竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

行く年やわれにもひとり女弟子 富田木歩

2019-12-30 | 今日の季語


行く年やわれにもひとり女弟子 富田木歩


女性の弟子が一人いることをしもじみと思う作者
その女性への想いはただの俳道だけではないようにさへ思わせる
大晦日の師弟のワンシーンではつまらない
(小林たけし)

昔は、大晦日に師の家に挨拶に行く風習があった。正岡子規の「漱石が来て虚子が来て大三十日」の句は、つとに有名だ。まことにもって豪華メンバーである。そこへいくと木歩の客は地味な女人だ。が、生涯歩くことができなかった彼の境遇を思うと、人間味の濃さの表出では、とうてい子規句の及ぶところではない。たったひとりの女弟子のこの律儀に、読者としても、思わずも「ありがとう」と言いたくなるではないか。(清水哲男)

【行く年】 ゆくとし
◇「年逝く」 ◇「年歩む」 ◇「去ぬる年」(いぬるとし) ◇「年送る」
一年の歳月を惜しみ、振り返るような気持ちが込められている。そこには人間の生きる時間への哀憐の情も重なる。また昔は、年の終わりは冬の終わりの謂でもあり、そうした思いも底流にある。
例句 作者
忘れ傘預かり傘に年逝かず 鈴木真砂女
山国や年逝く星の充満す 相馬遷子
百方の焼けて年逝く小名木川 石田波郷
行く年や庇の上におく薪 一茶
行く年の汐汲みて船洗ひをり 鈴木雹吉
門川に年逝く芥ながしけり 安住 敦
行く年を母すこやかに我病めり 正岡子規
行く年や水に影おく稲架の骨 藤田あけ烏
余生とはうどんを吹きて年送る 石田玄祥
とんとんと年行くなないろとうがらし 草間時彦

湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事  小沢昭一

2019-12-29 | 今日の季語


湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事  小沢昭一

洒脱な粋人、小沢正一氏ならではの一句といえよう
彼ならばきっとありそうなと思わせて小気味よい
俳句は虚実ないまぜの許される文芸だと聞いている

隠れ遊び
さて何だ、読み手は己の体験と想像力を思う存分働かせる
そこに湯豆腐、戸外の遊びではなさそうだ
(小林たけし)

よく知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)

【湯豆腐】 ゆどうふ
土鍋などに大き目の昆布を敷き、豆腐を入れ、温まったところを薬味と共に醤油やポン酢で食べる。「冷奴」(季:夏)と並んで最も一般的で人気のあるな豆腐料理。関西では「湯奴」という。
例句 作者
湯豆腐や男の嘆ききくことも 鈴木真砂女
湯豆腐に海鳴り遠くなりにけり 鈴木一枝
湯豆腐の一つ崩れずをはりまで 水原秋櫻子
湯豆腐や若狭へ抜ける京の雨 角川春樹
湯豆腐や雪になりつつ宵の雨 松根東洋城
湯豆腐の夭々たるを舌が待つ 能村登四郎
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
永らへて湯豆腐とはよく付合へり 清水基吉
こころいまここに湯豆腐古俳諧 石田小坡
湯豆腐にうつくしき火の廻りけり 萩原麦草

土色の顔の出てきて飾り売る  山口輝男

2019-12-28 | 今日の季語


土色の顔の出てきて飾り売る  山口輝男

「飾売」とはなんとも懐かしい響きだろう
年の市という言葉も死語に近い
近所のスーパーで注連も間に合う世相になって久しい
土色の顔をした店の主となればもう追憶の中にしか存在しない
掲句は貴重な歴史の小さなワンシーンの「切り取り」だ
(小林たけし)

【飾売】 かざりうり
年の市などで注連飾り、門松など正月用の飾りを売ることをいう。

例句 作者

行く人の後ろ見送り飾売 高浜虚子
飾売焚火に時を濃くしつつ 遠藤正年
飾売まづ暮れなづむ大欅 皆川盤水
叡山の尖れる空や飾売 鷲谷七菜子
その前をきれいに掃いて飾売る 山口青邨
飾売どこへともなく帰り行く 三村純也
神明に近くめ組の飾売 中 火臣
眼差にともる月日や飾売 望月たかし

