竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

枯葉踏む乳母車から降ろされて 中田尚子

2018-11-30 | 



枯葉踏む乳母車から降ろされて 中田尚子

よちよち歩きの幼児が「乳母車から降ろされて」、「枯葉」の上に立った。ただそれだけの情景だが、その様子を見た途端に、作者が赤ん坊の気持ちに入っているところがミソだ。おそらく生まれてはじめての体験であるはずで、どんな気持ちがしているのか。踏んで歩くと、普通の道とは違った音がする。どんなふうに聞こえているのだろうか。と、そんなに理屈っぽく考えているわけではないけれど、咄嗟に自分が赤ちゃんになった感じがして、なんとなく足の裏がこそばゆくさえ思えてくるのだ。こういう気分は、他の場面でも日常的によく起きる。誰かが転ぶのを目撃して、「痛いっ」と感じたりするのと共通する心理状態だろう。そういうことがあるから、掲句は「それがどうしたの」ということにはならないわけだ。赤ん坊に対する作者の優しいまなざしが、ちゃんと生きてくるのである。「乳母車」はたぶん、折り畳み式のそれではなくて、昔ながらのボックス型のものだろう。最近はあまり見かけなくなったが、狭い道路事情や建物に階段が多くなったせいだ。でもここでは、小回りの利くバギーの類だと、乗っている赤ん坊の目が地面に近すぎて、句のインパクトが薄れてしまう。やはり、赤ん坊が急に別世界に降ろされるのでなければ……。余談ながら、アメリカ大リーグ「マリナーズ」の本拠地球場には、折り畳み式でない乳母車を預かってくれるシートがネット裏に二席用意されている。揺り籠時代から野球漬けになれる環境が整っているというわけで、さすがに本場のサービスは違う。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)

枯れし葉の終いの美学ゆうらりと たけし


南無枯葉一枚の空暮れ残り 佐藤鬼房
一葉づつ一葉づつ雨の枯葉かな 八幡城太郎
降り積めば枯葉も心温もらす 鈴木真砂女
枯葉舞ふ唐桟織の糸の艶 藤波康雄
枯葉かく人も枯葉の色に似て 中川宋淵

やくそくの数だけ落ちる冬の星  塩野谷仁

2018-11-29 | 


やくそくの数だけ落ちる冬の星  塩野谷仁

夜空が漆黒に深まり、月や星に輝きを増してくると、冬も本番である。先月のしし座流星群は、月明かりの影響がない最高の条件で見ることができたという。天体観測に特別な興味がなくても、今夜、どこかでたくさんの星が流れているのだろうと思うのは、なんとなく気持ちを波立たせる。それは、願いごとを三回繰り返せば叶うおまじないや、マッチ売りの少女の「星が落ちるたびに誰かが神さまに召される」という場面を思い出させ、流れ星に対して誰もがどこかで持っている感情に触れることで、掲句の「約束」が響いてくる。約束とは誰かと誰かの間の個人的な決めごとから、運命やさだめというめぐりあわせまでも含む言葉だ。平仮名で書かれた「やくそく」には、ゆっくり噛んで含める優しさと、反面どうにもあらがえないかたくなさを併せ持つ。それは、流れ星が持つ美しいだけではない予兆を引き連れ、心に染み込んでいく。鋭すぎる冬の星が、ことのほか切なく感じられる夜である。〈一人遊びの男あつまる冬の家〉〈着膨れて水の地球を脱けられず〉『全景』(2009)所収。(土肥あき子)

冬の星午前零時のアラームよ  西山ゆりこ
枯木星またゝきいでし又ひとつ 水原秋櫻子
霜除や月を率てゆくオリオン座 渡辺水巴
かぞへゐるうちに殖えくる冬の星 上田五千石
寒昴幼き星をしたがへて 角川照子
ひと言がこころの火種寒昴 市村敏江
寒北斗闇より海の始まれり 藤田弥生
荒星を傾け洗ひ髪を乾す 蓬田紀枝子
いつまでも一つのままに冬の星 富安風生
生きてあれ冬の北斗の柄の下に 加藤楸邨
耳遠き妻へ声張り寒昴 林 翔

