竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

傲慢の果ての哀しみ青大将  たけし

2018-07-31 | 
傲慢の果ての哀しみ青大将  たけし




今年は我家の庭に蛇が多いような気がする
家内は巳年のせいか蛇を怖がらず
抜け殻を見つけると大切に保管している

蛇はいつでも単独行動のようだ
蛇も加齢はするのだろう
ここのところの暑さでその動作は緩慢そのもの
声なき声の悲鳴を感じる

傲慢にふるまった青壮年期の面影は薄い
その哀しみは人の世界も変わらない


2018.6.8 俳句大学 一句鑑賞 工藤恵専
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夏は俺流ハーレーダビットソン たけし

2018-07-30 | 入選句
夏は俺流ハーレーダビットソン たけし




しばらく以前になるが
家族と那須高原に出かけたおりに
立ち寄った道の駅

真夏の太陽がその威勢を大地に焼き付けていた
孫たちは元気にソフトクリーム
私ら夫婦は冷たい心太をいただいていた

そこへ突然の聞き覚えのあるエンジンの音
ピカピカの磨かれたハーレーダビットソン
革ジャンパーに革ブーツ

夏は俺流と云っているように感じる
あまり若くない載り手に拍手した

どこかに自分にもこの気持ちは残っている



2018.7.4 朝日新聞 栃木俳壇 石倉夏生選
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心太透けて見えてる二枚舌 たけし

2018-07-29 | 入選句
心太透けて見えてる二枚舌 たけし




嘘つきや下心をかくして近づいてくる
なんとも愛想の良い
饒舌の取引先
用件にあまり関係のない話題で近づいてくる
下心は見え見えだ
心太の葦簀張りの店内
あちこちで下心や二枚舌がはびこっている


2018.7.25 朝日新聞 栃木俳壇 石倉夏生選

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踊るなり風にそよげる稲のごと 谷口智行

2018-07-28 | 今日の季語
踊るなり風にそよげる稲のごと 谷口智行





 同賞候補作五十句「薬喰」より。
夜の祭で繰り広げられる盆踊りの風景は、
先入観を捨て客観的に眺めると、とても奇怪な光景である。
数十人の人間、それも多くは初老かそれ以上の女性たちが、
一棟の櫓を中心に輪になり、
手を上げては下げ、歩を進めては戻しながら、
決められた動作で前の人の後ろをついて歩く。
それが、どこの角度から見てもみな一様の動作を、
一様の速度で繰り返しているのである。
同じ祭りでも、
西洋のカーニバルのような華やかな印象とは全くの対照で、
日本の「踊り」の印象は暗い。
作者はそのどことなく感じる踊りの恐ろしさを、巧みな表現で比喩にした。
一様に穂を垂れてうなだれる、
一面の稲田。風が吹けば一斉に穂を揺らし、
風が止めば再び一斉に静止する。
稲田に一人立った時の、あの異様な孤独感は何だろう。
何か稲田全体が何者かに洗脳されたように、
風の思いのままに操られている。
その中に、自分一人だけが正気でいるようだ。
しかしそれは、翻せば周り全体が正気で、
自分一人が狂気だという図式でもある。
日本の踊りを見た時の、得も言われぬ陰鬱な感覚が、
この句を見ることで妙に納得できた。


参照  https://kakuyomu.jp/works/1177354054880622271/episodes/1177354054880622272
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鶏の腹に縫ひこむセロリかな 清水良郎

2018-07-27 | 今日の季語
鶏の腹に縫ひこむセロリかな 清水良郎



「鶏の腹に縫ひこむ」まで読んで、一瞬ぞっとする。
白い羽毛の下の腹を切り裂かれ、金切り声を上げながら暴れる、
一羽の鶏の凄惨な姿を想像するからだ。
そこへ、「セロリかな」が見えてほっと胸を撫で下ろす。
この鶏は、もともと死んでいたのだ。
体中の毛をきれいにむしられ,内臓も取り去られ、
後は調理をするだけの状態に処理を施された鶏である。
その鶏のぽっかりと空いた腹の中に、
肉の臭みを消すためのセロリを始め、
何種類かの具材を入れてぎゅっと紐で肉の切れ目を縛り付けたのだろう。
ほっとした。
しかし、本当にほっとしただけでよいのだろうか。
確かにここでは料理用の鶏を使っているだけである。
ごく普通の調理場の風景である。
しかし、その「ごく普通」の光景の裏側には、
つい先程、ちょうど私たちが「セロリかな」を読む前に
どきっとしたような光景が、確かに存在したのである。
つまり、加工される前の肉や魚には、
確かに命が宿っていたという、重い現実がある。
あっけらかんと叙された句の中に、深い意味が託されているようだ。



