竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

形代の嘘いつはりのなき形 矢島久栄

2019-06-30 | 今日の季語



strong>形代の嘘いつはりのなき形 矢島久栄


【名越の祓】 なごしのはらえ(・・ハラヘ)
◇「夏越の祓」(なごしのはらえ) ◇「夏越」 ◇「大祓」(おおはらえ) ◇「御祓」(みそぎ) ◇「形代」(かたしろ) ◇「夏祓」(なつはらえ) ◇「川祓」 ◇「夕祓」 ◇「祓川」(はらえがわ) ◇「川社」(かわやしろ) ◇「禊川」(みそぎがわ) ◇「茅の輪」(ちのわ) ◇「茅の輪潜り」(ちのわくぐり)
毎年6月晦日に行われる祓の神事(夏越の祓)で、参詣人に茅の輪をくぐらせ厄を祓い浄める。邪神を和(なご)めるために行うことから名付けられた。「形代」は紙でできた人形(ひとがた)で、これに身体の災いを移し、川に流して禊や祓を行うもの。「茅の輪」は主として近畿地方の神社で、陰暦6月晦日の夏越祓の神事に用いられる茅(ち)の輪の事。茅を紙で包み束ねて輪の形に作り、神社の内に置いて参詣人にくぐらせ厄を祓うという信仰からきている。

例句 作者


筑後川茅の輪の中に曲がりけり 久保山敦子
まだ誰も通らぬ茅の輪風が抜け 杉山伊都子
みちのくの毳立つ茅の輪くぐりけり 矢島渚男
漁に出る支度でくぐる茅の輪かな 高野岩夫
擂粉木のほどほど減つて名越済む 能村登四郎
夕風は竹に吹きゐる夏越かな 永方裕子
形代の妻はさつさと流れけり 湯浅康右
思川白きもの立て夏祓 阿波野青畝
流れゆき誰が形代と重なりし 菅原鬨也
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かたまるや散るや蛍の川の上 夏目漱石

2019-06-29 | 今日の季語


かたまるや散るや蛍の川の上 夏目漱石

少年時代、夏休みになると、近所のお姉さん(18歳くらいだった)に頼んで、よく野外映画会に連れていってもらった。往復二里の山道である。帰り道ではこの句のとおり、川の上には蛍が密集して光っていた。そんな情景のなか、お姉さんと僕は、互いに無言のままひたすら家路を急いだのだった。漱石がこの句を作ったのは明治29年。ちょうど百年前である。敗戦直後の山口県の田舎の蛍は、明治期の漱石が見た蛍と同じように、群れながら明滅していたというわけである。ということは、お姉さんと僕は、いつも黙って明治の夜道を歩いていたということにもなる……。長生きしている気分だ。『漱石俳句集』(岩波文庫・坪内稔典編)所収。(清水哲男)

【螢】 ほたる
◇「ほうたる」 ◇「源氏螢」 ◇「平家螢」 ◇「螢合戦」 ◇「螢火」 ◇「初螢」 ◇「恋螢」 ◇「朝螢」 ◇「昼螢」 ◇「夕螢」 ◇「雨螢」

ホタル科の甲虫類。普通見るのは源氏蛍や平家蛍。両種類とも、雄、雌、蛹、幼虫、そして卵も光る。蛍の名所を名前にして、宇治蛍、石山蛍などと呼ばれることもある。初夏の闇夜に青白く妖しい光を放ちながら飛んでいる蛍は、夏を代表する風景の1つであろう。

例句 作者

死蛍夜はうつくしく晴れわたり 宇多喜代子
蛍火に闇の息づく百戸村 沼沢破風
じやんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
蛍に足裏の冷えて寝ねにけり 岡田詩音
手囲ひの蛍放してふたりかな 高畑信子
蛍火の寺にあらたな闇育つ 石 寒太
ほうたるの行方は琴座あたりかな 阿波岐 滋
原子炉を見たる一夜の蛍かな 橋本榮治
舞妓の髪匂ふ貴船のほたる川 千谷頼子
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辞する背に消さる門灯梅雨寒し 後藤雅夫