荷がゆれて夕陽がゆれて年の暮  岩淵喜代子

2019-12-27 | 今日の季語


荷がゆれて夕陽がゆれて年の暮  岩淵喜代子


いろいろあった今年一年
作者の年の暮れを無事に越えられるという
安堵感が滲んでいるようだ
現代ではみな荷物は自動車が運ぶが
荷車の荷物が夕日を背に揺れている光景
私のも幼児期の記憶にある
(小林たけし)

歳末の慌ただしさを詠んだ句は枚挙にいとまがないが、掲句は逆である。と言って、忙中閑ありといった類いのものでもない。このゆれている「荷」のイメージは、馬車の上のそれを思わせる。大きな荷を積んだ馬車が、夕陽の丘に消えていく。牧歌的な雰囲気もあるけれど、それ以上にゆったりと迫ってくるのは、行く年を思う作者の心である。すなわち、行く年を具象化するとすれば、今年あったこと、起きたこと、その他もろもろの事象などをひっくるめた大きな「荷」がゆれながら、これまたゆれる夕陽の彼方へと去っていくという図。もちろん夕陽が沈み幾夜かが明ければ、丘の向うには新しい年のの景観が開けているはずなのだ。「年の暮」の慌ただしさのなかにも、人はどこかで、ふっと世の雑事から解放されたひとときを味わいたいと願うものなのだろう。その願いが、たとえばこのようなかたちを伴って、作者の心のなかに描かれ張り付けられたということだろう。そしてこの「荷」は、おそらくいつまでも解かれることはないのである。来年の暮にも次の年の暮にも、永遠にゆれながら夕陽の丘の彼方へと消えていくのみ……。それが、年が行くということなのだ。去り行く年への思いを、寂しくも美しく、沁み入るが如くに抒情した佳句である。現代俳句文庫57『岩淵喜代子句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)

【年の暮】 としのくれ
◇「歳晩」(さいばん) ◇「年末」 ◇「歳末」 ◇「年の瀬」 ◇「年の果」 ◇「年の終」 ◇「年の残り」 ◇「年尽く」 ◇「年果つ」 ◇「年つまる」
12月も半ばを過ぎると、いよいよ正月の準備が始まり、年の暮の実感が生まれる。一年の節目としてのあわただしい暮しの中で、年を惜しむ心境や新年を待つ心持のないまぜとなった気持ちが重なる。

例句 作者

歳晩の脚立に妻の指図待つ 安居正浩
拍手してみんな留任年の暮 松倉ゆずる
小傾城行きてなぶらん年の暮 其角
忘れゐし袂の銭や年の暮 吉田冬葉
小鳥屋は小鳥と居たり年の暮 林 翔
映すものなき歳晩の潦 永方裕子
路の辺に鴨下りて年暮れんとす 前田普羅
年暮るる振り向きざまに駒ケ獄 福田甲子雄
年くれぬ笠着て草鞋はきながら 芭蕉
歳晩やものの終りは煙立て 能村登四郎


ふと羨し日記買ひ去る少年よ 松本たかし

2019-12-26 | 今日の季語


ふと羨し日記買ひ去る少年よ 松本たかし

書店でか、文房具店でか。来年度の日記帳が、ずらりと山積みに並んでいる。あれこれ手に取って思案していると、隣りにいた少年がさっと一冊を買って帰っていった。自分のように、ぐずぐずと迷わない。「買ひ去る」は、そんな決断の早さを強調した表現だろう。「ふと羨(とも)し」は、即決できる少年の若さに対してであると同時に、その少年の日記帳に書きつけられるであろう若い夢や希望に対しての思いである。おそらく、ここには自分自身が少年だったころへの感傷があり、伴って往時茫々との感慨もある。「オレも、あんなふうなコドモだったな……」と、「少年よ」には、みずからの「少年時代」への呼びかけの念がこもっている。もとより、ほんの一瞬の思いにすぎないし、すぐに少年のことなどは忘れてしまう。だが、このように片々たる些事をスケッチして、読者にさまざまなイメージを想起させるのも俳句の得意芸だ。読者の一人として、私も私の「少年」に呼びかけたくなった。熱心に日記をつけたのは、小学六年から高校一年くらいまで。まさに少年時代だったわけだが、読み返してみると、内面的なことはほとんど書かれていない。半分くらいは、情けないことに野球と漫画と投稿関連の記述だ。だから、本文よりも、金銭出納欄のほうが面白い。鉛筆や消しゴムの値段をはじめバス代や映画代など、こまかく書いてある。なかに「コロッケ一個」などとある。買い食いだ。ああ、遠き日の我が愛しき「少年」よ。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)