参照 

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880622271/episodes/1177354054880622272
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金魚鉢水が染まつてゐるやうな 清水良郎

2018-07-26 | 今日の季語
金魚鉢水が染まつてゐるやうな 清水良郎



 同作より。
金魚の放つ色の明るさ、濃さが、素直な比喩で表現されている。
一匹の金魚を入れるだけで、
容器の中の水の色は一瞬のうちに鮮やかな朱色に変わってしまう。
それは金魚の体から色が滲み出しているようでもあり、
金魚それ自体が発光しているようでもある。
たとえば裸電球が、中心のコイルに灯が点くと、
たちまち全体が光の塊となってしまうのと似ている。
私は、祭の夜店で金魚掬いをした後に、
小さなビニール袋に数匹の金魚を入れて渡された時のことを思い出した。
その袋の中の水は、無色透明ではなく、
正しく金魚の色そのものであった。
金魚の小さな体に秘められた、大きな生命感を讃える句だ。


参照 https://kakuyomu.jp/works/1177354054880622271/episodes/1177354054880622272
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熱帯魚のひげを見てゐる応接間 清水良郎

2018-07-25 | 今日の季語
熱帯魚のひげを見てゐる応接間 清水良郎



 「俳句」二〇一三年十一月号より。
第五十九回角川俳句賞受賞五十句「風のにほひ」のうちの一句。

 作者は応接間に通された。
しかし、目当ての人物はなかなか姿を見せない。
しばらくは部屋の中央の革張りのソファに、背筋を伸ばし、
浅めに腰を掛けて待っていた作者だが、
その時間の長さにいよいよ緊張の糸もゆるみ、
背筋の力も抜けてしまった。
部屋の中の調度を何気なく眺めていると、
棚の上に置かれた一つの水槽に目が留まった。
近づいて見ると名も知らぬ大小数種の熱帯魚が静かに中を泳いでいる。
最初はその華美な色彩や模様に目を奪われたが、
作者の興味は次第にその魚らしい細部に注がれる。
常に靡く胸鰭、透けるほど薄い尾鰭、
細かなかすを含んでは吐き出す口。
そして口の両端から無邪気に伸びた何本かの髭。
それまで、熱帯魚とは
ただ観賞用に美しく生まれついたばかりと考えていた作者にとっては、
熱帯魚にも、やはり近所の川に泳いでいる魚と同様、
生きるための実用的な器官が備わっていたという発見が新鮮だったのだろうか。
食い入るように水槽の中を覗きこむ作者。
そこへ、訪問先の人物が突然現れた時の、
作者の慌てぶりを想像してみるのもまた楽しい。


参照 https://kakuyomu.jp/works/1177354054880622271/episodes/1177354054880622272
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糸瓜咲て痰のつまり 仏かな 子規

2018-07-24 | 子規鑑賞
糸瓜咲て痰のつまり 仏かな 子規




こちらの俳句は、1896年に詠まれた
「正岡子規の絶筆三句」の1つともいわれる有名な作品です。
この俳句を含めた3つの俳句を書き上げた瞬間、
そのまま筆を落として倒れ込んだという逸話も有名です。
こちらの俳句の意味を簡単な口語に直して見ていきたいと思います。

「薬となる糸瓜が咲いたけれど、
痰がつまって仏(死人)となる身には間に合わないだろう」

長いこと結核を患っていた正岡子規。
当時、糸瓜は薬として使われていました。
咳止めとしてや、結核の痰を切るのに、
糸瓜の根本から採取できる液は効果があったそうです。

つまり、薬として植えた糸瓜が咲いたけれど、もはや、自分には間に合わない。
死を悟った正岡子規が、死の直前に残した最期の俳句なのです。

因みに、他の2つの俳句は、こちら。

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をとヽひのへちまの水も取らざりき」

この3句を合わせると、このような意味になるのではないかと思います。

「薬となる糸瓜が咲いたけれど、
どんなに効果のある糸瓜の薬水も、
もはや痰を詰まらせ仏となるこの身には効果もなく
間に合うこともないだろう。
だから、効果が高まるという
十五夜である一昨日も、糸瓜の薬水は取らなかった」

なんとも切ない内容ではあるのですが、
これを死に瀕した本人が詠み上げるという点に、
子規の凄みがあると言えるでしょう。
臨終の際まで、俳人として生き抜く。
そこに、さすがは名を遺す俳人だと称賛せずにはいられません。

