竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

行く春や心の中の蓑一つ  長谷川櫂 「初雁」

2020-03-31 | 今日の季語


行く春や心の中の蓑一つ  長谷川櫂 「初雁」

心象、心奥ののこる思い蓑とは何だろう
もう春も終わろうとするのに私の心はまだ閉じたままだ
きっとこの蓑は墓場まで運ぶほどの秘密めいた
作者だけが知りえた秘密
あるいは他人には明かせない作者自身の秘事かもしれない
(小林たけし)


【行く春】 ゆくはる
◇「春の名残」 ◇「春の別れ」 ◇「春の限り」 ◇「春の果」 ◇「春逝く」(はるゆく) ◇「春を送る」 ◇「春尽」(しゅんじん) ◇「春尽く」 ◇「春の泊」(はるのとまり)
まさに終わろうとする春。暮れの春と同義であるが、行く春というと詠嘆が加わる。

例句 作者

逝く春や木綿豆腐の生成いろ 楠原幹子
ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ 蕪村
春尽きて山みな甲斐に走りけり 前田普羅
ゆく春の田螺ほろりと沈みけり 小島 健
行春や版木にのこる手毬唄 室生犀星
行春を近江の人とおしみける 芭蕉
ゆく春や四国へわたる旅役者 吉井 勇
ゆく春や屋根のうしろのはねつるべ 久保田万太郎
園の戸に鎖おろす春の名残かな 几菫
ゆく春の阿修羅の声を聴きたしや 大野崇文


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春の海地球に浮きし船の数 渡部ひとみ

2020-03-30 | 今日の季語



春の海地球に浮きし船の数 渡部ひとみ


平易な平凡なおだやかな句との印象をまず受け止める
このままの読みであるわけがなく
二読すると中七のなかの地球がやたら目立って見える
作者にとって地球そのものが宇宙に浮かぶ船なのだ
さすれば宇宙はなんと大きな春の海なのだろう
(小林たけし)



春の海はおだやかでのどか。ひゅーるるると頭上を鳶が飛んでゆくのも嬉しい。寒い北風に封じ込められていた海の中でも生き物たちが動きはじめる。そんな春の海に船の取り合わせは平凡に思えるが、それを「地球」サイズの大きさに広げたことで、暗黒の宇宙に浮かぶ地球そのものもあまたの船を抱え込む船に思えてくる。青く静まる海にどれだけの船が浮かんでいるのか、考えるだけで気の遠くなる思いだが、貨物船、客船、屋形船、ヨットからカヌーまで、それぞれの船に似合いの海の名前、その色を想像してみるのも楽しい。作者は写真家でもあり、CDジャケットの大きさの句集はさまざまな写真に彩られている。掲句には東京タワーを彼方に見下ろした東京の景観が取り合わせてある。こうした構成には、読み手が俳句から広げるイメージを損なわないよう句と写真を組み合わせるセンスが必要なのだろう。ページをめくるたびその妙が楽しめる一冊になっている。『再会』(2008)所収。(三宅やよい)

【春の海】 はるのうみ
◇「春の浜」 ◇「春の渚」 ◇「春の磯」
春の、明るくきらめいている長閑な海。のたり、のたりと静かに悠長な感じ。

例句 作者

春の海のかなたにつなぐ電話かな 中村汀女
春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村
釣糸と繋がつてゐる春の海 太田土男
春の海入渠の船のうすき煙 山口誓子
革命は幻想なりき春の海 神山 貞
春の海けぶるは未来あるごとし 長谷川浪々子
春の海一燈つよく昏れにけり 桂 信子
朝ごとの色確かめつ春の海 小川濤美子
春の浜大いなる輪が画いてある 高浜虚子
春の海かく碧ければ殉教す 岩岡中正
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生娘やつひに軽みの夕桜  加藤郁乎

2020-03-29 | 今日の季語

生娘やつひに軽みの夕桜  加藤郁乎

一読、ドキッとする思い切った表現に目を見張る
上五中七は他の俳句では見ることはあるまい
それでいて風流なおかしみが嫌らしく感じられない
こうしたことを洒脱というのだろう
(小林たけし)


