ケンのブログ

日々の雑感や日記

レディーファースト

2020年06月23日 | 日記
いつも行くスーパーマーケットのゴミ箱の前のコンクリートの床に蛾が死んでいた。
それはまだ死んたばかりではあるけれども見ればもう死んでいるとわかった。

ああ、蛾が死んでいるなあと思って僕が床を見つめているといきなり3歳くらいの男の子が僕の死角から走ってきてその場でしゃがんで、その蛾の死骸を指でツンツンした。

子供も蛾が死んでいるとわかったのだと思う。

僕は子供がするままに任せておいた。ただ子供のすることを見ているだけで何も言わなかった。

蛾の死骸をツンツンする子供をとがめる理由はどこにもないし、特に男の子はそういうことをするものだし、、、。

あえて止めないほうが子供の好奇心の芽をつまないためにもいいとさえ思う。

僕の子供の頃の友達もセミの羽をちぎったり、ザリガニのハサミをむしり取って「伊勢エビ」と言っていた。

ある程度、大きくなって実際にこれが伊勢エビと認識しつつ伊勢エビを見たときには確かにハサミはなく、そうか友達のRくんがザリガニのハサミをむしり取って伊勢エビと言っていたのは正しかったんだなと思った。

ただ、僕は子供の頃、友達がセミの羽をむしったりザリガニのハサミをむしったりするのを特にとめはしなかったけれども自分はそういうことはほとんどしなかった。

なぜか、そういう破壊的行為は子供の頃から好きではなかった。

でも今、僕の目の前にいる子供はただ蛾の死骸を指でツンツンしているだけで羽をむしったりしようとしているわけではない。

子供は3メートルくらい僕の斜め後方にいるお母さんに
「お母さん見て」と言った。

お母さんも僕が子供の至近距離に居る手前、何も言うことができない。
僕も見ず知らずのお母さんにこういうとき気の利いた冗談を言える性格でもないし、、、。

僕とお母さんが子供のすることを黙って見ている形になってしまった。

まあ、蛾にさわれば手に粉がついてお母さん後が大変だろうなとは思ったけれど。

僕がその場を立ち去ってスーパーマーケットの入り口のアルコール消毒スプレーを手に噴射しようとすると、またその子がスプレーのところに飛んできて、僕より先に手にスプレーをしてしまった。

そしてまた子供は僕の後ろに居るお母さんに向かって
「お母さん見て」と言ってスーパーマーケットの中に入って行ってしまった。

お母さんは僕がスプレーするのを待とうとされたけれど、僕は子供の行った方向を手で示して「どうぞ、お先に」と言った。

お母さんは会釈をして手にスプレーしてスーパーマーケットの中へ先に入っていかれた。

レディーファーストって何のためかよくわからない。
調べても少なくとも僕が調べた範囲ではあまり明確な答えが書いてあることはないようにも思う。

しかし、こういう場合のレディーファーストは‘’お母さんと子供がはぐれないようにするため‘’
という目的が明確でいいなと思う。

よく乗り物の遭難などでも女性、子供優先に避難ということが言われるけれど、女性と子供をそういう時は先に通したほうが、確かに人類全体の種の保存ということを考えた場合には、人間が種として生き残れる可能性は高いなと思う。

男と子供を先に通しても、男と子供、共倒れになってしまう可能性が高いし、、、。そういう時の男はあまり役に立たないから、、、。



夏至も過ぎて

2020年06月22日 | 日記
気づけばもう今年の夏至も過ぎたんだなと思う。今年はコロナで家の近所のお宮の夏越しの祭りも祭りそのものがなくなったわけではないけれど、一般の人が参加しない形になっていたりしてなんとなく季節というか暦の感覚がいつもの年と違うなと思う。

例年だったら神社の夏越しの祭りを見て夏至だなと思ったりするから、、、。

京都に行っても祇園祭の雰囲気もあまり漂っていないし、、、。
やはりいつもの年と違うなと思う。

旧約聖書の箴言(知恵の書)を読んでいると
「怒りを遅くする人は勇士にまさる」と書いてある。

アンガーマネッジメントとかそういうメソッドがさかんな世の中だけれど、何千年も昔から、しかも日本とは違う地域の文化でも「怒りを遅くする人は勇士にまさる」と伝えられていることを意識すればそれが何よりのアンガーマネッジメントになるように思う。

男の花道

2020年06月21日 | 日記
隣のそのまた隣の街にちょっと大きいカラオケ喫茶がある。
そこで80歳すぎくらいのおじいさんが演歌を歌っていた。

その演歌はサビの最後のところが
男の花道を〜♪という感じで盛り上がって終わる歌だった。

おじいさんは
男の花道を〜♪
と歌い終わるとその場で「どうだ。俺は男だ」という感じでとても満足そうな顔で
肩をいからせて、ちょっと斜めに構えて仁王立ちになってしまった。

いやあおじいさん完全に男の花道の世界にひたりきっていると思った。

昔、高倉健の任侠映画を見ると、みんな肩をいからせて映画館から出てきた
という都市伝説のようなものがあるけれど
あのおじいさんの姿を見ているとその都市伝説そのものだなと思った。

ちょうど高倉健の任侠映画を見ておられた世代の方だし、、、。

でもああいうおじいさん好きだなと思う。

おばちゃんの苦情

2020年06月20日 | 日記
数日前の新聞に塾の広告が挟まれてきた。僕が住んでいる地域では公立のトップ高校への合格実績が最も高い塾のひとつであるP塾の広告である。