参照 http://nihonshimuseum.com/masaokashiki-haiku/

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春や昔 十五万石の 城下かな  子規

2018-07-23 | 子規鑑賞
春や昔 十五万石の 城下かな  子規




この俳句は、明治28年、正岡子規28歳頃の作です。
日清戦争の従軍記者として中国へ赴く前、
一時、東京から故郷の松山に戻った際に、詠み上げた俳句だそうです。

それでは早速、この俳句の意味を簡単な口語に直してご紹介します。

「かつて江戸幕府があった頃は、
この地も十五万石の栄えた城下だったが、
その春も今は昔のことか」

この俳句は、正岡子規の作品の中でも非常に有名な一句であり
戦後は子規の故郷、松山の象徴としても扱われています。
1949年、松山駅前にこの俳句を模した石碑が建てられましたが、
その4年後に行われた駅の改修工事のため、
この石碑は子規記念館の横へと移動されました。
しかし現在では、この石碑は松山駅前の
ロータリー西側にある交番の前に再び建てられています。

この俳句を詠んだ後、正岡子規は周囲の反対を押し切り、
従軍記者として戦地へ向かいます。
その後は、従軍したことで患っていた結核が悪化。
短い生涯を閉じることになります。

帰郷した際、故郷を眺めながら、
正岡子規はこの俳句をどんな想いで詠み上げたのか。
もしかしたら、
松山の地と、自らの行く末を重ね見ていたのかもしれませんね。


※参照:http://nihonshimuseum.com/masaokashiki-haiku/
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抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴   金子兜太

2018-07-22 | 金子兜太鑑賞
抱けば熟れいて夭夭(ようよう)の桃肩に昴   兜太





昭和60年、詩經國風より

この句集のあとがきに述べているのだが、
一茶を研究するうちに一茶が一年がかりで
中国の最古の詩集「詩經國風」を勉強しているのに注目し、
自分も一茶を理解する為にこれを読み始めたのだが、
ミイラ取りがミイラになり自分も
これを俳句にしてみようと思った、と書かれています。
狙いは言葉にある、句作りを通してことばをしゃぶってみたかった、
それにしても、表意文字はしゃぶりでがある、
漢字と言うやつはじつに楽しい。とも書かれています。

掲句は「桃夭」結婚を祝う詩から想を取って作られています。
「夭夭」は広辞苑に
  よう‐よう【夭夭】エウエウ
  □[詩経周南、桃夭]若々しくうつくしいさま。
太平記37「―たる桃花の、暁の露を含んで」
  □[論語述而]顔色が和らいださま。表情のにこやかなさま。と出ています。

桃と言えば女性の尻を想い描く人も多いようだが、
まことに古今通して、若くうつくしい女性を形容しているのでしょう。
「抱けば熟れいて」、前回の「尻叩け」もそうでしたが、大らかですね。
そして、どきっとするほどに、エロスを感じます。
勿論、熟れるは桃に掛かるのでしょうが、
この表記にはエロスがあって良いなって思います。
「肩に昴」が現代風なのではないかなあ。
作者は、結婚していくうつくしい女性の未来へ、
希望を、幸多かれと願わずにはいられないのであろう。
正に、結婚を祝う句ですね。


私は、今まで、ここに鑑賞はじめてから、
兜太さんの句で一番好きな句は
   麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人
なのですが、この句も「詩經國風」の中の句ですね。
兜太さんは詩經を読まれて、ことばを開拓していかれたのですが
ほんとうにことばを開拓していくって大変なことですね。

参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm


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夏は白花抱き合うときは尻叩け 兜太

2018-07-21 | 金子兜太鑑賞
 
夏は白花(しろはな)抱き合うときは尻叩け 兜太




昭和57年、猪羊集より。

作者は「白花」をわざわざ(しろはな)と振り仮名を付けている。
なぜ言葉の響きに拘ったのだろうか?
(ばな)では初夏の感じが損なわれるからだろうか?
「夏は」と表しているけれど、
初夏なのだろうと思う。
「抱き合うときは尻叩け」とはなんと大らかな朗らかさであろうか。
この抱き合うは男女間だけではないのであろう。
よく野球の試合を見ていると、よ
く尻を叩き合っているのを見かける。
尻って叩かれて一番痛くないところ、
スキンシップには尻を叩くのが一番良いのだろうと思う。
男女間で尻といえば、
つねるだろうけれど、叩くという方が明るいし、
心身ともに健康的な感じがする。
何にしても、瑞々しい初夏のエネルギーに溢れている。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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梅咲いて庭中に青鮫が来ている  兜太