【日記買う】 にっきかう(・・カフ)
◇「古日記」(ふるにっき)
来る年に使う日記を買うこと。年末に買うことが多い。「古日記」は年末となり残りのページが少なくなった日記のこと。また、その年の日記を書き終えることもいう。

例句 作者

三日坊主承知の上の日記買ふ 渋沢渋亭
大方は子等のことなり日記果つ 堀田喜代子
日記果つおろかな日々に埋みつつ 恩賀とみ子
すでにして己れあざむく日記買ふ 岡本 眸
日記買ふ只それだけの用持ちて 今井つる女
我が生は淋しからずや日記買ふ 高浜虚子
雨の日の神田に暮れて日記買ふ 角川春樹
実朝の歌ちらと見ゆ日記買ふ 山口青邨
人波のここに愉しや日記買ふ 中村汀女

暮るるよりさきにともれり枯木の町 大野林火

2019-12-25 | 今日の季語


暮るるよりさきにともれり枯木の町 大野林火

枯木は、すっかり葉が落ちてまるで枯れてしまったように見える木のことで冬木に比べ生命力が感じられないというが、枯木の町、には風が吹き日があたり人の暮らしがある。まだ空に明るさが残っているうちからぽつりぽつりとともる窓明り。ともれり、が読み手の中で灯る時、冬の情感が街を包んでゆく。この句は昭和二十六年の作だが同年、師であった臼田亜浪が亡くなっている。その追悼句四句の中に〈火鉢の手皆かなしみて来し手なり〉があるが、このかなしみもまた静かにそして確かに、悲しみとなり哀しみとなって作者のみならず読み手の中に広がってゆくだろう。『青水輪』(1953)所収。(今井肖子)

【枯木】 かれき
◇「裸木」(はだかぎ) ◇「枯枝」 ◇「枯木道」 ◇「枯木山」 ◇「枯木宿」 ◇「枯木立」
葉を落として枯れたように見える裸木状態の木である。しかも「枯木」という言葉のもつイメージは、「冬木」とも異なり、孤独で蕭条とした冬の気配を濃厚に伝える。

例句 作者

枯木中少年の日の径あり 川口松太郎
裸木となり一切を拒みけり 川崎陽子
しばらくもやさし枯木の夕附日 其角
枯木中仏に礼し僧帰る 高浜虚子
裸木となりゐて否も応もなし 武田芳枝
裸木のはるかに雲を恋ふるかな 青柳志解樹
裸木を叩けば骨の音がする 源 鬼彦
鶲来て色作りたる枯木かな 原 石鼎
枯木山底割つて川流れゐる 菅原章風
紅櫨と名札かけられ枯木なる 磯野充伯


獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす 秋元不死男

2019-12-24 | 今日の季語




獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす 秋元不死男

季語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)

【凍土】 いてつち
◇「凍土」(とうど) ◇「凍上」(とうじょう) ◇「凍上り」(いてあがり) ◇「大地凍つ」(だいちいつ)
凍った土をいうが、寒さの厳しい地方にみられる現象。土は凍って硬く、凍結層が厚くなると隆起現象を起し道路や建物に被害をもたらす。日が射しても、なかなか凍土は緩まない。

例句 作者

凍土や俵を漏れし炭の屑 石橋忍月
凍土をすこし歩きてもどりけり 五十崎古郷
凍土を踏みて淋しき人訪はむ 小坂順子
凍土をなほ縛しむる木の根かな 富安風生
凍土行く生きものの耳我れも立て 村越化石
道凍てし夜と云ふものゝ中にあり 高浜虚子

見かけよりぬくきものなり頬被  右城暮石

2019-12-21 | 今日の季語


見かけよりぬくきものなり頬被  右城暮石


頬被は掃除のときの煤除けだったり
都合の悪い時の小狡い態度だったりの
どちらかというと逃げるような隠れるような意味合いだと思っていたが
その前に帽子代わりの防寒具であったことを
再発見させてくれる