孫悟空居さうな雲の国小春  高田風人子

2018-11-28 | 


孫悟空居さうな雲の国小春  高田風人子

朝寒、夜寒、といった晩秋のきゅっと冷えこむ感じもあまり無かった東京だが、暦の上ではもう冬。今日十一月十日は、旧暦十月一日、今日から小春月である。小春は本来旧暦十月のことをいい、本格的な冬になる手前、春のような良い日和が続くことに由来するが、ふつう俳句で小春というと、小春日和を意味することが多いようだ。飯田龍太に〈白雲のうしろはるけき小春かな〉の句があるが、穏やかな一日、空を見上げ、ゆるゆると流れる雲に来し方を思う心が見える。穏やかであればこそ、どこかしみじみとするのだろう。同じように小春の空を見上げた作者だが、そこに孫悟空が居そうだという。孫悟空といえば、筋斗雲、いや金斗雲か。キントは宙返りの意で、本来キンは角偏に力と書く。アニメのドラゴンボールから「西遊記」の原作本はもちろん、テレビドラマや東映アニメーション映画など、孫悟空に親しんだ思い出は誰にもあるだろう。ぽっかりとひとつ浮かんだ雲が、呼べば降りてきそうに思えたのか、広がっている雲の上に別世界があるような気がしたのか、と思い確かめると、この「国」は日本ではなくタイ。旅先での作というわけだが、アジア的異国情緒と俳句的感覚が、不思議な味わいの一句をなした。「高田風人子句集」(1995)所収。(今井肖子)

まあるい目手話の母娘に小春風 たけし

小春日にみな目を細め六地蔵 たけし

高架橋歩いて独りわが小春 たけし

負の傷みうすらぐ心地小春風 たけし

業の鳥罠を巡るや村時雨 小林一茶

2018-11-27 | 


業の鳥罠を巡るや村時雨 小林一茶

そこここに「罠」が仕掛けられていることは、十二分に承知している。しかし、わかりつつも、吸い寄せられるように「罠を巡る」のが「業」というもの。巡っているうちに、いつか必ず罠にかかるのだ。大昔のインド宗教の言った「因果」のなせるところで、なまじの小賢しい知恵などでは、どうにもならない。なるようにしかならぬ。折りからの「時雨」が、侘びしくも「業」の果てを告げているようではないか。前書に「盗人おのが古郷に隠れ縛られしに」とある。したがって、この「鳥」は悪事を重ねた盗人に重ねられている。逃亡先に事欠いて、顔見知りのいる「古郷に隠れ」るなどは愚の骨頂だが、それが「業」なのだ。現代でも、郷里にたちまわって「縛られ」る者は、いくらでもいる。作句のときの一茶は「古郷」に舞い戻っており、わずか四百日の命で逝った娘のサトをあきらめきれずに、悲嘆のどん底にあった。だから、掲句では盗人が「鳥」というよりも、本当はおのれが「業の鳥」なのだ。おのれの「業」の深さが可愛いサトの命を奪い、因果で自分も「業」に沈むことになった。そういうことを、言っている。だが、このような後段の事情を知らなくても、掲句は十分に理解できるだろう。また「業」という考え方に共鳴できなくても、句が発するただならぬ気配に、ひとりでに吸い寄せられてしまう読者も多いだろう。一茶にも、このような句があった。(清水哲男)

初時雨素手のなじみし月参り たけし
直走るたすきの少女雪時雨 たけし
墨継ぐ般若心経夕時雨 たけし
時雨雲火宅の父の齢なる たけし
時雨雲ならぶ空家のforsale たけし
係船のロープにかもめ雪時雨 たけし
雪時雨新聞店の薄明かり たけし

冬晴れへ手を出し足も七十歳 坪内稔典

2018-11-25 | 


冬晴れへ手を出し足も七十歳 坪内稔典

冬晴れへ足と手を出して、ああ、自分も七十歳なのだなぁ。と感慨を込めて空を見上げる情景とともに、この「手を出し足も」が曲者だと思う。「手も足も出ない」となると。まったく施す手段がなくなって窮地に陥るという意味だが、この言葉を逆手にとって、手も足も出すのだから、なに、七十歳がどうした、これからさ、という気概が感じられる。また「手を出し」でいったん休止を入れて「足も」と音だけで聞くと、伊予弁の「あしも」と重なり。早世した子規と作者が「あしも七十歳ぞ」と唱和しているようだ。「霰散るキリンが卵産む寸前」「びわ食べて君とつるりんしたいなあ」言葉の楽しさ満載の句集である。『ヤツとオレ』(2015)所収。(三宅やよい)