2019-06-28 | 今日の季語


辞する背に消さる門灯梅雨寒し 後藤雅夫

梅雨のまっただ中で掲句を読むのはいかにも鬱陶しいので(つまり、それほどの力がある句なので)、いまのうちに掲げておきたい。既に梅雨入りした地方のみなさまには、すみません。その家を辞して、わずかばかり歩いたところで、背後の「門灯」がふっと消えた。ただそれだけのことなのだが、ちょっとイヤな気分だ。もしかすると、自分は歓迎されざる客だったのではないか。調子に乗って長居し過ぎてしまったのではないか。だから、家の人がせいせいしたと言わんばかりに、まだ自分を照らしているはずの門灯を情け容赦なく消したのではないか。そんな思いが心をよぎって、いよいよ梅雨の寒さが身にしみる……。いや逆に「梅雨寒」の暗い夜だからこそ、そうした余計な猜疑心が湧いてきたのかもしれない。先方は、ちゃんとタイミングを計ったつもりで、他意無く消しただけなのだろう。などと、たった一つの灯が早めに消えたことでも、人はいろいろなことを感じたりする。かつての編集者時代を自然に思い起こして、つくづく人の気持ちの不思議さ複雑さを思う。いまのようにファクシミリもメールもなかった頃には、とにかく著者のお宅にうかがうのが重要な仕事の一つだった。夜討ち朝駆けなんてことも、しょっちゅうだつた。著者自身はともかくとして、家の人には迷惑千万のことが多かったろう。明らかに悪意を込めて応対されたことも、あった。玄関を出た途端に、パチンと明かりを消される侘しさよ。著者よりも、まず奥さんに気に入られないと仕事にならない。仲間内で、よくそんなことを言い合ったものだ。文壇三悪妻、画壇三悪妻などと陰口を叩いて溜飲を下げたつもりの若き日に、掲句が連れて行ってくれた。脱線失礼。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)

【梅雨寒】 つゆさむ
◇「梅雨寒し」 ◇「梅雨冷」
梅雨時に寒冷前線の南下などにより気温が低下することがあり、そうした肌寒さをいう。時には火の気が恋しいことさえある。

例句 作者

梅雨冷の月よりくらきランプ吊る 大島民郎
梅雨寒や尼の肋骨数うべう 前田普羅
梅雨さむし山霧軒にささと降り 長谷川素逝
とびからす病者に啼いて梅雨寒し 石橋秀野
梅雨寒の薄き屍と弟子ひとり 細川加賀

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黒南風や月の転がる日本海 たけし

2019-06-27 | 入選句


黒南風や月の転がる日本海 たけし



6月26日㈬ 朝日新聞 栃木俳壇 石倉夏生先生の選をいただきました



前日まで、筑波山への吟行を

先生とご一緒し、同部屋という幸運な体験をしました



遅くまでさまざまなお話を伺い大変勉強になりました

あるがとうございました



この俳句は黒南風が南からの前線を運ぶ風なので

日本海は適当でないとないと

悩んでいたものでした



この俳壇の入選者には多くの知人が散見されていて

おおいに刺激されます

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蛇の髯の實の瑠璃なるへ旅の尿 中村草田男

2019-06-27 | 今日の季語


蛇の髯の實の瑠璃なるへ旅の尿 中村草田男

前書に「京都に於ける文部省主催『芸術学会』に出席、旧友伊丹萬作の家に宿りたる頃」とある。昭和17年秋。伊丹は病臥していた。「蛇(じゃ)の髯(ひげ)」(実は「竜の玉」とも)庭の片隅や垣根などに植えられるので、立小便には格好の場所に生えている。したがってこの句のような運命に見舞われがちだ。しかし、作者は故意にねらったわけではないだろう。時すでに遅しだったのだ。恥もかきすてなら、旅でのちょっとした失策もかきすてか……と、濡れていく鮮やかな瑠璃色の球を見下ろしながらの苦笑の図。底冷えのする京都の冬も間近い。「尿」は「いばり」。『来し方行方』(1947)所収。(清水哲男)



