二年前に元気が旅立った時、近くの公園の5時のお知らせ、
ドボルザークの新世界がなった。今日もさきほど、裏の大家さん、
福田はつさんが旅立った知らせを聞いた後に、新世界が雨の中で
悲しそうになった。享年86歳。昭和が始まる最後の大正の夏に
生を受け、激動の昭和と平成を生きた。
80歳の齢(よわい)を重ねても、「女らしさと気骨」があった。
店の前を病院にいく道すがらなど、化粧をほどこしてない時は、
「しか」として通った。病院ではなく近くの美容院にいった後は必ず
店にきて、「こんな髪型になった」などといいながら、楽しそうに酒を飲んだ。
昨日、おばあちゃんが楽しみにしていた天真庵のポストカード「墨蹟九」
ができあがり、かみさんが入院先の高石病院にもっていったら、眠って
いたので、もってかえってきた。入院する前日、「これとってて、きっとかえって
きて飲むから」と、「桃」という日本酒のリキュールと、「墨蹟九」を大家さん
ちへもっていった。前の日、「おとうさん(ぼくのことをいつもそう呼んでいた)
におめでとうと伝えて」というのが最後の言葉だった。きっと「墨蹟九」ができあがったことを喜んでくれたのだと思う。
天真庵の建物は、昭和20年3月の東京大空襲の時に焼けて、翌年にたった。
一階が「福田組」という建築会社で、社長はおばあちゃんの父親。
はつさんは、一人っ子で二階で生活した。置き床と掛軸がかざってある向こうの部屋、
がおきにいりだった。狭い部屋だけど、日当たりがいいし、風通しがいい。今は
窓からスカイツリーも見える。
今発売の「DANCYU」に天真庵が紹介されていて、「スパイスカフェ
でカレーを食べた後に、この建物にであって、天真庵を押上にもってきた」
というような紹介をされていた。
25年くらい空き家で、誰にも貸さないという姿勢だったらしいが、
父親で福田組の社長の福田栄吉さんと、ぼくの名前(栄一)に「栄」が
ついていたのに「縁」を感じて、「よし、貸そう」ということになったらしい。
契約の日に不思議なことがわかった。おばあちゃんの息子に向かって、
「こんなめでたい日は、向島のYにでもいって、飲んできなさい」といった。
Yは、栄吉さんが贔屓にしていた向島の料亭だ。ぼくが会社を秋葉原に
創業した昭和59年ころ、よく接待につかっていた料亭でもある。
「こんな不思議なことがあるんだ」と思った。その5分後に、近くの
解体現場で、カウンターの板を譲り受けた。天恩感謝の連続だった。
8月に近所のセシル・モンローが旅立った時、「天国へいったら、
会えるといいな」といっていた。彼の音楽葬はゴスペラの
「ア・ハッピー・デイ!」という明るい曲でジャズマンたちが
明るく送ったそうだ。おばあちゃんも明るいことが好きだったので、
今日は、セシル・モンローのジャズを聴きながら、酒を飲むことに
しよう。「文花一丁目」から、またいい人がひとりいなくなった。
明日は休みだけど、夕方は「ダメ中」
1日1日が、原稿用紙のマスに田植えするみたいに、過ぎたり
きたり。
ドボルザークの「新世界」は日本語で「家路」という曲で
有名だ。みんな、いつか自分の家に帰っていくんやね。
家路
♪遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめる
きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん
やみに燃えし かがり火は 炎今は 沈まりて
眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば
安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん
合掌
ドボルザークの新世界がなった。今日もさきほど、裏の大家さん、
福田はつさんが旅立った知らせを聞いた後に、新世界が雨の中で
悲しそうになった。享年86歳。昭和が始まる最後の大正の夏に
生を受け、激動の昭和と平成を生きた。
80歳の齢(よわい)を重ねても、「女らしさと気骨」があった。
店の前を病院にいく道すがらなど、化粧をほどこしてない時は、
「しか」として通った。病院ではなく近くの美容院にいった後は必ず
店にきて、「こんな髪型になった」などといいながら、楽しそうに酒を飲んだ。
昨日、おばあちゃんが楽しみにしていた天真庵のポストカード「墨蹟九」
ができあがり、かみさんが入院先の高石病院にもっていったら、眠って
いたので、もってかえってきた。入院する前日、「これとってて、きっとかえって
きて飲むから」と、「桃」という日本酒のリキュールと、「墨蹟九」を大家さん
ちへもっていった。前の日、「おとうさん(ぼくのことをいつもそう呼んでいた)
におめでとうと伝えて」というのが最後の言葉だった。きっと「墨蹟九」ができあがったことを喜んでくれたのだと思う。
天真庵の建物は、昭和20年3月の東京大空襲の時に焼けて、翌年にたった。
一階が「福田組」という建築会社で、社長はおばあちゃんの父親。
はつさんは、一人っ子で二階で生活した。置き床と掛軸がかざってある向こうの部屋、
がおきにいりだった。狭い部屋だけど、日当たりがいいし、風通しがいい。今は
窓からスカイツリーも見える。
今発売の「DANCYU」に天真庵が紹介されていて、「スパイスカフェ
でカレーを食べた後に、この建物にであって、天真庵を押上にもってきた」
というような紹介をされていた。
25年くらい空き家で、誰にも貸さないという姿勢だったらしいが、
父親で福田組の社長の福田栄吉さんと、ぼくの名前(栄一)に「栄」が
ついていたのに「縁」を感じて、「よし、貸そう」ということになったらしい。
契約の日に不思議なことがわかった。おばあちゃんの息子に向かって、
「こんなめでたい日は、向島のYにでもいって、飲んできなさい」といった。
Yは、栄吉さんが贔屓にしていた向島の料亭だ。ぼくが会社を秋葉原に
創業した昭和59年ころ、よく接待につかっていた料亭でもある。
「こんな不思議なことがあるんだ」と思った。その5分後に、近くの
解体現場で、カウンターの板を譲り受けた。天恩感謝の連続だった。
8月に近所のセシル・モンローが旅立った時、「天国へいったら、
会えるといいな」といっていた。彼の音楽葬はゴスペラの
「ア・ハッピー・デイ!」という明るい曲でジャズマンたちが
明るく送ったそうだ。おばあちゃんも明るいことが好きだったので、
今日は、セシル・モンローのジャズを聴きながら、酒を飲むことに
しよう。「文花一丁目」から、またいい人がひとりいなくなった。
明日は休みだけど、夕方は「ダメ中」
1日1日が、原稿用紙のマスに田植えするみたいに、過ぎたり
きたり。
ドボルザークの「新世界」は日本語で「家路」という曲で
有名だ。みんな、いつか自分の家に帰っていくんやね。
家路
♪遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめる
きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん
やみに燃えし かがり火は 炎今は 沈まりて
眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば
安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん
合掌