男女のことなどまだ何も知らない「生娘」が、夕桜の下でついつい少しばかり浮かれてしまっている様子に、作者はかなり強い色気を感じている。微笑ましい気持ちだけで見ているのではない。「つひに」という副詞が、実によくそのことを物語っている。江戸の浮世絵を見ているような気分にもさせられる。ということは、おそらく実景ではないだろう。男の女に対する気ままな願望が、それこそ夕桜に触発されて、ひょいと口をついて出てきたのである。「つひに軽みの」という表現にこめられた時間性が、この句の空想であることを裏づけている。もしも事実を詠んだのだとすれば、作者はずいぶんとヤボな男におちぶれてしまう。こういう句は好きずきで、なんとなく「江戸趣味」なところを嫌う読者もいると思う。ただし、上手い句であることだけは否定できないだろうが……。同じ作者の句「君はいまひと味ちがふ花疲れ」も、同じような意味で、かなり好き嫌いの別れそうな作品だ。桜も、なにかと人騒がせな花ではある。『江戸櫻』(1988)所収。(清水哲男)

【桜】 さくら
◇「桜花」 ◇「染井吉野」 ◇「朝桜」 ◇「夕桜」 ◇「夜桜」 ◇「桜月夜」
バラ科の落葉高木。秋の月、冬の雪とともに日本人にとつて、代表的な詩材であり、俳諧において花といえば桜をさす。朝夕夜とそれぞれに味わいがあり、降ってよく照ってよく、万朶の桜、遠桜といくら見ても心尽きぬおもいである。桜には種類多く,山桜,染井吉野、豆桜、八重桜、里桜等々。また場所によつて名の有る桜も多い。左近桜、秋色桜、瀧桜等々。

例句 作者

夜あそびの帰りのさくら仰ぎけり 藤田あけ烏
観音の大悲の桜咲きにけり 正岡子規
夜桜の雨夜咲き満ちたわゝなり 水原秋桜子
晩年とおもひ思はれさくら見る 木附沢麦青
馬なべて馬房に入りし夕ざくら 茂木連葉子
したたかに水をうちたる夕ざくら 久保田万太郎
ひともとの櫻に佇てば濤の音 環 順子
夕ざくら見上ぐる顔も昏れにけり 桂 信子
淡墨桜風立てば白湧きいづる 大野林火
根の国ゆ噴きあがりたる桜かな 西嶋あさ子
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携帯電話は悲しき玩具春の虹  守屋明俊

2020-03-28 | 今日の季語


携帯電話は悲しき玩具春の虹  守屋明俊


「悲しき玩具」は啄木が短歌を称した言葉
携帯電話、スマートフォン、タブレットを多用する人の模様
利用するツールがいつのまないか支配者の側に位置している
春の虹 が唐突でかえって効いているように感じる
(小林たけし)


電車で通勤する毎日、対面の七人掛けの席を見るとスマートフォンをのぞく人ばかりで本を読んだり、新聞を読んだりする人はほとんどいない。かくいう私もタブレットと二つ折りの携帯電話を持ち歩き四角い画面と向き合っているわけで、考えれば携帯電話やパソコンのなかった時代と生活実態が全く違っている。SNSで日々やりとりをする時間は限りなく短縮され、ためいきや愚痴に過ぎないものがとめどなく流されてゆく。春の虹は夢のようにはかなく淡い存在、歌のいろいろを「悲しき玩具」と言った啄木と似た心持ちが携帯電話を握り占める心にはあるのかもしれない。『守屋明俊句集』(2014)所収。(三宅やよい)

【春の虹】 はるのにじ
◇「春虹」 ◇「初虹」
虹は多く夏に見かける現象であるが、春半ばを過ぎると初虹が現れる。春の虹は優婉な趣が深い。

例句 作者

青苔や膝の上まで春の虹 一茶
洗はれしみんなみの戸や春の虹 木津柳芽
春の虹そのあと昏し足洗ふ 野澤節子
初虹や岳陽楼に登る人 尾崎紅葉
春の虹消ゆまでを子と並び立つ 大野林火
武蔵野の森より森へ春の虹 鈴木花蓑
野の虹と春田の虹と空に合ふ 水原秋櫻子
春の虹旅を夢見る子と仰ぐ 堀口星眠
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デッサンのはじめの斜線木の芽張る うまきいつこ

2020-03-27 | 今日の季語


デッサンのはじめの斜線木の芽張る うまきいつこ


春の日差しに作者は絵心を刺激されたのだろう
庭先で写生のデッサンを始めたのだ

じっと庭木を凝視してキャンバスに鉛筆を走らす
とどうだろう
木の芽が作者を意識したかのように気張って見せたのだ
(小林たけし)


