かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

遠い想い出

2016-02-12 | 気ままなる日々の記録

   先日、中日新聞に「北の経済を支える中国」と云う見出しの記事がのった。その記事は少しかすんだ小さな写真つきであった。写真の下には中朝貿易の重要拠点である遼寧省の丹東市と鴨緑江対岸の新義州を結ぶ新しい橋ができたとの説明があった。

  私はこの写真に釘ずけになった。写真には手前に丹東市の街並みが中央に橋脚のようなものと新義州の町が写っていた。初めて目にする風景であった。そしてこれがかって自分が生まれ育った町なのかとなんとも不思議な気持ちになった。少しかすんで橋はぼんやりとしか見えないがよく耳にした丹東,新義州、鴨緑江と云う文字に心が騒ぎ何回も繰り返し読んだのである。

   実は私の家族は満州にすんでいたことがある。そして私は戦争まじかの昭和16年4月に満鉄病院で生まれた。父が満州鉄道に勤めていたからである。母のつわりがひどく、出生時は体重2200gの小さな赤ん坊だったと聞いている。大柄な祖父がおんぶするとまるで大木に蝉がとまっているみたいだったと母がいつも笑っていた。

   そこで5歳まで生活し終戦1年後の昭和21年10月に日本にひきあげてきたのである。

   5歳にしては記憶力が悪くどんな家に住んでいたか町の様子はどうだったか全く覚えていないが屋上の鳩によく餌をやっていたのは覚えている。多分,会社の寮に住んでいたと思われる。

  それに比べ鴨緑江はかなり記憶がある。この川は大きな川で当時でも鉄橋が架かっていた。今では中国と北朝鮮を分ける国境の川となっているが、当時は自由に行き来できた。祖父母の友達は対岸の新義州で大きな農園を経営していて祖母に連れられよくたずねたものだ。終戦後食べ物が乏しくなったとき卵かけご飯をご馳走になりとても美味しく思ったのを思い出す。

  もう一つ強烈な印象として焼き付いているのが祖母と二人でこの川へ祖父のお骨を流しに行った時のこと、かなしいという感情は5歳の私には到底湧いてこなかったが包みの白さがいまでも目に浮かぶ。厳粛な気持ちになったことは確かだ。ただそれだけでその時の祖母の表情や心の在り様などに気付くには至らず状況を理解するのさえ困難であった。

  お骨は祖母にとって持ち帰りたい一つに違いなかったが現実の問題としてかなわぬ夢ときっぱり諦めていたのかもしれない。忘れてしまいそうなほど遠い過去のはなしである。(E)