ◇「冬草青し」
元々冬草は「枯る」の枕詞であり、さらには恋人の心離れを表すための導入語として用いられたとされるが、現代俳句では枯草は含めない。枯れ色の中で、青々としている冬草のみを指すのである。霜や雪に覆われながらも、精一杯生きる姿が、緑色に象徴され心に沁みる。
例句 作者
冬草や黙々たりし父の愛 富安風生
冬草に黒きステッキ挿し憩ふ 西東三鬼
冬草やはしご掛けおく岡の家 乙二
冬草は絹の手ざはり久女の墓 加藤知世子
母長寿たれ家裾に冬の草 大野林火
荷車を曳く冬の草見つづけて 斎藤夏風
日のあたる冬草父も兄も亡く 大川真智子
冬草に日のよく当たる売地かな 渋沢渋亭
胸あつく冬青草が目にありき 加藤楸邨
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