季語は「木の芽」で春。絵心のある人でないと、なかなかこうは詠めないだろう。スケッチブックに柔らかい鉛筆で、すっと「はじめの斜線」を引く。木の枝だ。すると、それだけで写生の対象となった眼前の木の芽が、きりりと己を張ったように見えてきたというのである。物をよく見るというのはこういうことであって、それと意識して斜線を引いたおかげで、対象物が細部にいたるまで生き生きと見えてきたのである。いささか教訓めくが、俳句など他の表現においても事は同じで、対象物をよく見て書き、書くことでいっそう対象が鮮やかな姿をあらわす。写生が大事。そうよく言われるのは、この意味からである。ところで、専門家であるなしを問わず、絵をどこから描きはじめるかは興味深い問題だ。掲句は斜線からはじめているわけだが、同じ情景を描くにしても、手のつけどころは人様々のようである。中心となる物からはじめたり、逆に周辺から固めていったりと、描き手によってそれぞれに違う。典型的なのは幼児の場合で、人物を描くときに足のほうからはじめていって、頭をちゃんと描くスペースがなくなり、ちょんぎれてしまうケースは多い。でも、そんな絵に彼らが違和感を覚えないようなのは、やはり彼らの目の位置が低いせいだろう。日常的にも、幼児は大人の頭をさして意識していないのではなかろうか。大人は絵の構図を企むので、簡単には分析できそうもないけれど、私のように下手でも描いてみると、「はじめ」が意外に難しいことがわかる。『帆を張れり』(2006)所収。(清水哲男)

【木の芽時】 このめどき
◇「芽立時」(めだちどき)
万樹ことごとく芽を出す春の季節。

例句 作者

木の芽どき横顔かくも照るものか 山崎為人
夜の色に暮れゆく海や木の芽時 原 石鼎
あおい芽を出し骨粗鬚症の荒樫よ 福富健男
あと味のよい一集に木の芽風 丸山佳子
あら草の芽吹くを拔けば他所の墓 中阪賢秀
いくさあるな婆芽木の雨愛でている 宮田喜代女
いそがしや木の芽草の芽天が下 阿波野青畝
いっせいに芽吹き後れをとっており 松岡耕作
いっせいに芽吹くや時間奔流す 柴﨑公子
いつの間に欅の芽吹き淡々と 木曽郁を
いつも手が濡れて女の木の芽時 松根久雄
からまつの芽吹きを映す子鹿の瞳 大槻玲子(暁)
ぐらぐらと鬼の声する桜の芽 五島瑛巳
そのなかに芽を吹く榾(ほだ)のまじりけり 室生犀星
ひた急ぐ犬に合ひけり木の芽道 中村草田男
ゆつくりと山河膨む木の芽雨 石黒茂雄
わが影をはみでし木の芽月夜かな 吉田未灰
オホーツクへ一本柏木の芽張る 四方花紅
トランペットの一音♯(シャープ)して芽吹く 浦川聡子
一山の霊気を囲む木の芽かな 寺島初巳
一村を統べる欅の芽吹きかな 長谷川春
七竈屋久は激しく芽吹きおり 中井不二男
何んにもないってことはない木の芽吹く 萩原みさ子
倒木のなほ光れるは芽ぶくなり 結城昌治
動かねば何も変わらず 木の芽風 金田めぐみ
吹き鳴らす葦笛芽吹くアルカディア 小橋柳絮
哀愁の街に芽を吹く泥柳 有光米子
壊れそうな母の背を拭く木の芽時 須藤英子
大寺を包みてわめく木の芽かな 高浜虚子
天地の始めのときや木の芽風 秋月和雄
嬰児の一人立ちせし木の芽時 大場得太朗
孤剣に似たる筆一本も芽吹く日ぞ 原子公平
対岸の芽吹き初めをりあばれ川 石寒太
山芽吹くけぶりのごとき残生も 野田哲夫
幾千の夜を溶かして芽木匂う 長崎静江
微震あり木の芽に水のゆきわたる 杉浦圭祐
恋心なくはなしてふ芽吹き急 細谷てる子
改憲論見えてかくれて木の芽立つ 髙瀬塔影
日矢一条芽木の彼方を鹿渡る 十河宣洋
昼月の江戸川過ぎるポーの芽と 山中葛子
智恵子の空木瘤の先の芽吹きかな 源田ひろ江
最初は赤あとはそれぞれ木木芽ぶく 神戸恵美
木々の芽に触れて明日を考える 高木きみ子
木々芽吹き将士しづかに還り来る 藤木清子
木々芽吹く言葉自在に光りくる 脇本よし子
木の芽にはちぎれ雲佳し古街道 中村孝史
木の芽出て山刀伐峠ざわざわす 齊藤美規
木の芽山虹のごとくに日当れり 西藤昭
木の芽時人間の口があひてゐる 神生彩史
木の芽時用心深く髭を剃る 辻脇系一
木の芽晴れ軽いリズムの時計である 笹岡素子
木の芽雨平らなものへ女の目 桂信子

