かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

食事考、失って初めて有り難さを知る。

2015-07-21 | 気ままなる日々の記録

ただ今入居中の有料老人ホームは三度の食事は給食で、時間が来るとお膳が配られる。そして、毎回お膳を見て、「やあ~、またこれだ!」とガッカリする。自宅で食事をしていた頃、そんなことを思ったことは一度もない。なぜだろうかと考える。まずここのお膳は構成が毎回同じだ。大皿は魚の煮つけか肉の野菜煮、小鉢が野菜の煮物小皿が卵焼きかソーセージ。

  お椀は赤みその味噌汁。この味噌汁だが赤みそであるのは有り難いが、この前も具に缶詰のコーンが使われていて驚いた。肉は五割が牛の細切れであとは、チキンであったり、豚であったりだが、味付けがまるで好みと違う。家では長い間おふくろの料理だったし、後半は家内の料理だったが、今思うと、二人とも私の好きな食べ物を完璧に知っていて、味付けも、煮方も私に合わせていて呉れたに違いない。その有り難さに当時はまるで気づいていなかった、思えば、下流人が下流たる所以は失って初めて有り難さに気づくという点で、オソマツ君はその代表であったと今悔やんでいる。和食が世界遺産に認定されたといって騒いでいるが、本当のところは白人諸君、やっと気づいたかね、といったところだ。特にしいたけ味や昆布味については皿ものには全く見られないダイヤモンドとルビーいうべきだろう。ところが、料理学校の先生たちは今まで、そのことに気付いっていなかった。

 盲目的皿もの崇拝で、コショウやカレイ粉ばかりを珍重していた。盲目的西洋崇拝野郎が多すぎる料理業界である。TVで料理番組を見ていても、これはスペインの○○港町の家庭料理です。などと云って自慢げにいっているが、ちょっと待ってくれ、あんな貧しい地方の家庭料理が美味しいはずがないのになあ、と思え来る。美味しい魚は売られて猫も食べないような落ちている魚を拾ってきて作っているのがあの地方の家庭料理だろうに、と思えてくる。この料理もカタカナの名前で云っていた。カタカナの名前を付けておけば高級料理だと思っているらしい困った業界である。此処の料理担当主任もそんな料理学校をご卒業で何とか免許をお持ちだろうが、あまり評判のいい味付けではなさそうである。

   

  オクラと云う奇妙な野菜がある。あのヌルヌルした種ツブツブの野菜がよく小鉢で出される、訊けば旬にはやすいという。ところがオソマツ君はあれが苦手である。何とあのヌルヌルが栄養価が高いとか、これはもうイジメの世界である。おふくろも家内もあれはどんなに安くても買ってこなかった。見てものっけから買う気にならないのだそうだ。これが家族だ。アリガタイことだ。それにそれにしても、もっと早く気付くべきであった。正に下流老人の下流たるゆえんである。今悔やんでいる。お粗末でした。(此処までお読みいただいて、オソマツ君の母親も奥さんも亡くなったのかとお思いの方がお見えになるといけないから追記すると。母は亡くなったが家内は健在であるが、まだお礼を言っていない。以上参考までに)