【蛇】 へび
◇「くちなわ」 ◇「ながむし」 ◇「青大将」 ◇「縞蛇」 ◇「山楝蛇」(やまかがし)

アオダイショウ、マムシなど色々いるが、トカゲ目ヘビ亜目の爬虫類の総称。ヘビは冬眠するが、啓蟄のころ冬眠から覚め穴から出て夏場、辺りを徘徊し、蛙などの小動物や鳥の卵を食べる。水面を上手に走ることもできる。蝮やハブの類は有毒だが、その他は無害。

例句 作者

日輪や島の高みに蛇交む 山田真砂年
青大将よぎりて視覚狂ひだす 山本秋穂
青大将素手に掴みて偉くもなし 竹本素六 
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 阿波野青畝
畦草に乗る蛇の重さかな 飯島春子
胴長きゆえに轢かれし蛇ありぬ 五十嵐研三
鳥羽殿へ昔急ぎし蛇の舌 星野昌彦
蛇の艶見てより堅き乳房をもつ 河野多希女
蛇交み赤松の空たはみけり 菅原鬨也
蛇持ちて不思議な自信生まれけり 山本和子
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落日の目つぶし鏡拭く沖縄  隈 治人

2019-06-23 | 今日の季語



落日の目つぶし鏡拭く沖縄  隈 治人

沖縄の落日が目にまぶしい。まぶしさを通り越して目つぶしのような強烈な光線だ。目つぶしで一端切る。鏡を拭くのは拭いても拭いても鏡から消えない沖縄の存在感を言っている。「目つぶし」がこの句の核。沖縄がテーマのようだが実は「目つぶし」の方が強烈な詩語だ。この句の「沖縄」は「目つぶし」がなければ生きてこないが、「目つぶし」の方は「沖縄」が無くても他の言葉とうまくやっていける。そんな気がする。こういう核になる語から探していく作り方もあろう。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)


沖縄忌

沖縄県慰霊の日
昭和20年、沖縄守備隊が壊滅した日である

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地下鉄にかすかな峠ありて夏至  正木ゆう子

2019-06-22 | 今日の季語


地下鉄にかすかな峠ありて夏至  正木ゆう子

思えば地下鉄ほど外界から切り離された場所はないだろう。地下鉄からは光る雲も、風に揺らぐ緑の木々も見えない。真っ暗な軌道を轟音とともに走る車両の中では外の景色を見て電車の上り下りを感じることはできない。地下鉄にも高低差はあるだろうが、電車の揺れに生じる微妙な変化を身体で感じるしかないのだ。その起伏を表すのに人工的な地下鉄からは最も遠い「峠」という言葉にゆきあたったとき、作者は「ああ、そういえば今日は夏至」と改めて思ったのかもしれない。昼が最も長く夜が最も短いこの日をピークに昼の長さは短くなってゆく。しかし「夏至」という言葉にその頂点を感じても太陽のあり方に目に見える変化が起こるわけではない。「かすかな峠ありて夏至」と少し間延びした言葉の連なりにその微妙な変化を媒介にした地下鉄の起伏と太陽の運行との結びつきが感じられる。都会生活の中では、自然の変化を肌で感じられる場所はどんどん失われている。だが、味気ない現実に閉じ込められるのではなく作者は自分の身体をアンテナにして鉄とコンクリートの外側にある季節の変化を敏感に受信している。「かすかな」変化に敏感な作者の感受性を介して都会の暗闇を走る地下鉄は明るく眩しい太陽の運行と結びつき、それまでとは違う表情を見せ始めるのだ。『静かな水』(2002)所収。(三宅やよい)

