硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「風立ちぬ」 君さりし後 10

2014-08-17 06:14:59 | 日記
その晩、次郎は寝付く事が出来ずに朝を迎えた。もう飛行機の事は考えなくてもよいと理解しているつもりであったが、頭に浮かぶのは新しい機体や翼面の構想でばかりであった。
次郎は、手際よく支度を済ませると、5か月という短い期間にもかかわらず家族のように接してくれた夫婦に別れの挨拶をし、駅からほど近い借家で暮らしている黒川宅へ向かった。
黒川は次郎の才能を見抜き、設計主任へ押した上司でもあり、奈穂子がサナトリウムを抜けだして来た時には、奈穂子の世話や無理を言ってあげた挙式では介添えを引き受けてくれるなど、公私にわたった恩人であった。

玄関の引き戸を静かに開け、ひかえめな声で「おはようございます。」と、言うと、奥から「はーい。ただいま。」声が聞こえ、茶褐色の着物を着た黒川夫人が出てきた。

次郎は黒川夫人と対面すると、改めて、「おはようございます。」と挨拶した。すると夫人は少し驚いた様子で、

「あら、堀越さん。こんな朝早くからどうなさったの?」

と、言うと、次郎は恐縮して、

「早朝からすいません。実は実家に戻ろうと思いまして・・・それでご挨拶にやってまいりました。」

と、弁明した。

「あら、実家にお帰りになるの? また、急ですわね。それで、何時の汽車で帰られるの? 」


「始発です。」

それを聞いた夫人は慌てた様子で、

「始発って、もうあまり時間が無いじゃないですか。ちょっと待ってください。主人を呼んでまいります。」

と、言うと、「あなた!」と言いながら小走りで奥へ向かって行った。すると奥の部屋から「なにごとか。」と、言う声が聞こえてきたかと思うと、黒川が部屋から飛びだしてきて、はだけた浴衣を整えながら玄関に歩いてきた。

「一体、こんな早朝からどうした。」

と、黒川が開口一番に言うと、次郎は恐縮しながら、

「すいません。実は実家に帰ろうと思いまして。ご挨拶にやってまいりました。」

と、言って一礼をした。黒川は少し驚いたが、今の次郎の気持ちを考えると、それが一番良いと思った。

「・・・そうか。帰郷するか。」

「はい。」

「それで、実家は無事なのか? 」

「ええ。何もない田舎ですから、空襲はなかったようです。」

「それはよかった・・・。奈穂子君の方は無事なのかね。」

黒川はそう言った後、不味い事を聞いてしまったのではないかと思ったが、次郎は奈穂子の家族の事も考えており、

「奈穂子の家族とは葬儀以来、手紙のやり取りを数回しただけなので、実家に帰る前に奈穂子の家に寄って安否の確認をしておこうと思います。」

と、明快に答えた。黒川は大きく頷き、

「うん、それがいいだろう。」

と言って、次郎に迷いがない事を察したと同時に、苦楽を共にしてきた次郎との決別の時がやってきたのだなと思った。

「今まで軍部の命令とはいえ、仕事とはいえ、無理を通してもらって済まなかった。」

黒川はそう言って頭を下げたが、次郎は、

「いえ・・・。僕は純粋に飛行機を作る事が夢であって、悲惨な結果であったけれども、夢に没頭できたこと、そのチャンスを戴けた事は本当に幸せだったと思います。」

と、黒川へ感謝の気持ちを述べた。それを聞いた黒川は少し涙ぐみながら、

「いつか、また、一緒に仕事ができる時が来る事を祈っている・・・。それまで達者でやれよ。」

と、次郎の健闘を祈った。傍にいた夫人も、声を上ずらせながら

「堀越さん。奈穂子さんによろしく伝えておいてくださいね。」

と、言うと、次郎は姿勢を正し、

「今迄ありがとうございました。お二人もお元気で。」

と、言って深々と頭を下げた。次郎は黒川宅を出ると、黒川夫妻も玄関を降り次郎を見送った。駅へ向かう道を歩んでいた次郎は、もう一度振り返り、手を振る黒川夫妻を見ると、軽く頭を下げ、「さようなら。」と言って再び歩き始めた。