冬晴れや鼻より高く猿田彦 たけし

冬晴れや三陸海岸もの言わず  たけし

冬晴れや賞罰なしの無一物 たけし

風冴ゆる熱燗少し溢れ出る 江渡華子

2018-11-24 | 


風冴ゆる熱燗少し溢れ出る 江渡華子

日曜日、東京では木枯らし1号が吹いた。気象庁のホームページによると、まず期間は10月半ばから11月末日まで。気圧配置が西高東低の冬型であること。関東地方(東京地方)に吹く強い季節風であることなど。これらの条件を満たすものが木枯らし1号と認定されるらしい。木枯らしが吹いたあと風は刺すように冷たくなってゆく。いよいよ本格的な冬の到来。熱燗、鍋のおいしい時期を迎える。居酒屋で継いでもらった酒が勢いあまっておちょこをつうと溢れでる。ときおり店の引き戸を揺する風の音が外の寒さを感じさせる。継いで継がれて話を重ねていくうちに、互いの言葉がお酒にぬくもった胸に少しずつ溶け出してゆく。透明にあふれ出る熱い酒と凍るほど冷たい風との取り合わせがよく効いている。そんな情景を考えてみると世情に通じた年齢の俳人が作ったように思えるが、作者は1984年生まれ。「布団干す故郷は雪が深いころ」「歯ブラシを変えた冬の風香る」これらの句からは遠くふるさとを離れてひとり都会で暮らす若い女性の気持ちがじかに伝わってくる。句集にはどこか老成した句と初々しい感性の句が混在しているが、どの句からも対象を見つめる作者のまっすぐな視線が感じられる。『光陰』(2007)所収。(三宅やよい)

星冴ゆる他人のように靴の音 たけし

遺せしを選びし夜や冴え渡る たけし

月冴ゆる百鬼夜行のぬっくりと たけし

改札に人なくひらく冬の海 能村登四郎

2018-11-23 | 



改札に人なくひらく冬の海 能村登四郎

かつて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)

冬の海五感忽ち尖りたる たけし

百年に一度伸びする冬の海 たけし

ひたひたとなおざりの恩冬の海 たけし

霜の夜のミシンを溢れ落下傘 永井龍男

2018-11-21 | 


霜の夜のミシンを溢れ落下傘 永井龍男

戦争末期の句。「大船某工場にて」とあり、この「某」は軍事機密ゆえの「某」である。作者は文藝春秋社の編集者だったから、取材のために訪れたのだろう。霜の降りた寒い夜、火の気のない工場では、「女工」たちが黙々と落下傘の縫製に追われている。ミシンの上に溢れた純白の布が目に染みるようであり、それだけに一層、霜夜の寒さが身をちぢこまらせる。「ミシンを溢れ」は、実に鮮やかにして的確な描写だ。一世を風靡した軍歌『空の神兵』で「藍より青き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様」と歌われた「落下傘」も、こんなふうに町の片隅の工場で、一つ一つ手縫いで作られていたわけである。ところで、往時の作者の身辺事情。「収入皆無の状態のまま、応召社員の給与、遺家族に対する手当支給などに追われた。空襲は頻度を増し、私の東京出勤もままならなかった」。そして、同じ時期に次の一句がある。「雑炊によみがへりたる指図あり」。文字通りの粗末な「雑炊」だが、やっと人心地のついた思いで食べていると、ふと会社からの「指図(さしず)」がよみがえってきた。すっかり、失念していたのだ。食べている場合じゃないな。そこで作者は、「指図」にしたがうべく、食べかけた雑炊の椀を置いて立ち上がるのである。この句は、戦中を離れて、現代にも十分に通じるだろう。なにしろ「企業戦士」というくらいだから……。『東門居句手帖・文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)

霜降やなおざりの恩なほ深し たけし

霜柱男はいつも少年に たけし

初霜や北に向かい手深呼吸 たけし

生涯をのみくだす霜の夜の酒 たけし

綿虫やそこは屍の出でゆく門 石田波郷

2018-11-12 | 波郷鑑賞


綿虫やそこは屍の出でゆく門 石田波郷

句集『惜命』所収。
結核手術のために長期入院していた折の作品。
季語は「綿虫」で初冬。
「そこは」が作者と死との微妙な距離感を表現している。
「私もその門をくぐることになるのかもしれない」と言っているようでもあり、「しかし私は生者として正門から出てゆく」と自分に言い聞かせているようでもある。
この二つの間を揺れている感じだ。
その曖昧な心の揺れを、綿なのか虫なのか曖昧な「綿虫」が象徴している。


【綿虫】 わたむし
◇「雪蛍」 ◇「雪婆」(ゆきばんば) ◇「大綿雪虫」

晩秋から初冬の、風のない穏やかな日和のとき、白い綿毛に包まれた微小な虫がふわふわと宙を漂う。これを俗称「綿虫」という。雪国ではこれを、雪の季節の前触れとして「雪虫」と呼ぶ。その他にも、大綿(東京)、白子屋お駒はん(京都)、しろばんば(伊豆)などの呼称もあり、長閑でメルヘンを感じさせる。しかし、アブラムシ類のワタムシの飛翔は、産卵のために有翅・有性の雌が新たな寄生樹種へと移住するときの光景だという。

例句   作者

晩年に似て綿虫の漂へる 福田蓼汀
嘘を言ふショール臙脂に雪ぼたる 飯田龍太
大綿やしづかにをはる今日の天 加藤楸邨
大綿虫をあげおだやかに暮色あり  口青邨
吐息みな綿虫となる日暮どき 山﨑冨美子
雪蛍泉の楽はをはりなし 堀口星眠
魂の重さ夕日に雪蛍 徳田千鶴子
大綿小綿孫太郎虫の里に飛ぶ 大野林火
綿虫の掌を逃れたる昏さかな 早川翠楓