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長閑さや鼠のなめる角田川 小林一茶

2020-03-26 | 今日の季語


長閑さや鼠のなめる角田川 小林一茶

「鼠のなめる角田川」とはよくも言ったり
これ以上の長閑さは存在しないだろう
鼠は水が苦手で死と隣り合わせ
人や猫には目の敵にされていていつも警戒を忘れない
なめているのは川だけではなさそうである
この季節、奴らもどうせのんびりしている
たかをくくった鼠が目に浮かぶ
一茶ならではの観察と洒脱に溢れた一句だ
(小林たけし)



語は「長閑(のどか)」で春。「角田川」は隅田川のことで、「すみだがわ」の命名は「澄んだ川」の意からという。川端を散策していると、ちっぽけな鼠が一心に水を飲む姿が、ふと目にとまった。いかにも一茶らしい着眼で、「ほお」と立ち止まり、しばらく見守っていたのだろう。警戒心を解いて水を飲む鼠の様子は、それだけでも心をなごませるものがある。ましてや、眼前は春風駘蕩の大川だ。小さな営みに夢中の鼠の視座から、視界を一挙に大きく広げて、ゆったりと陽炎をあげて流れる水面を見やれば、長閑の気分も大いにわきあがってこようというものである。小さなものから大きなものへの展開。無技巧に見えて、技巧的な句と読める。角田川と言えば、正岡子規に「白魚や椀の中にも角田川」があり、こちらは大きなものを小さなものへと入れてみせていて、もとより技巧的。比べると、企みの度合いは子規のほうがはるかに高く、この抒情はやはり近代人ならではのものだと思われた。同じ「角田川」でも、一茶と子規の時代では景観もずいぶんと違っていたろうから、そのことが両者の視座の差となってあらわれているとも考えられる。図版は、国立歴史民俗博物館所蔵の江戸屏風絵の部分。うわあ、当時の川は、こんなふうだったんだ。とイメージして一茶の句に戻ると、私の拙い読みなどはどこかに吹っ飛んでしまい、まこと大川端の長閑さが身体のなかに沁み入ってくるようだ。「一枚の絵は一万語に勝る」(だったと思う)とは、黄金期「少年マガジン」のキャッチフレーズであった。(清水哲男)

【長閑】 のどか
◇「のどけさ」 ◇「のどけし」 ◇「駘蕩」(たいとう)
空が晴れて、のんびりとおだやかな春の日を言う。

例句 作者

長閑なる水暮れて湖中灯ともれり 河東碧梧桐
長閑しや角力の並ぶ献血車 平野無石
のどけさや雛子の中の馬の顔 中川宋淵
古寺の古文書もなく長閑なり 高浜虚子
長閑さや浅間のけぶり昼の月 一茶
長閑さや垣の外行く薬売り 夏目漱石
長閑さや出支度すれば女客 素丸
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仏壇の鬼灯は赤今朝の作務  たけし

2020-03-25 | 入選句


仏壇の鬼灯は赤今朝の作務 たけし


仏壇での読経は毎朝かかさない
彼岸中だからというわけではないが
今朝庭から採ってきた鬼灯を供えた
ぽっと灯のようでいつもの仏壇が違って見える

俳句を始めたころの作品
新聞投句で初入選した俳句でもある
今も俳句を続けているのはこの句の手柄かもしれない

入選 2012/11/7 産経新聞 寺井谷子選
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乾きゆく音をこもらせ干若布  笠松裕子

2020-03-24 | 今日の季語


乾きゆく音をこもらせ干若布  笠松裕子

音をこもらせ
この中七の措辞がこの句の骨格だ
干されている若布の景、浜辺の潮風まだが鮮やかだ
(小林たけし)


