父方の祖母は昭和26年10月25日に63歳で亡くなりました。
私の生まれる前に亡くなった祖母であり、写真でしか知らないのですが、
先日、その一周忌である昭和27年に、身内と親しかった方だけに配られた
追悼の小冊子を初めて見ました。
口絵には、祖母の冥福を祈るために高木古泉画伯が描いて下さったという、観音像。
たしか、引越しの最終日に発掘した絵の中にありました。
そして、三枚の写真。
追悼文は祖父、伯母たち、父、従姉妹、他親戚、祖父の仕事上のお付き合いのあった方たちなど多くの方が書いていますが、
「賢かった」 「優しかった」 「美しかった」 などは、追悼文なんだから孫として割り引いて読むとしても、「質素であった」 という部分は素敵だな と思いました。
追悼文集の中には、祖母の少女時代からの友人の言葉を父の従兄弟が聞き書きしているものがありますが、
明治時代の田舎の少女たちの生き生きとした様子が垣間見られます。
長くなりますが、その文章のほぼ全文を転記します。
(註・祖母は伯母宅の養女となり、祖父はさらに婿養子となった)
【幼き頃のサヱさん】 永松すま氏 述
私とサヱさんとは幼い頃からの親友でした。
当時私たちの家は福岡県三池郡駛馬村馬込にありました。
今では大牟田市に編入されましたから、すっかり変っている事でしょう。
サヱさんは母の胎内にいる時分から既に今の西さんの家の養女か養子になる約束だったのですよ。
私達の子供の時は、私の家が高い丘の上にあり、サヱさんの家がすぐその下の低い所にありましたので、私達はほんとに幼な友達でした。
その当時 - 昔はネ、「サヱさん」 と呼ばないで 「西さんとこのオンゴ、オンゴ」 と呼んだもんです。
(註、オンゴとは方言でお嬢さんと云う謂なり)
所が私達は淑やかなお嬢さんどころか凄いお転婆でしてね。小学校時代から夏なぞ近所の小川に女だてらに泳ぎにばかり行きましたよ。
頭に手拭をかぶって、毎日泳いでは、それから近くの畑へ行って、着物を汚したり、まっ黒になったり、畑でブブン貝を拾っては、その貝でおはじきをしたり、「ナンコナンコいくつ」 なぞして遊んでばかりいたのでサヱさんのお母さん - そうそう、今年、八十八歳になったあの御隠居さん - が未だとても若くてね、しょっちゅう髪を まげ に結うて、色の白い肥えたきれいな人でしたがね、そのお母さんに、「あんたがたは男の子のようだ」 と云って叱られたもんですよ。
私達の子供の時分は小学校は四年で卒業でした。それからは高等学校だったのですが、私達の村は、何しろ凄い田舎でしょう。
山もあり、畑も、田圃もあり小川の水がきれいに流れていてね 遠くの山が遥かに見えて、そして暖国的な雰囲気と環境に包まれた よく言えば、とても平和なのんびりした田園ですが、その代わり高等学校なぞ村にないので、止むを得ず一里位遠い大牟田まで通学を余儀なくされたのです。
私の村が大牟田に合併したのは、私達が二十歳の頃です。
さて大牟田の高等学校へ進学したお友達はえー、私とサヱさん、カズさん、ハルさん、ユキエさん、キヨカさん、ノモさん位のものでしたよ。
私達の十二、三の頃はね、髪は 「桃割れ」 と云うのに結いましてね (口絵写真参照を乞う)
縞の袴 - 大てい海老茶 - でしかも、みんな自宅で織ったゴツゴツした袴でございました。
所が、その大牟田の学校の往復がまた大変なんです。
雨の降った時は下駄に袴でしょう、今のようにゴム靴なんて、シャレたものは無いんですからね、みんな下駄をぬいで はだし なんです。
ランドセルもかばんもないのですから、皆、風呂敷へ本もお弁当も包んでね、帰りには空の弁当箱がガランガラン音がするのよ。
その荷物をお互いに友人に持たせようとしてね、順々に交替で持つのです。
何時交替するのかと云うと、「馬の糞」 に出会うまでが荷物運びの当番になるのです。
そしてやがて川の所に来ると、荷物はほおり出して水あびをしたり、お腹がへると、近所の百姓の畑のさつま芋をほじって来て、川で洗って、キュウスに入れ、川端へカマドを作って、煮たり焼いたりして、
それでも、そのお芋を 「仏様に上げるのだ」 と言い乍ら その実みんな、自分達で食べてしまうのです。
お芋どころか茄子などちぎって来て、口の周囲をまっくろにして食べたりしたもんです。
当時の校長さんは岩井先生と言う方で、とても立派な先生でした。
サヱさんはその時分から頭がよくて、学校の成績も非常によくって、性質は温厚でした。
学校は朝九時十五分に、はじまるので、毎朝一里の田舎道を駆け足で行ったんです。
あの頃の思い出などはとても懐かしいですよ。
それが東京でお互いに暮らすようになるなんて、私はサヱさんとは、全く因縁が深い間柄です。
それも大正十二年の震災後、(略) 馬橋のお宅を訪問したのが三月三日でした。
大牟田の高等学校を十五歳の時に卒業してから、まあ、何十年振りの再会でしょう。
以来、私は毎年三月三日にサヱさんちを訪問するのを年中行事にしていましたのに、そして私が訪問する毎に帰りには必ず省線の駅まで送って下さったサヱさんだったのに、私を残して急に死んでしまうなんて、私にはまるで夢のようです。
十月二十五日に電報が来て、驚いて私がかけつけた時に、サヱさん!、奥さん!と大声で呼んだら眼を一パイあけて、うなづいたようでしたけれど、それから十分位でとうとう死んでしまいました。
私はもう三十分も早く行きたかったと、今でも残念です。
でも、サヱさんはやっぱり運のよい人ですよ、立派な旦那さんのお蔭でさ、あんな立派なお葬式をやって貰ってさ、だから今ごろは極楽浄土に行っているでしょう。
思い出はつきませんが、私にとって、嬉しいことは、数年前、奥さんが郷里の九州へ行かれた時、大牟田の私の妹の家を訪ねられて、一と晩泊まられたと云うので、帰京されてから、私にお礼を言われたのが、私達の子供の時代から死ぬまで、終始変わらぬおつきあいした深い因縁の私達の間で私が仏前に供えるせめてもの思い出となってしまいました。
≪ 速記・文 土屋利保氏 ≫
この祖母の描いた絵を、去年の11月3日の記事 『父方の祖母の絵・人体解剖図』 に載せました。