ひょっとこ踊りやドジョウ掬いには欠かせない

作者のしてやったりの顔がうかぶ (小林たけし)


【頬冠】 ほおかむり(ホホ・・)
◇「頬かぶり」
手拭で頭から頬にかけてを包むこと。防寒、防塵、顔隠しなどを目的とする。帽子普及以前の庶民の習俗。

例句 作者

生涯を都に遠く頬かぶり 市原あつし
曳く馬に養はれゐる頬被 福田蓼汀
頬かむりをとこ結びに朝市女 上村占魚
頬被り渡舟の席の座り沢 中村草田男
亡父かなし夢の中まで頬被 成田智世子
頬被り上手な斜里の女かな 千葉 仁
そこにあるありあふものを頬被 高浜虚子

地吹雪や嘘をつかない人が来る 大口元通

2019-12-20 | 今日の季語

地吹雪や嘘をつかない人が来る 大口元通

雪とはあまり縁のない土地で育ったせいで、吹雪の中を歩いた経験はない。「素人が吹雪の芯へ出てゆくと」と櫂未知子の句にあるように、方向さへ見失う吹雪は恐ろしいものだろう。では吹雪と地吹雪はどこが違うのだろう?手元の歳時記を引くと「地吹雪は地上に積もった雪が風で吹き上げられること。地を這うような地吹雪と天を覆うまで高く吹き上げられる地吹雪がある」と説明されている。天から降ってくる雪ではなくて、風が主体になるのだろうか。逆巻きながら雪を吹き上げる風の中、身をかがめ一歩一歩足元を確かめながら歩いてくる人、「嘘をつかない人」だから身体に重しが入って飛ばされないというのか、。誇張された表現が地吹雪を来る人の歩み方まで想像させる。ならば嘘つきは軽々と地吹雪に飛ばされてしまうのか、子供のとき読んだ「ほら吹き男爵」の話を思い出してしまった『豊葦原』(2012)所収。(三宅やよい)


【吹雪】 ふぶき
◇「地吹雪」 ◇「雪煙」 ◇「雪浪」(ゆきなみ)
強風に煽られて降る雪をいう。視界は暗く、遭難の危険が増す。いったん降り積もった雪が風に吹き上げられるのも吹雪だが、特に「地吹雪」と言う。風流な眺めとは正反対に位置する。

例句 作者

能登人にびやうびやうとして吹雪過ぐ 前田普羅
窓丸く拭きて吹雪を見てゐたり 等々力悦子
咳く我を包みし吹雪海へ行く 野見山朱鳥
瓦斯燈に吹雪かがやく街を見たり 北原白秋
棺桶に合羽掛けたる吹雪かな 村上鬼城
今日も暮るる吹雪の庭の大日輪 臼田亜浪
吹雪と来て子に金剛の瞳が二つ 橘川まもる
乳しぼり捨てゝ吹雪となりゐたり 石橋秀野
地吹雪と別に星空ありにけり 稲畑汀子
燃ゆる日や青天翔ける雪煙 相馬遷子

地吹雪の顔なぐりゆく九条の会へ 寿々木昌次郎
安楽死出来ぬ桜が地吹雪す 金子徹

雪原の黒きが水の湧くところ 三上冬華

2019-12-19 | 今日の季語


雪原の黒きが水の湧くところ 三上冬華

一面の銀世界にぽつんと黒。一読ののち、はっとするのは、黒が闇や死を連想させるためか、おおむね凶事に傾くものが多いなかで、清らかな湧き水と結びつける違和感からであろう。しかし、銀世界のなかでは、黒点こそがこんこんと水が湧く場所なのだ。黒は雪を分けた大地の色だ。黒は凍結された空気のなかで、一点の瑞々しい命であり、大地があたたかく呼吸している場所なのである。何年か前になるが、年末年始を長野県栄村で過ごした。平家の谷と異名をとる秘境である。その谷底の村から見る景色は、まさに白い壷の底から見上げるような白一色の世界であった。色彩の一切許されないような雪原のなかで、一本の川の流れだけが黒々と輝いていた。雪原に記される動物たちの足跡は、水を飲むための川へと集まり、唐突に途絶えているものは、そこから飛び立った鳥たちであろう。鳥たちが落とす影など、普段意識したこともなかったが、雪の上ではあからさまにその姿を映していた。銀世界では、黒こそが命そのものとなり、豊かに刻印されているのであった。『松前帰る』(2006)所収。(土肥あき子)

