「文芸時代」昭和24年7月号、特集・思ひ出の太宰治、の中の、 『《櫻桃忌》提唱』今官一より抜粋。
(前文略)
○《田舎者》といふ、題の「故郷の話」
私は、青森県北津軽郡といふところで、生れました。今官一とは、同郷であります。
彼も、なかなかの、田舎者ですが、私のさとは、彼の生れ在所より、更に十里も山奥でありますから、
何をかくさう、私は、もつとひどい田舎者なのであります。
○ぼくは、即刻、抗議した。ぼくは、弘前市の生れだから、金木町の田舎者は、認めるが、市は断じて田舎では、ない。試みに、君を「チシマ君」と、呼ばないのは、ぼくだけではないか ―― しかし、いまではぼくは、自分が田舎者であることを、素直に認めてゐる。後日、をりをみて判定を乞ふた。井伏先生は、ぼくが、精魂かたむけて、再三度、ツシマ君、チシマ君と正確に弁別してくりかへしたに拘わらず ―― 小首を傾けられ、眼をパチパチとなさりながら、キミ、どつちの方を、先きにいつたんだい。チの方かい。いや、ツの方かなと、仰言つたからである。ぼくは、可成りに、不満であつた。
○けれども、ぼくは、太宰が、どうして《都会人》であつて、呉れなかったかと、けふこのごろは、うらみに思つてゐる。せめて、ぼくほどの「市人」であつて呉れたならば、彼も、ぼくと同じほどに、もう少々は、生きつづけたかも、しれないのにと、思つてゐる。
それは、いくぶん、不純である。しかし、さういふ「不純」こそは、あれほどに、なにもかも備えた、完ぺきの人間にして、なほかつ、そなえ得なかつた、唯一のものだつたからである。しんじつ、彼は、無器用きはまる、田舎者であつた。
(中略)
○櫻、花、花、一年 ―― と呟やいて、ぼくは、その実を、思ひ出す。ぼくは、太宰の命日を《櫻桃忌》と、呼ぼう。《蔓を糸でつないで、首にかけると、櫻桃は、珊瑚の首飾のやうに見えるだらう》と、太宰は、去年、それを書いた。
子供たちは、櫻桃など見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだらう……
よろこびは、せぬ。君は一つだけ、まちがつてゐた。君は、だまつて、種を吐き出せば、よかつたのだ。この一行の「反省」のために、一生、子供たちは、櫻桃の初生りを、君にたべさせたいと、希ふやうになるだらう。
一年の、季節ごとに、そして、それは、ぼくらを、ぼくらが、生きる限り、なんたる、なんたる田舎者かと、いらただせることになるだらう。《櫻桃忌》が、さういふ「心のザワめき」に、さういふ「美学の Etiquette」を、なにほどか、喚起したらば、幸甚である。「おもてには、快楽」云々と、いふことを愛した、さういふ心の人のために、さういふ心で、提唱された ―― いはば、さういふ Etiquette だつたのである。

全部読みたい方は、こちら。
『《櫻桃忌》提唱』今官一 1
『《櫻桃忌》提唱』今官一 2
『《櫻桃忌》提唱』今官一 3
『《櫻桃忌》提唱』今官一 4
参考記事 2009.12.10 生誕100年記念写真展 太宰治の肖像
(前文略)
○《田舎者》といふ、題の「故郷の話」
私は、青森県北津軽郡といふところで、生れました。今官一とは、同郷であります。
彼も、なかなかの、田舎者ですが、私のさとは、彼の生れ在所より、更に十里も山奥でありますから、
何をかくさう、私は、もつとひどい田舎者なのであります。
○ぼくは、即刻、抗議した。ぼくは、弘前市の生れだから、金木町の田舎者は、認めるが、市は断じて田舎では、ない。試みに、君を「チシマ君」と、呼ばないのは、ぼくだけではないか ―― しかし、いまではぼくは、自分が田舎者であることを、素直に認めてゐる。後日、をりをみて判定を乞ふた。井伏先生は、ぼくが、精魂かたむけて、再三度、ツシマ君、チシマ君と正確に弁別してくりかへしたに拘わらず ―― 小首を傾けられ、眼をパチパチとなさりながら、キミ、どつちの方を、先きにいつたんだい。チの方かい。いや、ツの方かなと、仰言つたからである。ぼくは、可成りに、不満であつた。
○けれども、ぼくは、太宰が、どうして《都会人》であつて、呉れなかったかと、けふこのごろは、うらみに思つてゐる。せめて、ぼくほどの「市人」であつて呉れたならば、彼も、ぼくと同じほどに、もう少々は、生きつづけたかも、しれないのにと、思つてゐる。
それは、いくぶん、不純である。しかし、さういふ「不純」こそは、あれほどに、なにもかも備えた、完ぺきの人間にして、なほかつ、そなえ得なかつた、唯一のものだつたからである。しんじつ、彼は、無器用きはまる、田舎者であつた。
(中略)
○櫻、花、花、一年 ―― と呟やいて、ぼくは、その実を、思ひ出す。ぼくは、太宰の命日を《櫻桃忌》と、呼ぼう。《蔓を糸でつないで、首にかけると、櫻桃は、珊瑚の首飾のやうに見えるだらう》と、太宰は、去年、それを書いた。
子供たちは、櫻桃など見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだらう……
よろこびは、せぬ。君は一つだけ、まちがつてゐた。君は、だまつて、種を吐き出せば、よかつたのだ。この一行の「反省」のために、一生、子供たちは、櫻桃の初生りを、君にたべさせたいと、希ふやうになるだらう。
一年の、季節ごとに、そして、それは、ぼくらを、ぼくらが、生きる限り、なんたる、なんたる田舎者かと、いらただせることになるだらう。《櫻桃忌》が、さういふ「心のザワめき」に、さういふ「美学の Etiquette」を、なにほどか、喚起したらば、幸甚である。「おもてには、快楽」云々と、いふことを愛した、さういふ心の人のために、さういふ心で、提唱された ―― いはば、さういふ Etiquette だつたのである。










全部読みたい方は、こちら。
『《櫻桃忌》提唱』今官一 1
『《櫻桃忌》提唱』今官一 2
『《櫻桃忌》提唱』今官一 3
『《櫻桃忌》提唱』今官一 4
参考記事 2009.12.10 生誕100年記念写真展 太宰治の肖像