意外とお洒落だった痕跡いっぱいの縄文時代
こんにちは
小野派一刀流免許皆伝小平次です
小平次の妄想的歴史探訪
「縄文の奇跡」
と題してお送りいたします
前回私たちのご先祖様たちは、おそらくは現在のアフリカ大陸付近から十数万年もの月日をかけこの日本列島付近に辿り着いた、不安遺伝子を抱えた究極の争いごと嫌いの臆病な人たちの集団であった
のようなことを申し上げました
それがおよそ3万年前くらいではないかといわれております(もっと以前の痕跡もあり)
そしてその後、今からおよそ1万6千年前ころには世界最古、もしくは最古級と言える土器を造り始めているのです
ここから諸説あるもののおよそ2千3、4百年前くらいまでが「縄文時代」と言われる時代なのですね
さて、この縄文時代
平和な時代であったとよく言われております
小平次自身も以前からこの平和な時代を
「縄文の奇跡」
と呼んできたわけです
しかしながら、主に左側の人たちからの主張をみますと
「縄文時代は平和で争いもなく、身分の差などのない平等な社会であった。しかしその後支配者階級が現れ、身分の差ができるようになった…」
だそうで…
うーーん…
「身分の差などのない…」
こんな風に言われると何だかちょっと気色悪くなってしまいます
ヒネクレモンの小平次としては、ついつい反対のことを考えたくなってしまいます
「縄文時代」
はなぜ平和な時代であった、と言われるのでしょうか
それは、主に発掘調査などから、武器らしい武器などがあまり見つからないということがまず一つ
しかしそれは、基本的に対人向けに作られた武器ではないということであって、狩猟用の石斧や石鏃などは多数見つかっているのです
考えてみればわかることですが、猪や熊を仕とめられる道具であれば、その気になれば当然対人用としても有効であったはずです
また、人を殺す手段は武器を使用しなくとも他にもあるわけです
首を絞めるとか、崖から突き落とすとか、素手で殴り殺すとか…
対人向けの殺傷能力の高い武器などが見つからないからと言って、それだけでは平和な時代であった、とは言えないわけです
そしてもう一つ
武器だけではなく、殺傷痕のある人骨が発見されない、もしくは少ない
というのも、縄文時代が平和な時代であったという推測を後押しています
これに関しては面白い研究データがありまして
「受傷人骨からみた縄文の争い」
他人からの攻撃による傷を負ったことが明らかな縄文時代の人骨についての研究論文であります
いやあ、いろんな研究をしている人たちがいるものですね!
勉強することはまだまだたくさんあります
さてこの論文の中身をざっと申し上げますと、結論から言えば、縄文時代にも「戦闘らしきもの」は起きていた、ということです
まあ当たり前のことですね
縄文期の受傷人骨は、少ないとは言っても、縄文時代にも争い事が起きていた可能性を示しており、そこには明確な殺意が存在していたのであります
縄文時代は「争いのない平和な時代」ではなかったのか!
上記の論文、大変興味深い研究結果を報告してくれております
その戦闘スタイルは、弥生時代中期以降
「 集団 対 集団 」
に徐々に変わっていったようですが、少なくとも縄文晩期ころまでの戦闘スタイルは
「 一人 対 数人(少人数)」
であったことが窺えるそうです
また、弥生時代中期以降は、殺傷能力の高い金属器による接近戦が増えているのに対し、縄文期のそれは、主に高所(樹上等)から弓による攻撃を仕掛けるパターンが多かったようです
縄文期の弓は殺傷能力も低いため、高所(樹上等)から攻撃し、相手の動きを鈍らせて複数人で襲い頭部への石斧等での攻撃によって致命傷を負わせる戦法が多かったようです
「 一人 対 複数 」
だとか
「高所(樹上等)からの攻撃」
とか、なかなかに妄想膨らむような研究結果です
(山賊のような連中による襲撃であるとか、集落にやってきた招かれざる客の撃退であるとか…etc)
なんにせよ、縄文期のそれも、人を殺そうという意志の下で起きた「事件」の一つであるのは間違いありません
しかしそれが「戦闘」と呼べるレベルなのか、ましてや「戦乱」や「戦争」と呼べるレベルのものなのか
そう考えると「争いのない」というのは言い過ぎとしても、少なくとも「戦争」や「戦乱」と呼べるような集団対集団の規模の争い事は「起きていなかった」と言えるかもしれません(現時点での発掘調査や研究においては)
「規模の大きな戦乱になるまでの集団が構成されていなかっただけだ」
との主張もあるようですが、少なからず三内丸山遺跡などに代表されるそれなりの規模を持った集落もあった上、「交易」とは呼べないという説もありますが、少なくとも全国規模で「交流」があったことは発掘調査でわかっております
とすれば、当然「集団対集団」の接触もあったことになると思うのですが、それが「集団対集団」の戦闘に発展することまでには、至らなかったということになるでしょう
それでも「規模の小さな集団がほとんどであった」との見方は可能かもしれませんが、それはそれで、前回申しあげたことですが、群れを大きくする必要性というのは、より安定した食料の確保のためであると同時に、外敵からの攻撃、その逆に対する安全保障上の要請でもあるわけでして、その要請に応えることの必要性も大きくはなかったとも言えるのではないでしょうか
それも1万年以上…
動物的本能、そして世界の歴史を見てくれば、1万年以上の長き時間、必要以上に群れを大きくする必要がなかったこと自体奇跡と言えるかもしれません
この時代の集団の形成が、自然条件によって大きく左右され不安定であったことは想像に難くありませんが、それでも1万年以上もの長き時間、集団同士の接触を持ちながらも戦闘にまでは至らなかったのは、弱肉強食の動物的本能に支配されてきた世界の歴史からすれば、やはりすごいことなのではないでしょうか
また、芸術的文様を施した土器であるとか、思想的な想いのこめられたような土偶であるとか、高度な技術を要するヒスイの加工品であるとか、漆塗りの装飾品であるとか、そういった品々の痕跡は、なかなかの文化文明の発達度を物語っています
江戸時代、優れた文化が発達したのは、安定した平和な時代が長く続いたからこそであって、この縄文期にも似たような事が言えるのではないでしょうか
しかも1万年以上…
こうしてみますと、ヒネクレモンとして反対の事を取り上げたつもりが、結局は「縄文時代は平和な時代」を後押しする結果となってしまいました
そうです
やはり縄文時代は「奇跡の時代」と呼んで全く差支えない、概ね平和な時代であったのではないでしょうか
まあ「身分の差もなく」などというのは、後の階級闘争史観から見た話で言い過ぎであるとは思いますが(階級差があったと思われる痕跡もあり)
さて、このように概ね平和な時代であったとも思われる縄文時代もやがて終焉を迎えます
中学校の教科書などにみられる
「主に朝鮮半島から移り住んだ人たちによって文化や技術が伝えられ…」
といったころと時を同じくするようにして、徐々にではありますが「集団対集団」の戦闘の痕跡も見られるようになってまいります
これはいったい何を意味するのでしょう
2005年国立科学博物館企画展示のポスター
その妄想はまた次回に
御免!
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