2018-07-20 | 金子兜太鑑賞
梅咲いて庭中に青鮫が来ている  兜太




昭和56年、「遊牧集」
より。
空がやっと白んできた頃に見た幻想であろう。
先日、長谷川櫂が「現代俳句の鑑賞101」に
「これは幻。
梅には鶯、魚であればせいぜい池の鯉と
決まっている日本の詩歌の常識に
飽き足らぬ人の見た凶暴な幻である。」
とあるのを読んで、
凶暴な幻というのに戸惑いがあった。
ところで、早春の青鮫の幻想は、
作者の心理的のどんなところから来ているのだろうか。
白白とした静謐ななかに潜む、
春の蠢き、怖さかもしれない。
作者はそんな予知的な感受のデリカシーが強い人なのであろう。
韻が5,5,9である。句の作りから見ると、
梅と青鮫だけでは、
読者のなかに感応の不協和音が立つ。
「庭中に」という措辞が緩衝材の役割を果たしている。
庭という限られた具体的な空間が散漫にならず、
この奇異な青鮫が、

読む側に、多少奇異ではあるが、入りこめるのだと思う。

参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm

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緑鋭の虚無老い声の疳高に  兜太

2018-07-19 | 金子兜太鑑賞
緑鋭の虚無老い声の疳高に  兜太

    突出の鬼色曼珠沙華朽ちて  兜太





昭和52年、「旅次抄録」より。

前書きに、金子光晴死去2句、とある。
詩人金子光晴の亡くなったのは昭和50年6月30日、
79才、気管支喘息のため急死とある。
この詩人光晴さんを、兜太さんは深く敬愛している。
昭和40年には短歌結社「心の花」に
「光晴覚え」という一文を書いている。
この海程40周年で兜太さんの4巻にわたる俳句だけでなく
著作物のほとんどを網羅した全集が出版され
私も購入したので
その「光晴覚え」を今読んで、この句を揚げてみた。
多分、兜太さんが、詩人の死に俳句を寄せられたのは
光晴さんだけではないだろうか。
私も、以前にここでも話題になったので「
金子光晴詩集」白鳳社を買って読んでいた
それを今読み直している。
兜太さんが、
光晴の詩が好きだと言われるすべてが納得できます。
光晴さんの詩は、兜太さんの俳句にもっている体質に
通うものがとても多いと思います。
ところで、掲句だが、

一句目は死因となった気管支ぜん息の
声を詠んでいるのではないだろうか。
「緑鋭の虚無」とは心から敬愛する人
を失った虚しさがぎゅっと詰った表現だと思う。
「緑鋭」というのは造語だろうか。
光晴さんの苦しい声が作者の体を貫いたのであろう。

2句目は「突出の鬼色曼珠沙華」というところに光晴さんの詩、
作者の抱くイメージをここに入れているように思う。
「鬼の児の唄」が好きだ、
その鬼は光晴自身であろうと「光晴覚え」にも書かれている。
きょうは兜太さんと詩人光晴さんのことを
この鑑賞を通して知ることが出来ました。
調べながらの鑑賞なので、
足りないところがあるだろうと思います。

参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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海くる祖の風砂山を生み金雀枝を打つぞ  兜太

2018-07-18 | 金子兜太鑑賞
 
海くる祖の風砂山を生み金雀枝を打つぞ  兜太




昭和52年、旅次抄録より。

因幡、先日の「尿ほどの雨」の句の後にある句である。
「海くる祖の風」というのが窮屈な感じがするけれど、
意味は海を渡ってくる中国大陸からの風ということであろう。
われわれ日本人は中国大陸から渡ってきた
帰化人であるというのが一般的なのではないだろうか。
兜太さんはたしか戦時中、
軍医であった父に付いて
中国に暮らしていた時期があったと思う。
戦後、幾回か中国へ旅行され、
昭和60年には「詩経国風」という句集も出しておられる。
中国はわが心の祖という思いが強いのだとおもう。
日本海の海の向うは中国だなあと思うと、
その海を渡ってくる風は「祖の風」と思えるのであろう。
季語は「金雀枝」、4,5月の花である。
いま、金雀枝を打つ風は、
その少し前の3,4月には黄砂となって渡ってきて、
砂山を作ったのであろうと、
作者は、海からの、祖の風に吹かれながら思っているのである。


参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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夏落葉有髪も禿頭もゆくよ  兜太

2018-07-17 | 金子兜太鑑賞
 
夏落葉有髪も禿頭もゆくよ  兜太




「有髪」を広辞苑で引いてみると、
  う‐はつ【有髪】
  □僧形そうぎように対して、剃髪しないでいること。
  □有髪僧の略。

僧の髪がふさふさしているということ。
僧が頭を剃らないでふさふさしていて、
自分は僧ではないので当然剃らないが、禿頭である。
その可笑しさ。まったく可笑しい。
「ゆくよ」が生命感に溢れていていいですね。
夏落葉の季語が上手く生かされて、味わいのある句だと思います。

参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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