かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

美空ひばりの歌に聞き惚れ、思い出の中をさまよっています。

2015-07-15 | 気ままなる日々の記録

昨夜NHKテレビで船村徹さんをゲストに迎え昭和の懐かしい歌を沢山紹介していました。オソマツ君は最近流行歌の歌詞に興味を持ち始め、よく流行った歌は確かに歌詞がよくできているなあと思うようになりました。そうしたなかで、一番好きな作詞家は星野哲郎さんで、何と星野さんの自伝を読むまでになりました。そのちょっと前の大御所は石本美由紀さんで西条八十さんなんかは好きでありません。

 星野哲郎さんは広島市に含まれていますが、周防大島と云う瀬戸内海に浮かぶ島の出身。現在は本州との間に橋が架けられ車ですぐに広島市内に入れるそうですが星野さんが育ったころは全て連絡船に乗って本州に渡っていたとか。旧制中学は広島の中学へ連絡船で通われたとか。その後神戸の高等商船学校の機関科に進まれ、卒業後は貨物船の機関師助手として船に乗られ、韓国や中国、沖縄との間を荷物を積んで行き来されたそうです。

 激しいお仕事で体はへとへと、或る時、男子トイレに血痕があったとかで、船内が大騒ぎになり、星野さんが疑われたそうです。星野さん曰く「私は遊郭へも一度も行ったことがないので悪い病気であるはずはない。」と云うわけで、港へ寄った時に病院へ連れて行かれて頂いた病名が「腎臓結核」で即入院の必要ありということだった。

 入院を断り実家へ帰ることにされた星野さんはその時微熱もあり歩ける状態ではなかったので、実家へ連絡近所の人がリヤカーを引いて迎えに来てくれたと云います。戸板の上に寝かされてリヤカーで郷里の村へたどり着くには小さな峠を越えなければならなかって、峠を越える時は近所の若者に背負われて峠を越えそこから故郷の村を見たときは涙がどっと出て止まらなかったと云います。

 実家では、離れが星野の病室になり窓も開けず、母親が戸を少し開けそこから、イワシの干物を焼いたものとサツマイモと野菜の浅漬けとミカンを置いて行って呉れるのでそれを365日食べて廊下へ出しておくと母親が下げてくれると云う毎日だったと云います。

 村には1軒だけ内科の医院があってそこの先生が時々往診してくれるという生活でした。その先生は村のことを何でも知っている方であるとき、お母さんに「確か妹さんがアメリカに行ってアメリカにいる日系二世の人と結婚してサンフランシスコに住んでいると聞いたが今でも連絡が取れるかね」と聞かれたといいます。お母さんが戦争が終わって連絡が取れるようになりました。お陰様で元気に裕福にやっているようです」と答えるとその妹さんに○○と云う薬を薬局で24本買って送ってくれるように頼みなさい」と云われた。聞けばアメリカでは腎臓結核の特効薬が開発されていてそれはまだ日本には出回っていない薬だとのことでその先生がよく研究して星野さんにつかってあげるとのこと。やがて航空便でその薬が届き先生が注射してくれ腎臓結核は完治したとのことでした。星野さんは元気になっていろいろな会合に顔を出すようになって

 ①自分が港で降りた貨物船はそれから沖縄に向かったが、アメリカが戦争中に敷設した機雷に沖縄近くで触れて爆発。船底に穴が開いて船沈み乗組員全員が死亡したことや

 ②イワシの干物の丸焼きを骨まで食べたことやミカンや新鮮野菜の浅漬けをたべ、サツマイモを食べたことは栄養学的に何の問題もなく腎臓結核に一番良い食事だったという話を聞き、星野さんは不幸のどん底に落ちたと思っていた時もチャント大自然に自分は守られていたんだとつくづく思うようになったと云います。確かに彼の詩には、不幸の中にあってもどこかに明るい希望がみなぎっています。それが人気の出る点かもしれません。鳥羽一郎さんの持ち歌「兄弟船」を見てみましょう。

①番、波の谷間に命の花が 二つ並んで咲いている。 兄弟船は親父の形見 型は古いが時化には強い俺と兄貴のよお夢の揺り籠さ。

③番、たった一人のおふくろさんに楽な暮らしがさせたくて兄弟船は雪の簾を潜って進む 熱い血潮は親父ゆずりだぜ。

困難な状況のなかにあっても何処か明るくて力強い。

星野さんの経歴で忘れてはいけないことは腎臓結核闘病中に近所の貸本屋の息子さんが星野さんの友達で週刊誌や月刊誌を持ってきてくれました。そんな週刊誌によって、横浜港だったかが開港100年を記念して大々的なお祭りをしその時○○港開港100年記念歌をつくり発表したい。その歌詞を公募、賞金付きで募集していることを知り、賞金欲しさに船に乗っていた時の出港や入港の時の感慨を詩にして二編の詩を書きあげ二つのペンネームで応募したらその二編が1位と2位に選ばれてしまった。選考委員の一人が作曲家の船村徹氏が語ったところによると、どちらか1篇を1位とし3位を2位にしましょうかと云う意見が出たが船村さんが募集要項に一人1篇と書いてないのに後からそんなことをするのは許されない2編ともいい詩だから私が曲を付けて2曲とも発表しレコードの売れ行きによって真の1位を決めればよいと主張されたとのこと。こんなことがあって、東京のレコード会社が星野さんの名前を知ることとなり、新人歌手を売り出そうとするとき、その作詞を頼まれるようになったと云います。星野さんの原点はやはり、海であり船でした。

さて、この写真は何でしょう。眠そうなお顔の読者様の、目が覚めるように苦心しました。