【夏至】 げし
二十四節気の1つで、6月21、22日頃に当る(芒種の15日後)。1年中で昼が最も長い日で、東京では昼間が14時間半を超える。

例句 作者

夏至といふ寂しさきはまりなき日かな 轡田 進
けふ夏至の山を離るる漢たち 中村苑子
沛然と降る雨夏至の法隆寺 福島壺春
夏至の夜やジンとバッハとあと余白 藤田弥生
思想までレースで編んで夏至の女 伊丹公子
木曾馬の遊びて夏至となりにけり 森田 峠

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雑踏にかくる憔悴薄暑光 たけし

2019-06-21 | 入選句


雑踏にかくる憔悴薄暑光 たけし



令和元年6月20日㈭

なかなか入選できないでいた産経俳壇で

寺井谷子先生の選をいただいた



落胆したり、誤解されたり、苛まれたり

思い切り恥をかいたりで

憔悴して誰にも会いたくない、心はざわめいていて落ち着かない

そんな時は街の雑踏に救われる

そんな句意を分かっていただいた



産経俳壇/寺井谷子先生の選は今回で9回にな画卯

新聞俳壇での初入選2012年11月7日の仏壇・鬼灯の句だった



仏壇の鬼灯は赤今朝の作務   2012/11/7
山宿や手に炭継ぎの火傷痕 2014/11/19
沖波の命の尖り寒月光 2015/2/25

落ちるまで焦げくさく鳴く蝉である
2015/7/22
春光や凛と墨糸寺普請 2017/4/19
檀那寺の曝書に雑じり幽霊図 2017/7/26
畳目に躓いている冬の蠅 2017/11/29
愛は騒乱囀りに血のにほひ 2019/4/18
雑踏にかくる憔悴薄暑光 2019/6/20
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郭公や夜明けの水の奔る音 桂 信子

2019-06-20 | 今日の季語


郭公や夜明けの水の奔る音 桂 信子


季語は「郭公(かっこう)」で夏。私の田舎ではよく鳴いたが、いまでも往時のように鳴いているだろうか。どこで聞いても、そぞろ郷愁を誘われる鳴き声である。掲句は、旅先での句だろう。というのも、慣れ親しんだ自分の部屋での目覚めでは、ほとんど外の音は聞こえてこないはずのものだからだ。もちろん、四囲には常に何かの音はしている。が、それこそ慣れ親しんでいる音には、人はとても鈍感だ。鈍感になれなければ、とても暮らしてはいけない場所もたくさんある。でも、平気で住んでいる。私はこれまでに二度、街のメインストリートに面した部屋で寝起きしたことがあるけれど、すぐに音は気にならなくなった。たとえ郭公の声であれ「水の奔(はし)る音」であれ、同じこと。土地の人には、そんなには聞こえていないはずなのだ。それが旅に出ると、土地の人にはごく日常的な音にもとても敏感になる。旅人は、まず耳から目覚めるのである。だから、地元の人は、こういう句は作らないだろう。いや、作る気にもならないと言うべきか。作るとしても、郭公の初鳴きを捉えるくらいがせいぜいだ。それも、掲句のように、郭公の鳴き声が主役になることはないと思う。句意は明瞭で、こねくりまわしたような解釈は不要だろう。単純にして美しい音風景だ。その土地の音の美しさは、よその土地の人が発見する。私がこねくりまわしたかったのは、そこらへんの事情についてであった。『緑夜』(1981)所収。(清水哲男)


【郭公】 かっこう(クワク・・)
◇「閑古鳥」(かんこどり)

4月半ばから5月半ばにかけて南から渡り、低山帯の樹林などに生息する。卵を頬白、鵙、葭切などの巣に托卵し育てさせる。羽色は雌雄同色、形は時鳥とよく似ているが、時鳥より大型でカッコウ、カッコウと聞こえる鳴き声ですぐに識別できる。