季語は「若布(わかめ)」で春。井川博年君から、彼の故郷(島根県)の名産である「板わかめ」をもらった。刈ってきた若布を塩抜きしてから板状に乾かして、およそ縦横30センチほどにカットした素朴な食品だ。特長は、戻したり特別な調理をしたりすることなく、袋から出してすぐに食べられるところである。早速食べてみて、あっと思った。実に懐かしい味が、記憶の底からよみがえってきたからだった。子供の頃に、たしかに食べたことのある味だったのだ。ちょっと火にあぶってからもみ砕いて、ご飯にかけたり握り飯にまぶたりしていたのは、これだったのか……。住んでいたのが島根隣県の山口県、それも山陰側だったので、島根名産を口にしていたとしても不思議ではない。それにしても、半世紀近くも忘れていた味に出会えたのは幸運だ。こういうこともあるのですね。そこで、誰かがこの懐かしい「板わかめ」を句に詠んでいないかと探してみた。手元の歳時記をはじめ、ネットもかけずり回ってみたが、川柳のページに「少しだけ髪が生えたか板ワカメ」(詠み人知らず)とあったのみ。笑える作品ではあるけれど、私の懐かしさにはつながらない。そこでもう一度歳時記をひっくり返してみているうちに、ひょっとすると「板わかめ」を題材にしたのかもしれないと思ったのが掲句である。食べるときのパリパリした感じが、実は「乾きゆく音」がこもったものと解釈すれば、「板わかめ」にぴったりだ。いや、これぞ「板わかめ」句だと、いまでは勝手に決め込んでいる。山陰地方のみなさま、如何でしょうか。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)

【若布】 わかめ
◇「和布」(わかめ) ◇「和布刈」(めかり) ◇「和布刈竿」 ◇「和布刈舟」 ◇「和布刈鎌」 ◇「和布刈り」(わかめがり) ◇「和布干す」 ◇「鳴門若布」
わが国特産の海草。黄褐色の海藻で、日本各地の海岸に生ずる。昆布に似る。長さ約1メートル。春、茎の両側に厚いひだができ、胞子嚢を生ずる。食用。竹の先に小さな鎌を付けた若布刈り竿で刈る。2、3月から4月にかけて若布刈りの時節である。古くは若布をただ(め)とも呼んだ。

例句 作者

櫓を揚げて鳴門落ちゆく若布刈舟 山口誓子
あな黒し茣蓙にひろげて棒若布 中西夕紀
一盞の海傾けて若布刈舟 市堀玉宗
潮の中和布を刈る鎌の行くが見ゆ 高浜虚子
若布舟夕照る潮にいまいづこ 水原秋櫻子
子も孫も都に住むと若布干す 茨木和生
風の道陽の道どこも若布干す 星野恒彦
みちのくの淋代の浜若布寄す 山口青邨
和布利桶神代の潮をしたたらす 大江加代子
若布舟大きくうねる中にあり 小林るり子
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蝌蚪生れて月のさざなみ広げたる 峯尾文世

2020-03-23 | 今日の季語


蝌蚪生れて月のさざなみ広げたる 峯尾文世

池か小川の堰のあたりか
月光に光る水面がゆれている
覗き込むと
おたまじゃyくしが
卵から孵って泳ぎだしたところだった
作者の感動は月光にふさわしい
(小林たけし)

季語は「蝌蚪(かと)」で春。蝌も蚪も杓のかたちをした生き物で、蛙の幼生の「オタマジャクシ」のことを言う。さて、いきなり余談になるが、井の頭自然文化園の分園の水生物館で、その名も「水辺の幼稚園」という展示がはじまった。オタマジャクシやメダカ、とんぼの幼虫・ヤゴなどを見ることができる。「水辺の幼稚園」とは楽しいネーミングだけれど、ああ、こうした生き物も、ついに入場料を払って見る時代になったのかと、ちょっと悲しい気分だ。それも、動物園の象や犀などと同じように、本来の環境とは切り離された姿でしか見ることはできないのである。利点は一点、自然環境のなかにいるときよりも格段によく見えることだ。そういうふうに作られた施設だから、それはそれとしても、格段によく見えることで、かえって見えなくなってしまう部分もまた、格段に大きいだろう。たとえば、掲句のような見事に美しい光景は、この種の施設で見ることはできない。春満月の夜、月を写した水面にかすかな「さざなみ」が立っている。これはきっと、いま次から次へと生れている「蝌蚪」たちが立てているのであり、水輪を少しずつ「広げ」ているのだと、作者は想像したのだった。あくまでも想像であり、現実に「蝌蚪」が見えているわけではないけれど、しかしこの想像の目は、やはりちゃんと見ていることになるのだ。「やはり野におけレンゲソウ」。こんなことわざまで思い出してしまった。『微香性(HONOKA)』(2002)所収。(清水哲男)

【蝌蚪】 かと(クワト)
◇「おたまじゃくし」 ◇「蛙の子」 ◇「蝌蚪の国」 ◇「蝌蚪の紐」
カエルの幼生。お玉杓子。卵から孵化して間のないもので、鰓を持ち、水中で生活する。体は卵形。まだ四肢がなく、尾だけで泳ぐ。蛙の子。

