菜穂子が次郎のもとを去ってからの9年の月日が流れた日本は、平和には程遠い、大東亜戦争と銘打った大戦へ突き進んでいた。開戦当初は勝利しつづけ、領土も拡大していったが、ミッドウェー海戦の敗戦を境に圧倒的な物量の差で形勢は逆転。昭和19年には本土に被害が及び始めるようになり、攻撃目標となった軍事施設のある主要都市は空爆によってつぎつぎ焦土化し、次郎の勤め先であった名古屋航空製作所も大打撃を被っていた。
名古屋航空製作所は愛知県名古屋市港区大江町の伊勢湾に面した埋め立て地の工業地帯にあり、そこでは、船舶での海上輸送、鉄道などのインフラも整備されており、ピーク時には関連企業を含めるとおよそ10万人を雇用するほどの軍事工場地帯になっていた。
しかし、昭和16年から行われた工場拡張計画会議の際に名古屋を訪れた東條陸軍大臣が、その場で「鉄を使う事はまかりならん。」と発言した為、製作所は仕方なく木材や煉瓦を用いて工場を建造。しかし、その判断により、19年12月7日に東海地方を襲った東南海地震では、大きな揺れに耐えられず、木造や煉瓦造りの工場の多くが倒壊してしまい、また、零戦の生産を主とする海軍工場の飛行機製造の要ともいえる冶具は基礎を地中に埋め込んで設置する埋め込み式を採用していた為、えっ化現象とせり上がった地盤によって著しく損傷してしまった。さらに、大震災の混乱も収まらぬ12月13日から始まった空襲で被害はさらに拡大した。
そこで、政府と軍部はようやく生産増強一辺倒であった方針を変換し、一宮、各務原、大府、松本に工場を緊急分散するよう発令を出したが、問題の根本であった物資の不足は解決されぬ上に、震災や空襲で学生を含めた多くの従業員を失い、設計士や熟練工といった欠かせない人材も徴兵され、生産能力はさらに悪化した。
しかし、壊滅的となった大江工場が、敵の目を欺くのには格好の場所であると判断されると、最小限に再建され細々と飛行機の製造を始めたが、ピーク時にはとても及ばず、順を追って製造機種ごとに疎開が始まった。
その時期に次郎達が開発を進めていた、略式名称「A7M3」 烈風改と呼ばれる重爆撃機迎撃の為の高高度戦闘機型試作機は、名古屋製作所の対岸にある第二鈴鹿海軍航空基地で開発が進められていてが、伊勢湾沖まで進行していた空母より発艦した、米軍の艦載機による突然の攻撃で試作機の何機が損傷を受け、その事を重く見た軍部は、この地への攻撃も増えるであろうと判断し、開発を松本にて継続すると即座に決定。被害を免れた機体を大急ぎで分解し、鉄道輸送で試作工場のある松本の第一工場に輸送し、昭和20年3月末には次郎の所属する試作工場の技術部門も長野県松本市にある名古屋航空製作所第一工場に拠点を移した。
戦局が悪化の一途を辿っていることは誰の目にも明らかであったが、美しい飛行機を作りたいという熱意は次郎から潰える事はなく、軍部から新たな要請を受けた次期甲戦闘機の完成予定日である10月30日に向けて急ピッチで準備を進めていた。
名古屋航空製作所は愛知県名古屋市港区大江町の伊勢湾に面した埋め立て地の工業地帯にあり、そこでは、船舶での海上輸送、鉄道などのインフラも整備されており、ピーク時には関連企業を含めるとおよそ10万人を雇用するほどの軍事工場地帯になっていた。
しかし、昭和16年から行われた工場拡張計画会議の際に名古屋を訪れた東條陸軍大臣が、その場で「鉄を使う事はまかりならん。」と発言した為、製作所は仕方なく木材や煉瓦を用いて工場を建造。しかし、その判断により、19年12月7日に東海地方を襲った東南海地震では、大きな揺れに耐えられず、木造や煉瓦造りの工場の多くが倒壊してしまい、また、零戦の生産を主とする海軍工場の飛行機製造の要ともいえる冶具は基礎を地中に埋め込んで設置する埋め込み式を採用していた為、えっ化現象とせり上がった地盤によって著しく損傷してしまった。さらに、大震災の混乱も収まらぬ12月13日から始まった空襲で被害はさらに拡大した。
そこで、政府と軍部はようやく生産増強一辺倒であった方針を変換し、一宮、各務原、大府、松本に工場を緊急分散するよう発令を出したが、問題の根本であった物資の不足は解決されぬ上に、震災や空襲で学生を含めた多くの従業員を失い、設計士や熟練工といった欠かせない人材も徴兵され、生産能力はさらに悪化した。
しかし、壊滅的となった大江工場が、敵の目を欺くのには格好の場所であると判断されると、最小限に再建され細々と飛行機の製造を始めたが、ピーク時にはとても及ばず、順を追って製造機種ごとに疎開が始まった。
その時期に次郎達が開発を進めていた、略式名称「A7M3」 烈風改と呼ばれる重爆撃機迎撃の為の高高度戦闘機型試作機は、名古屋製作所の対岸にある第二鈴鹿海軍航空基地で開発が進められていてが、伊勢湾沖まで進行していた空母より発艦した、米軍の艦載機による突然の攻撃で試作機の何機が損傷を受け、その事を重く見た軍部は、この地への攻撃も増えるであろうと判断し、開発を松本にて継続すると即座に決定。被害を免れた機体を大急ぎで分解し、鉄道輸送で試作工場のある松本の第一工場に輸送し、昭和20年3月末には次郎の所属する試作工場の技術部門も長野県松本市にある名古屋航空製作所第一工場に拠点を移した。
戦局が悪化の一途を辿っていることは誰の目にも明らかであったが、美しい飛行機を作りたいという熱意は次郎から潰える事はなく、軍部から新たな要請を受けた次期甲戦闘機の完成予定日である10月30日に向けて急ピッチで準備を進めていた。