ずっと空ずっと雪原陽ひとつ 田中不鳴
雪の原犬沈没し躍り出づ 川端茅舎
雪原をゆく一筋の風の影 加藤瑠璃子

雪原を来てやまどりの尾をひらふ 那須乙郎
雪原の極星高く橇ゆけり 橋本多佳子
雪原のおのが影へと鷲下り来 山口草堂
雪原に汽笛の沈む成木責 石田波郷

老いてゆく体操にして息白し 五味 靖

2019-12-18 | 今日の季語


老いてゆく体操にして息白し 五味 靖

季語は「息白し」で冬。句意は明瞭だ。年を取ってくると、簡単な動作をするにも息が切れやすくなる。ましてや連続動作の伴う「体操」だから、どうしても口で呼吸をすることになる。暖かい季節にはさして気にもとめなかったが、こうやって冬の戸外で体操をしていると、吐く息の白さと量の多さに、あらためて「老い」を実感させられることになった。一通りの解釈としてはこれでよいと思うけれど、しかしこの句、どことなく可笑しい。その可笑しみは、「老いてゆく」が「体操」にかかって読めることから出てくるのだろう。常識的に体操と言えば、老化防止や若さの維持のための運動と思われているのに、「老いてゆく体操」とはこれ如何に。極端に言えば、体操をすればするほど老いてゆく。そんな感じのする言葉使いだ。このあたり、作者が意識したのかどうかはわからないが、こう読むといささかの自嘲を込めた句にもなっていて面白い。ところで、この体操はラジオ体操だろうか。ラジオ体操は、そもそもアメリカの生命保険会社が考案したもので、運動不足の契約者にバタバタ倒れられては困るという発想が根底にあった。そんなことを思い合わせると、掲句は自嘲を越えた社会的な皮肉も利いてきて、ますます可笑しく読めてくる。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男

息白し】 いきしろし
◇「白息」(しろいき)
大気が冷えている状態のなかで、呼吸が白く見えること。冷気で息が細かい水滴になる現象。寒気の厳しさをあらわす。

例句 作者

白き息ゆたかに朝の言葉あり 西島麦南
息白くやさしきことを言ひにけり 後藤夜半
荒涼たる星を見守る息白く 野沢節子
息白し極光の青噴き出でて 澤田緑生
人の老美しく吐く息白く 富安風生
妻恋の白息にある日本海 角川源義
泣きしあとわが白息の豊かなる 橋本多佳子
暁光にわが白息の真直なり 林 翔
この亀裂白息をもて飛べと云ふ 恩田侑布子
ぴったりと背に二番手の息白し 渡部洋一
中年や華やぐごとく息白し 原裕
南無妙と吐く白息もほとけのもの 吉田未灰
夜の山路より白息の二人ほど 友岡子郷
息白くなる扉から国境 花谷清
息白く両手にゴミの家長かな 峠谷清広
息白く激情治まらず 山内俳子洞
息白しこの掛値なき肺活量 住落米
父健やか早朝散歩の息白し 下田富美子
白い息そっと寄り添う影を踏み 猪狩理操
白き息ゆたかに朝の言葉あり 西島麦南
白き息吐きゐてこの世たのしかり 堤保徳
白き息鎮もりて果つオリンピコ 鈴木代志子
白息のゆたかに人を恋へりけり 藺草慶子
白息を吐きつ並べる世迷言 野島美津子
胸中に不条理燃やし息白し 髙橋宇雀
警笛の尖る踏切り息白し 吉川敬一郎

咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女

2019-12-17 | 今日の季語


咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女

苦しそうに咳をしながらも、いつまでも「なぞなぞあそび」に興ずる子ども。気づかう母親は「もうそろそろ寝なさい」と言うが、意に介さず「きりも」なく「あそび」をつづけたがる。つきあう母としては心配でもあり、たいがいうんざりでもある。私は小児喘息だった(死にかけたことがあるそうだ)ので、少しは覚えがある。「ぜーぜー」と粗い息を吐きながら、母にあれこれと他愛のない「問題」を出しては困らせた。しかし、咳でもそうだけれど、喘息の粗い息も、何かに熱中してしまうと、傍目で見るほど苦しくは感じられないものだ。慣れのせいだろう。が、もう一つには、子どもには明日のことなど考えなくてもよいという特権がある。だから、いくら咳が出ても、精神的な負担にはならない。いよいよ苦しくなれば、ぺたんと寝てしまえばよいのである。同じ作者に「風邪薬服して明日をたのみけり」があり、このように大人は「明日を」たのまなければならない。この差は、大きい。「なぞなぞ」といえば、小学生のときに「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。なあんだ?」と、友だちに聞かれた。答えは「人間の一生」というものだったが、そうすると、いまの私は夕方くらいか。夕方くらいだと、まだ「明日を」たのむ気持ちも残っている。羨ましいなあ、ちっちゃな子は。「咳」「風邪」ともに、冬の季語。読者諸兄姉におかれましては、お風邪など召しませんように。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)

【咳】 せき
◇「咳く」(しわぶく) ◇「咳く」(せく)
風邪の症状のひとつ。気管支が寒気に刺激されても出る。

例句 作者

妻の留守ひとりの咳をしつくしぬ 日野草城
行く人の咳こぼしつゝ遠ざかる 高浜虚子
咳をして言ひ途切れたるままのこと 細見綾子
咳くと胸の辺に月こぼれきぬ 角川源義
ふるさとはひとりの咳のあとの闇 飯田龍太
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女
咳熄んで大きな石をみつめゐる 菅原鬨也
そこここに虚子嫌ひゐて咳払ひ 鷹羽狩行
ジャズの中咳を落してわが過ぎぬ 石田波郷


反論のありて手袋はづしけり  西村弘子

2019-12-16 | 今日の季語


反論のありて手袋はづしけり  西村弘子

季語は「手袋」で冬。これは、ただならぬ雰囲気ですぞ。喧嘩ではないにしても、その寸前。と、掲句からうかがえる。作者自身のことを詠んだのかどうかは知らねども、句を見つけた俳誌「鬼」(2004/No.14)に、メンバーの野間一正が書いている。「弘子さんは、意見をはっきり述べ納得するまで自説を曲げない。一方、頭脳明晰、理解早く、後はさばさば竹を割ったようなさっぱりとした性格の、大和撫子である」。いずれにしても、こういうときの女性特有の仕草ではあるだろう。男が「手袋」をはずしたって、別にどうということはない。ほとんど何のシグナルにもならない。しかし、女性の場合には何かが起きそうな気配がみなぎる。状況としては、相手と一度別れるべく立ち上がり、手袋をはめたのだが、立ち上がりながらの話のつづきに納得できず、もう一度坐り直すという感じだ。周囲に知り合いがいたら、はらはらするばかり。知り合いが男の場合には、口出しもならず、ただおろおろ。決して喧嘩ではないのだけれど、私も周囲の人として遭遇したことは何度かあって、疲れている場合には内心で「いい加減にしろよ」とつぶやいたりしていた。でも、女性がいったんはめた手袋をはずすだけで、その場の雰囲気が変わるのは何故だろうか。それだけ、女性と装いというのは一心同体なのだと、いかにも知ったふうな解釈ですませてもよいのだろうか。ううむ。『水源』(2004)所収。(清水哲男)

【手袋】 てぶくろ
◇「手套」(しゅとう) ◇「マッフ」 ◇「マフ」
手や指を寒さから守るもの。毛糸で編んだものが主流だが、皮革も好まれる。「マッフ」は両側から手を入れて暖める円筒形のもので、小物入れを兼ねたものもあるが、現在ではほとんど使用されない。