例句 作者

ひろしまや蝌蚪には深き地の窪み 野田 誠
蝌蚪ほどの誤植と笑ひとばしけり 能村登四郎
蝌蚪の国ありて牡丹の別の国 森 澄雄
天日のうつりて暗し蝌蚪の水 高浜虚子
川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城
蝌蚪の水とろりと月を映しけり 加古宗也
蝌蚪の紐ゆれて日輪水にあり 五十嵐播水
耳済ましゐる少年と壜の蝌蚪 永方裕子
放埒のおたまじやくしでありにけり 増成栗人
蝌蚪の紐連山雲を放ちけり 川崎陽子
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尖塔になほ空のあり揚雲雀  長嶺千晶

2020-03-22 | 今日の季語

尖塔になほ空のあり揚雲雀  長嶺千晶

作者のポルトガルでの作だというが
句意は平明で、説明は不要だろう
どこまでもどこまでも高く飛んでゆき
雲雀の姿を追う作者までが景に確かだ
(小林たけし)


この尖塔にはポルトガル行六句の前書きがある。牧歌的な農村に広がっているのは麦畑だろうか。そんな畑中にひとかたまりの村落があり、各村落ごとに教区を割り当てられた教会がある。その古びた教会の尖塔の上にはなお高く空が広がっている。その尖塔により強調された空の高みへ雲雀が囀り上ってゆく。そんな高みの中に命の讃歌をさんざんに唄いあげて、やがて雲雀は急転直下落ちて行く。受け止める大地と麦畑がそれを待っている。他に<木犀の香りや不意に話したき><騎馬少女黄葉かつ散る時の中><白鳥といふ凍りつく白さかな>などあり。『つめた貝』(2008)所収。(藤嶋 務)

【雲雀】 ひばり
◇「揚雲雀」(あげひばり) ◇「落雲雀」 ◇「初雲雀」 ◇「朝雲雀」 ◇「夕雲雀」 ◇「雲雀籠」 ◇「叫天子」(きょうてんし)
ヒバリ科の小鳥。春の野に最も親しまれている鳥。雀よりやや大きく、背面は黄褐色の地に黒褐色の斑がある。腹部は白い。日本各地の畑地・草原などに巣をつくり、空中高くのぼってさえずる。初雲雀。揚雲雀。落雲雀。夕雲雀。雲雀野。

例句 作者

揚雲雀妹背山相凭りて 永方裕子
円墳の天より落つる雲雀かな 岩田一止
山かげの夜明けをのぼる雲雀かな 几菫
くもることわすれし空のひばりかな 久保田万太郎
雲雀野に古墳乳房のごと並ぶ 宗像夕野火
真上なるもの昼月と鳴く雲雀 加藤燕雨
雲雀野やこゝに広がる多摩河原 高浜虚子
巻向の野にゐて雨の揚雲雀 藤田あけ烏
雲雀落ち天に金粉残りけり 平井照敏
空すでに明日の雲溜め夕雲雀 田中太朗
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特急の風が手伝う野焼きかな 矢野しげを

2020-03-21 | 今日の季語


特急の風が手伝う野焼きかな 矢野しげを

特急電車が轟音を伴って野焼きにけぶる大野を走る
野焼をけしかけるような、春が威勢よく
確実に近づいている景を感じる
野焼きは野焼きからの命や生活の移りようを詠むものが多いが
この句のような直截的なものは少ない
(小林たけし)


先月21日、高知市から四万十川に向かう途中、土佐市の水車茶屋という渓流沿いの小さな茶店でうどんをいただいていました。鶏が放し飼いで、メジロが木に挿したみかんをつつきにやってくる、のどかな山あいです。店内には、俳句と短歌の短冊が貼ってあり、「満員の特急列車や雪しまく」「無人駅雪割桜の山近し」(しげを)の句に魅かれ、俳句手帖に書き写していると、茶屋のおかみさんが「お客さん、その俳句作った人、携帯で呼んであげるから」と言ってくださり、矢野しげをさんと出会いました。二十年以上の間、短歌を作られてきた方で、「無人駅に貨車連結の音絶えて引込線にゆれるコスモス」は、かつて、タバコの巻紙に混入する石灰石を輸送するために使用されていた引込線を偲ぶ歌です。 矢野さんは、氏のホームグラウンドであるJR土讃線・吾桑(あそう)駅で吟行中だったところを茶屋のおかみさんに呼び出されたしだいで、掲句は、2012年2月21日午後3時当日、出来たての句です。特急列車が轟音を立て、風切って無人の吾桑駅を通過する。沿線の野焼きは、一瞬、燃え盛る。矢野さんは、もう、六十歳を過ぎたとお見受けしましたが、鉄道を憧憬する心の炎は、少年です。「見ると感動し、感動すると見ます。永く短歌ばかりを作ってきましたが、生きている証を残すために、俳句を始めました。」一枚の短冊が、初めての土地で、初めての人を引き寄せてくれました。吾桑駅までご案内していただき、握手をして別れました。(小笠原高志)