例句 作者
郭公や寝にゆく母が襖閉づ 広瀬直人
離愁とは郭公が今鳴いてゐる 深見けん二
郭公や桑にしづみて小家がち 亀井糸游
郭公や恋のラケット重ね置く 原 ふみ江
郭公や道はつらぬく野と雲を 堀口星眠
托卵のあと郭公の高鳴けり 後藤杜見子
あるけばかつこういそげばかつこう 種田山頭火
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青田風まわり道する退院日 たけし

2019-06-19 | 入選句


青田風まわり道する退院日 たけし



2019.06.19㈬

朝日新聞 栃木俳壇

石倉夏生先生の選を頂きました



半世紀も以前の言ですが

北海道の結核療養所に長期入院の景系があります

退院日の病院からの帰途

まっすぐに家に帰るのがもったいない気分になって

回り道、寄り道をしながら帰ったことがあります



掲句はそんな体験をベースにしています



入院時と退院時の景のうつろい

気分の高揚感が

おりからの青田の清しい風を感じています
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青田中信濃の踏切唄ふごとし  大串 章

2019-06-18 | 今日の季語


青田中信濃の踏切唄ふごとし  大串 章

自註に、こうある。「昭和三十八年作。初めて信州に旅をした。大空のかがやき。青田のひかり。信州の緑の中で聞く踏切の音は都会のそれとは全く異なっていた」。先日私が新幹線から見た青田も美しかったが、新幹線に踏切はない。青田中から新幹線の姿を叙情的にうたうとすれば、どんな句になるのだろうか。『自註現代俳句シリーズ7・大串章集』所収。(清水哲男)

【青田】 あおた(アヲタ)
◇「青田面」(あおたも) ◇「青田風」 ◇「青田波」 ◇「青田道」

苗を植えてまもない田を「植田」というのに対して稲が生育して一面青々とした田を「青田」という。植田が青一色になる頃は土用の日差しも強く、青田を吹き行く風(「青田風」)になびく稲は波のように揺れ(「青田波」)、見るからに爽快である。《植田:夏》


例句 作者

青田道来て礼拝の顔揃ふ 谷島 菊
自転車が占む青田道青田駅 小黒黎子
青田青し父帰るかと瞠るとき 津田清子
ていれぎの水流れ入る青田かな 森薫花壇
鉄塔の四肢ふんばつて青田中 久田岩魚
日本海青田千枚の裾あらふ 能村登四郎
青田より青田へ飛騨の水落す 島田妙子
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青芒川風川にしたがはず 上田五千石

2019-06-17 | 今日の季語


青芒川風川にしたがはず 上田五千石

この句を読んだときいっぺんに目の前がひらける感じがした。山登りでちょっとした岩場に出て今まで林に閉ざされていた景色がパノラマで広がる、そんなすがすがしさと似ている。自然を描写した句は多いけど、すかっと気分がよくなる吟行句は案外少ない。川そばの青芒が強い川風にいっせいになびいている。その風向きと川が流れてゆく方向が違う。と、字面だけを追ってゆくと理屈だけになってしまうこの句のどこに引かれるのだろう。川の流れが一望できる高台で、視覚だけでなく頬を打つ風の感触で作者は眺望を捉えているのだ。夏の日にきらめく川の流れる方向に心を乗せて、かつ青芒をなびかせる風を同時に感じた時ひらめいた言葉が作者の身体を走ってゆく。リズムのよいこの句のすがすがしさは、広がる景の空気感を言葉で捉えなおした作者の心の弾みがそのままこちらに伝わってくるからだろう。その時、その場でしか得られない発見の喜びが景の描写に輝きと力を加えているように思う。『遊山』(1994)所収。(三宅やよい)