そこにこんなキャッチが出ている。

‘’もはや勉強だけでは生きていけない。

与えられた課題をこなすだけの学校は時間の無駄。非効率な上に、子供の追求本能を封鎖する。本能を刺激する内発型授業で、楽しく学んでみませんか。

多くの人は「学校は当然」「勉強は当然」と思っており、「そもそも学校って必要?」
「勉強って必要?」などと考えたことがありません。つまり大半の人は、強制圧力に順応し決められたことに従って生きているだけで、何が必要で何が不要かを、自分の頭で考えたことがないのではないでしょうか。

マスコミやネット対しても同じで、盛んに情報を収集してそれだけでなにかわかったつもりになっていますが、実は何が事実なのさえもわからなくなっているのが実態です。情報を収集するだけでなく、例えば自分の頭で「コロナの正体は何か?」を追求しない限り、何が事実かも見えてきません。

学校の勉強も同じで。教科書を読んでわかったつもりになっていますが、それは単に情報を収集しただけで自分の頭では何も追求していません。

このように与えられた課題をこなしているだけでは、全く追求力のない指示待ち人間になってしまいます。この大転換の時代、それではこの先、生きていけなくなります。今、必要なのは、順応回路から脱却して自分の頭でものを考えること。そのための新しい学びの場がP小屋 P塾です。‘’

なんか読んでいて恐ろしくなるような文章だなと思った。人の頭を混乱させ扇動するような文章。

最近こういう宣伝が塾の宣伝に限らず多くなったなと思う。

インターネットの影響が大きいと思うけれど
最近特に、もう何でもいいからハッタリをかまして、とにかく反響を呼ぼう。ハッタリをかましたらそれを見透かしてくる人もいるかもしれないけれど、そんなこと気にしてたら競争に負けてしまう。とにかくまずハッタリ。そしてできるだけたくさんの数の客を集める。それで何か問題が出たらそのときクレーム処理すればよい。そんな発想の宣伝や商売が多くなっているような気がする。

ちょっと由々しき問題であるように僕には思える。

本当に、真面目に地道にやって誠実に宣伝するのが結局は強いという世の中になってほしいものだと思う。

今の世の中もきっとそうなのだとは思う。

ただ、激変する価値観の中でみんながそれを見失っているだけなのだと僕は思いたい。

話は変わって。

今日コンビニで男のバイトの店員の方がおばちゃんに
カードお持ちですかと聞いたら
「何言ってるの、あんた。私カードなんか一度も使ったことあらへんわ。」と言ってそのあと男の店員とおばちゃんの間でなんとも言えない沈黙の時間が何秒か続いた。

僕が勤めていた会社で自己紹介の欄に
苦手なもの=おばちゃんの苦情 と書いていた人がいたけれど
本当にこういう時のおばちゃんの一言って強烈だなと思う。

ただ、僕もカードのこと聞かれるの嫌いな口なので
おばちゃんもっと頑張れ。もう一言なんか言ってくれ。と心の中で叫んだけれどそれだけで終わった。

おばちゃんは不機嫌そうな顔をして商品を持ってコンビニを去った。

つれづれに思うこと

2020年06月19日 | 日記
「暑いですね」とSさんが言った。
「でも雨が降ると少しはましですね」と僕は言った。「もう梅雨に入っているんですかねえ」

「梅雨にはもう入ってますよ」
「そうですか」と僕は言った。天気図見て梅雨前線が張り出してたら梅雨なんですけどね。最近、天気図見ていないので、と言おうと思ったけれどやめた。
ややこしい話をすると嫌がられるかもしれないし、、、。

「でも雨が降ると湿気がね」とSさんは言った
「そうですね。湿気で蒸し暑いですね」と僕は言った。
「Nさんはクーラーもう入れてますか」とSさんは言った。
「もう入れてますよ」と僕は言った。
Sさんの顔がすこしがっかりしたようだった。
たぶんSさんクーラーまだ入れてないなと思った。

クーラーまだ入れてませんともし僕が言ったら
そうですよね、あんまり早くからクーラー入れると良くないですよね
と話が盛り上がっていたかもしれない。
けれど、そうはならなかった。


「このドリンクのビン、飲んだらカウンターに置いてっていいですか」と僕はドラッグストアの店員さんにいった。
「ビンはあそこの箱に入れてください」と店員さんは言った。

見るとカウンターの奥の左に100円ショップで売っているような小さなゴミ箱があった。
「あそこですね」と僕は言った。

「何ならカウンターに置いてっていただいてもいいですよ」と店員さんは言った。
「いや、ほかす場所がわかってれば自分でほかしますよ」と僕は言った。「コロナになってからどこもほかすとこなくなってしまったから」

「かと言って、ビン持ち帰るのは嫌やしね」と店員さんは言った。
「そうなんですよ」と僕は言った。
話のテンポのいい店員さんだなと思った。さすが大阪。



今日の新聞の国際欄にアメリカの動物園に引き取られることになった大きなリクガメの顔写真が載っている。本当に口が大きくて下あごに分厚い肉がついていて、目は極端に小さい。なんとも言えない顔。

その顔のことをAP通信の記事は「その母親のみが愛することのできる顔」‘’a face only its mother could love‘’と形容している。

can loveとしないでcould loveとcanを過去形にしているのは表現が露骨になりすぎないようにしかるべき譲歩を示していると思われる。別に過去の話をしているわけではない。

英語特有のユーモア表現だなと思う。


そして、道路に飛び出して迷惑だった亀を動物園が引き取ることになった記事にこういうユーモアをつけるのがまたなんとも奥ゆかしいなと思う。

まあ英語圏ではよくある話だとおもうけれど、、、。

でもユーモアって大切だなと思う。