【野焼】 のやき
◇「野焼く」 ◇「野火」 ◇「草焼く」
草の生育をよくし害虫を駆除するため、春先に野を焼く。その灰は蕨・薇などの発育を助ける肥料ともなる。

例句 作者

聲高に野焼がへりの勢子らしき 石川星水女
古き世の火の色動く野焼かな 飯田蛇笏
多摩川や堤焼きゐるわたし守 水原秋櫻子
野火放ち男の構えほどかざる 宇咲冬男
駅伝の次の走者は野火の先 伊藤白潮
野火遠し病者のその後思ふとき 岡田晴子
野を焼いて今日新たなる雨降れり 渡辺白泉
眼のごとく石乾きをり野火のあと 新谷ひろし
野を焼く火川と出合ひて猛りけり 藤田あけ烏
大野火を神話の神に奉る 岩岡中正
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雪解くる雨だれ落ちつ雪降れる  小西鷹王

2020-03-19 | 今日の季語


雪解くる雨だれ落ちつ雪降れる  小西鷹王

一読、ちょっと気色の変わった表現の作風だ
題材があまりにも多くて初心者が詠めば
指導者に注意されるに相違ないが
春に近い景と春を待つ作者
時の果断ないうつりようを感じるではないか
(小林たけし)


季語は「雪解(ゆきげ・ゆきどけ)」で春。春先にしばしば見かける情景だが、このようにきちんと詠んだ句は珍しい。屋根に積った雪が解けて「雨だれ」となって滴り落ちている上に、また春の雪がちらちらと降ってきているのだ。「雪解」「雨だれ」そして「雪」と道具立てがややこしいので、短い俳句ではなかなか読み難いところを、苦もなく詠んでいるように写る。こうした技術をコロンブスの卵と言うのだろうが、私は大いに感心させられた。技術だけではなく、全体に春近しの情感がよく滲み出ていて、内容的にも十分である。このような日に、私はときどき窓を開けて外の様子を眺める。雨だれに淡く白い雪が降りかかり、降りかかってはすぐに解けてしまう。そんな情景を眺めながら、寒い冬が嫌いなわりには、どこかで冬に惜別の情を感じるような気がするのだから、勝手と言えば勝手なものだ。しかし、掲句で降っている雪は、「雪降れる」の語調からして、もう少し雪らしい雪のようにも思える。となれば、また冬への逆戻りか。いや、もうここまで来ればそんなことはないだろう。などと、作者の内面には冬を惜しむ気持ちはさしてなく、やはり春待つ心に満ちていると言えそうだ。なお、この句が収められている『小西鷹王句集』(2006)は、生前に一冊の句集も持たなかった作者のために、ご子息である小西真佐夫・昭夫氏が三回忌を前にまとめられたものである。(清水哲男)

【雪解】 ゆきげ
◇「雪消」(ゆきげ) ◇「雪解く」 ◇「雪解道」 ◇「雪解川」 ◇「雪消水」(ゆきげみず) ◇「雪解田」 ◇「雪解野」 ◇「雪解風」 ◇「雪解雫」 ◇「雪滴」 ◇「雪解」(ゆきどけ)
雪国で冬の間に積もった雪が、春暖により解けること。また、その時。

例句 作者

月光の休まず照らす雪解川 飯田龍太
念佛のさまよひおつる雪解川 中山純子
雪解川烏賊を喰ふとき目にあふれ 細見綾子
音たてていのちのいろの雪解川 加古宗也
にぎはしき雪解雫の伽藍かな 阿波野青畝
石獣の口に虫棲み融雪期 加藤憲曠
夜も軒の音をゆたかに雪解村 橋本栄治
恃むものいま己れのみ雪解川 松島不二夫
雪解けの湯気の立ちけり父の墓 若井新一
犬橇かへる雪解の道の夕凝りに 山口誓子
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色町や真昼しづかに猫の恋 永井荷風

2020-03-18 | 今日の季語

色町や真昼しづかに猫の恋 永井荷風


荷風ならではの1句と言うべきか
色町とか花柳界とか死語になりつつある言葉に
郷愁を感じるのは
日本人のだれにでもある原罪を刺激されるからだ

昼の色町
猫ならずとも性愛はしずかになるのは道理
(小林たけし)