【青芒】 あおすすき(アヲ・・)
◇「青薄」(あおすすき) ◇「青萱」(あおかや) ◇「芒茂る」
まだ花穂を出す前の青々とした夏の薄のさま。青萱。芒茂る。

例句 作者

青芒城主この間に目覚めしや 飯田龍太
卓上の灯わたる風や青薄 寺田寅彦
潮汲みの河原の院の青芒 鈴木勘之
切先の我へ我へと青芒 行方克己
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父の日をベンチに眠る漢かな 中村苑子

2019-06-16 | 今日の季語



父の日をベンチに眠る漢かな 中村苑子


六月の第三日曜日は父の日。「漢」には「をとこ」と振り仮名がある。ホームレスの男だろうか。あるいは、酔っ払いだろうか。父の日だというのに、ベンチで眠りこけている。家族はないのだろうか。あるとしても、子供らは父のこのような姿は知らないだろう。しかし、作者は「お可哀そうに」と思っているわけではない。あえて「男」と書かずに「好漢」「悪漢」の「漢」を用いているのが、その証拠だ。むしろ、世間のヤワな風習などとは没交渉に生きている姿勢に、男らしさ、男くささを感じている。好感をすら抱いている。(清水哲男)



父の日】 ちちのひ


6月の第3日曜日。父に感謝する日。母の日と同様にアメリカから起った行事。

例句 作者
父の日に子が来て母と睦みけり 千葉 仁
妻なくてわれに父の日などあらず 白川友幸
穴ひとつ詰め父の日の革ベルト長谷川鉄夫 
山深くゐて父の日の暮れにけり 柴崎七重
父の日や遺品のなかの金釦 遠藤若狭男 
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へちまぞなもし夜濯の頭に触れて  西野文代

2019-06-14 | 今日の季語



へちまぞなもし夜濯の頭に触れて  西野文代


緑のカーテンと称して、陽のあたるベランダにゴーヤの葉を茂らせる今年の流行にのって、うちも育ててみた。どうにかいくつかぶらぶらと実を結び、毎日大きくなるのを楽しみにしていた。日除けと言えば糸瓜の棚もその一種だろう。「糸瓜」と聞けば子規を連想するが、「へちまぞなもし」は松山言葉。夜濯のものを干した頭に棚の糸瓜がごつんとあたる。「あいた」と言う代わりにこんなユーモラスな言葉が口をついて出てくれば上等だ。へちまがぼそっと呟いていると考えても面白い。野菜や果物を毎日大切に育てていると彼らの声が聞こえるという話を聞いたことがあるが、ゴーヤの声が響いてこない私はまだまだってことだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)

夜濯】 よすすぎ

例句  作者

入院待つ日々夜濯ぎを怠らず 中野 弘
夜濯や島に一つの門徒寺 大峯あきら
夜濯ぎや育児休暇の父若き 鳥羽碧香
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大空は微笑みてあり草矢放つ 波多野爽波

2019-06-13 | 今日の季語




大空は微笑みてあり草矢放つ 波多野爽波

大胆な擬人法である。「大空は微笑みてあり」だから、晴れ渡った空だったのだろう。あと、草矢遊びに興じている子供の心情まで、喩えているように思う。「草矢」は芒や葦などの葉を縦に裂き、指に挟んで、飛ばすこと。高さや飛んだ距離を競ったりする。この句、下五の部分が、「クサヤハナツ」と一音字余りになっている。その一音の時間の流れが、飛んでいく草矢の時間を彷彿させる。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)

【草矢】 くさや


野趣に富んだ子供の遊び。菅や茅の細い管状の葉を矢の形に割き、指に挟んで大空へ飛ばし、その高さや距離、時間の長さを競ったりする。

例句  作者

背を向けし間に草矢打たれけり 高倉和子
水辺の子橋の子草矢打ち合いぬ 加藤三七子
草矢うつ正倉院の巡査かな 鳥居ひろし 
ひとすぢの草矢は石に当たりけり 木内 徹
不器用に生きて草矢のよく飛べる 山本静桜
行きずりの子にも教へて草鉄砲 岡本信子
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