例句 作者

月光が革手袋に来て触るる 山口青邨
手袋を脱ぐとき何か忘れをり 辺見じゅん
手袋の手をたゞひろげゐる子かな 松根東洋城
手袋の手を置く車窓山深み 宇佐美魚目
手袋をはめ終りたる指動く 高浜虚子
玻璃くもり壁炉の上に古マッフ 栗原とみ子
手袋に五指を分かちて意を決す 桂 信子
手袋の十本の指を深く組めり 山口誓子
手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな 日野草城
怒も寒もわが手袋の中なりけり 橘川まもる

女番長よき妻となり軒氷柱  大木あ

2019-12-15 | 今日の季語



女番長よき妻となり軒氷柱  大木あまり

世間にはよくある話だ。派手好みで男まさりで、その上に何事につけても反抗的ときている。将来ロクなものにはならないと、近所でも折り紙つきの娘が、結婚と同時にぴたりと大人しくなってしまった。噂では、人が変わったように「いい奥さん」になっているという。作者も、娘の過去は知っているので気がかりだった。で、ある日、たまたまその娘の嫁ぎ先の家の前を通りかかると、小さな軒先に氷柱(つらら)がさがっていた。もちろん何の変哲もない氷柱なのだが、その変哲の無さが娘の「よき妻」ぶりを象徴していると思われたのである。ホッとした気分の作者は、そこで微笑を浮かべたかもしれない。よくある話には違いないが、軒先のただの氷柱に「平凡であることの幸福」を見た作者の感受性は、さすがに柔らかく素晴らしいと思えた。『雲の塔』(1993)所収。(清水哲男)

【氷柱】 つらら
◇「垂氷」(たるひ)
雨雪などの水の滴りが凍って棒のように垂れ下がったもの。雪国では屋根から地面に届くほどの大氷柱を見ることも稀ではない。山中の樹枝や崖などでもよく見ることが出来る。寒さの象徴でもある氷柱には、どこか明るいイメージが付いている。

例句 作者

世の中を遊びごころや氷柱折る 高浜虚子
一茎の棘の先よりつららかな 小島千架子
滴まで青し吉野の軒氷柱 大島雄作
星空へ身をのり出してつらら折る 市掘玉宗
夕焼けてなほそだつなる氷柱かな 中村汀女
みちのくの町はいぶせき氷柱かな 山口青邨
一本の太き氷柱の茜かな 長谷川 櫂
日の氷柱海近くても遠くても 長谷川双魚
朝日影さすや氷柱の水車 鬼貫
ロシア見ゆ洋酒につらら折り入れて 平井さち子

もつと軽くもつと軽くと枯蓮  藺草慶子

2019-12-14 | 今日の季語


もつと軽くもつと軽くと枯蓮  藺草慶子

緑あふれる蓮の葉、高貴で香しい蓮の花の時期を通り過ぎ、蓮の骨ともいわれる枯蓮は、耐えがたい哀れを詠むのが倣いである。ところが掲句は一転して、蓮は枯れることで軽くなろうとしているのだと見る。日にさらされ尽くした蓮は、風に触れ合う音さえも軽やかである。それはまるで植物としての使命を終えたのちに訪れる幸福な時間にも思われる。黄金色に輝く杖となった蓮の「もっともっと」のつぶやきは、日のぬくみとともに作者の胸の奥にも静かに広がっていることだろう。『櫻翳』(2015)所収。(土肥あき子)

【枯蓮】 かれはす
◇「枯はちす」 ◇「蓮枯る」 ◇「蓮の骨」
枯れ果てた蓮の姿。冬になると、葉柄が腐って葉身を支えきれずに折れたように垂れ下がる。夏場の爽やかで華やかな姿はすっかり影をひそめ、水面にうなだれて広がる荒涼とした褐色の光景は、残骸のようで痛ましく哀れである。

例句 作者

枯芭蕉日をかへすことなくなりぬ 佐々木有風
枯蓮のうごく時きてみなうごく 西東三鬼
枯蓮の水来て道にあふれけり 久保田万太郎
蓮枯れて水に立つたる矢の如し 水原秋櫻子
枯蓮田暮れて風音のみ残る 滝 佳杖
ひとつ枯れかくて多くの蓮枯るる 秋元不死男
美しき空とりもどす枯蓮 小川千賀
枯蓮にてのひらほどの水残る 三村純也
枯蓮の赤らむ沼と見てはるか 阿部みどり女
かな文字の風情を水に枯蓮 塘 柊風