荷風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)

猫の恋】 ねこのこい(・・コヒ)
◇「恋猫」 ◇「浮かれ猫」 ◇「戯れ猫」(たわれねこ) ◇「通う猫」 ◇「猫の思い」 ◇「猫さかる」 ◇「春の猫」 ◇「孕み猫」
猫は主として寒中から早春へかけて、盛んに妻恋いを始める。1匹の牝に数匹の牡が鳴き寄り、赤ん坊の泣くような声を出し、幾日も家を留守にして浮かれ歩く。

例句 作者

恋猫を唐天竺へ遣はしぬ 瀬戸美代子
猫の恋稲荷に修羅をはばからず 古田悦子
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
藪風のさざなみなせり浮かれ猫 鍵和田?子(ゆうこ)
猫の恋やむとき閨の朧月 芭蕉
恋猫の片一方は知つてをり 仙入麻紀江
恋猫とはやなりにけり鈴に泥 阿波野青畝
恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく 加藤楸邨
色町や真昼ひそかに猫の恋 永井荷風
恋猫の身も世もあらず啼きにけり 安住 敦
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すこしだけ振子短くして彼岸 美濃部治子

2020-03-17 | 今日の季語


すこしだけ振子短くして彼岸 美濃部治子

金原亭馬生の愛妻治子の作
彼岸から昼が少しずつ長くなる
振り子時計の振り子を短くしても時間は変わらないのだが
一読、微苦笑してくるのはなぜだろう
細やかな楚々たたる婦人の仕草を感じるからだろうか
平和で静かな時の流れがなつかしいのだ
(小林たけし)


春分の日(三月二十一日)の前後三日間を含めた一週間がお彼岸。だから、もうすぐ彼岸の入りということになる。彼岸の入りを「彼岸太郎」「さき彼岸」とも呼び、彼岸の終わりを「彼岸払い」「後の彼岸」などとも呼ぶ。昼と夜の長さが同じになり、以降、昼の時間が徐々に長くなって行く。人の気持ちにも余裕が戻る。まさしく寒さも彼岸まで。それにしても振子のある時計は、一般の家庭からだいぶ姿を消してしまった。ネジ巻きの時計は、もっと早くになくなってしまった。振子の柱時計のネジをジーコジーコ、不思議な気持ちで巻いた記憶がまだ鮮やかに残っている。時計の振子を「すこしだけ」短くするという動きに、主婦のこまやかな仕草や、何気ない心遣いがにじんでいる。治子は、十代目金原亭馬生の愛妻で、落語界では賢夫人の誉れ高い人だった。酒好きの馬生がゆっくり時間をかけて飲む深夜の酒にも、同じ話のくり返しにも、やさしくじっとつき合っていたという証言がある。馬生の弟子たちは、この美人奥さんを目当てに稽古にかよったとさえ言われている。馬生は一九八二年に五十四歳の若さで惜しまれて亡くなり、俳句を黒田杏子に教わった治子は二〇〇六年、七十五歳で亡くなった。他に「初富士や両手のひらにのるほどの」がある。彼岸といえば、子規にはご存知「毎年よ彼岸の入に寒いのは」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)

【彼岸】 ひがん
◇「入り彼岸」 ◇「彼岸前」 ◇「彼岸過」 ◇「お中日」
春分・秋分を中日とした7日間。梵語の波羅の訳語。波羅とは、到彼岸の略で、生死流転に迷う此岸に対して、煩悩の流れを超えた悟りの境地を彼岸という。

例句 作者

毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規
渡りゆく彼岸の遠き朝寝かな 石原八束
月山の山ひだ深き春彼岸 有馬朗人
ぜんまいをねんごろに煮て彼岸入 細見綾子
人界のともしび赤き彼岸かな 相馬遷子
竹の芽も茜さしたる彼岸かな 芥川龍之介
花替へて去来の墓も彼岸かな 野村泊月
山寺の扉に雲遊ぶ彼岸かな 飯田蛇笏
山の端に宝珠のまるき彼岸かな 阿波野青畝
遠浅の海おそろしき彼岸かな 岩下四十雀

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木道に上り下りや草紅葉 たけし

2020-03-13 | 入選句


木道に上り下りや草紅葉 たけし

第3回NHK誌上俳句大会
原田清正先生の選をもらった

尾瀬や日光の戦場ヶ原の木道を歩いた時の残像だ
草紅葉の頃は人も少なく
自分のペースで歩けるのがうれしい

木道に上り下り
大野原を独り占めの気分を味わったものだ
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