昨日は、お茶のお後輩さまが、蕎麦を手繰りにこられた。
開店したばかりのころ、蕎麦を手繰りにこられ、「煎茶を習いたい」
というので、表参道のいまはなき「大坊珈琲店」にいき、茶人というのは
ここの主人のように、空間を仕切る、というか、凛とした中にも安心感
があるような空気をつくれる人のことをいうのだと、みたいなことを
先輩ぶっていったことを思い出した。その女子大をでたばかりの子が、
お茶の先生になれるくらい精進して、一歳の子供を連れてもどってきた。
10年の歳月はすごい。
そろそろ茶道具を集めたいというので、二階でいろいろ品評会。
今かかっている軸は「売茶翁」の「體中玄」の一行もの。
「これどや?」といったら、「高そうですね、いくらですか?」と聞くもで、
30代の上場企業の平社員の年末のボーナスの8掛けくらいじゃないの、と答えた。
「わたしのへそくりで帰るかもなんばん(なんばんは、勝手につけた)」というのがスゴイ。
茶人と茶の先生は違う。昔から「茶人くさい人」というのは、無粋だといわれる。ただの茶の先生はもっとげてもの。
日常茶飯を大事にするのが肝心だと思う。とどのつまりは「人間力」かな。
といいながら、「珈琲塾」と「無茶しぃ」と連ちゃんで教える「坊さんくさい野暮人」がいたりする矛盾。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます