溺愛のもの皆無なり冬座敷 佐藤朋子
溺愛のものが一つも無い と作者は言う
溺愛の物とはなんだろうと思う
溺愛の物はやはり現役の生活に常時登場しないといけない
暦年のいくつかのシーンに活躍した思い出にもなっている
閑散とした冬の座敷
家族も減っていていつも静かである
淋しい感じもするが「終活」ともなればいよいよ片付けることになる
(小林たけし)
書かれている内容には、どこか寂しいものがあります。確かに若いころには好き嫌いもはっきりしていました。傍からみっともなく見えても、好きになったらその思いを、がむしゃらに相手にぶつけた時期もありました。それが歳を重ねるとともに、好きも嫌いも感覚が磨耗してきて、すべてがほどほどに受け止められるようになってきます。はじめはそんな内容の句だと思っていましたが、どうもそれほど悟りきってはいないようです。仔細に見て行くと、「溺愛」も「皆無」もかなり激しい言葉です。そんなことでいいのかと、自身の心に活を入れているような厳しさが感じられます。それが冬の畳の冷たさに、うまく対応しています。せっかくこの世に生きて、なにひとつ心を奪われるものもなく過ごす日々を、われながら情けないと叱りつけているようです。年齢にかかわりなく、つねになにかに生き生きと惹かれていたいと、この句に励まされもしてきました。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)
【冬座敷】 ふゆざしき
冬らしくしつらえた座敷をいう。締め切った襖、障子に炬燵、火鉢が置かれた部屋。
例句 作者
物置けばくらがり生れて冬座敷 田中灯京
暗澹と島山つらね冬座敷 飯田龍太
泣きに来し子の坐りたる冬座敷 石原八束
冬座敷ときどき阿蘇へ向ふ汽車 中村汀女