綿虫に云えない本音ことづける たけし
綿虫を知らぬゾンビの増えてをり たけし

奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇 高野ムツオ

2018-11-11 | 


奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇 高野ムツオ


平安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂に攻められた東国の夷(えびす)の首領悪路王は、
岩手県の平泉から厳美渓に通じる途上にある達谷窟(たっこくのいわや)に籠って
最後まで屈せずに戦い遂に討たれる。
悪路王などというおどろおどろしい名を付けたのも錦の御旗を掲げた側。
本当は、気は優しくて力持ちの美男子だったかも知れぬ。
ドラマの中のキムタクやブラピのように。
皇軍の名のもとにマイノリティを
「征伐」していった歴史の暗部が陸奥(みちのく)には充満しているのだ。
夷やアイヌやインディアンや、その他多くの被征服者の苦しみや哀しみを、
「大東亜戦争」に敗れた僕等日本人は
ようやく痛切に感じることができるようになったのではないか。
それまでは世界の「征夷大将軍」たらんとしていたのに。
権力の合法的暴力や大国の偽善的エゴは今も世界に満ち満ちている。
世界中の「みちのく」の冬の闇の中で、
顔を失った口の中の奥歯が呪詛を呟き、頭を吹き飛ばされた喉が今日も叫んでいる。
「別冊俳句・現代秀句選集」(1998・角川書店)所載。(今井 聖)

冬めくや坂のなかほど饅頭屋 たけし

草紅葉縁側のすぐざらざらに 波多野爽波

2018-11-06 | 


草紅葉縁側のすぐざらざらに 波多野爽波

縁側は、こまめに掃除せず放っておくと、
頻繁に上がってくる人のこぼした砂や土埃で、すぐ、汚れてしまう。
そのさまを、
「ざらざらに」という触覚性リアルな言葉で表現した。
日常の光景から、実存の深みまで
感じさせてしまうのが、爽波俳句の特色である。
荒涼とした手触りの世界の外界には、
色づいた秋の草が生々しいまでに、その色彩を訴えかけてくる。
『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)

草紅葉ふいに現る滝見台 たけし

草紅葉媼の電動車椅子 たけし

伊達もんの考のステッキ草紅葉 たけし

松原の秋ををしむか鶴の首  一茶 

2018-11-04 | 一茶鑑賞


松原の秋ををしむか鶴の首  一茶 

一茶の生涯を知れば
この鶴は一茶自身を投影する
家庭的に不遇であった一茶は常に孤独
秋はことさら寂しいが
この秋を過ぎれば
その寂しさはさらに深まる
秋を惜しむ、都留の首の細さが
一茶の心情を語っている (たけし)



秋惜しむ あきおしむ/あきをしむ 晩秋
去り行く秋を惜しむこと。
「行く秋」よりも主観のつよい言葉である。
古来から「春惜しむ」と相対する詩情とされる。

秋をしむ戸に音づるゝ狸かな 蕪村 
「平安廿歌仙」「文化句帖」

父母の天長節の明治節 原岡昌女

2018-11-03 | 



父母の天長節の明治節 原岡昌女

文化の日は時代の背景によって呼称が変化してきた
掲句はそれらを諷刺しているわけでもないが
立ち止まって考えさせられる


今日は文化の日という祝日だが
第二次大戦前における、天皇の誕生日の称。四大節の一。

昭和23年7月20日に祝日法が公布され、
11月3日は「自由と平和を愛し、文化を すすめる」の趣旨によって祝日「文化の日」となりました。
実はこの日は明治天皇のお 誕生日にあたり、
戦前は明治節と呼ばれていたのです。


夕狩の野の水たまりこそ黒瞳 金子兜太

2018-11-02 | 金子兜太鑑賞


夕狩の野の水たまりこそ黒瞳 金子兜太


兜太さんらしい野趣にあふれた一句だ。
彼の生き様は狩人のように思える。
妥協をよしとせず、生涯挑戦の連続だった。
夕狩に遭遇した水たまりを黒い瞳と形容する、
この比喩こそ兜太さんの世界だ。
初学の私には句意の全容は解明し難いが、
この黒い瞳こそが真実を、正義を映すのだと語る
兜太さんを感じる。
夕暮れの冬野に孤高の狩人、兜太さんの姿が見えてくる。

余談になるが受ける情報の八割は目からのものだと言われる、
私は視力が極端に劣るので記憶を呼びさましたような句が多い、
これもそんな一句だ。

祖父の目の尖った記憶鶏合たけし