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30年近く前の、私のインド放浪、当時つけていた日記をもとにお送りしております
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おれが宿泊していたホテルは、バブーのオジが経営するホテルであった。こじんまりとしていたが清潔で、シャワーは水しか出なかったがなかなか快適に過ごすことができていた。
オーナーの娘にマリアという3歳の少女がいた。マリアは時折おれの部屋に勝手に入って来ては、何が面白いのか、おれの旅行バッグを開けて中身を物色したりしていた。
インドの女性らしく、女性と言っても幼女だが、目鼻立ちがくっきりとして、将来はさぞかし美人になるであろうことは一目でわかった。
朝になるとホテルの前に、大きな荷台をつけたサイクルリクシャがやって来る。その荷台には、ブラウンのサスペンダー付きスカートや半ズボンに真っ白なブラウス、シャツを着たマリアと同じ年頃の子供が数人乗っている。同じ制服を着たマリアも、リクシャ引きに抱きかかえられ荷台に乗せられる。幼稚園へ行くのだ。通園バスならぬ、通園リクシャである。
街には、学校へも行けずミッキーマウスで朝から晩まで働いているシメンチャローや、海岸でみすぼらしい格好で貝細工を売っている少年などが大勢いる、マリアは経済的にはとても恵まれた子だ。
ある日の昼時、おれはそろそろ昼飯を食いに出よう、と思いながらもゴロゴロとベッドに寝そべり本を読んでいた。本と言ってもガイドブックである。
『コヘイジ…』
誰かが小さな声でおれを呼ぶ、開けっ放しの入り口のドアを見るとマリアが立っている。
『〇▼@=¥*+#…』
何かを言っているがわからない、だがジェスチャーでおれにこっちへ来い、と言っているようだ。腰を上げマリアの方へ行くと、マリアはおれをバルコニーへと誘う。
気持ちの良い青空の下、バルコニーへ出ると、敷物の上に豪華な料理と、ビール、ウイスキーなどの酒が並べられている、傍らにはデッキチェアでくつろぐバブーのオジであるオーナー、その奥さん、そしてもう一人若い女性が座っていた。
おれはマリアに連れられ、海側に背を向けるように腰かけた。とろんとした半開きの目のまま、オーナーが言った。
『コヘイジ、たまには一緒にランチでもしよう』
これまでオーナーとはほとんど口を聞いたことはなかった。顔を合わせれば挨拶ぐらいはしていたがそれ以上のこともなかった。大体インド人は、実際はそうでもないのだが、態度がぶっきらぼうに見えるやつが多い、このオーナーもそうだったし、おれに対して好意的なのか、そうでもないのか、よくわからないのである。だから、この突然のランチの誘いはとても意外なことであった。
オーナーにビールをついでもらい、奥さんが料理を取り分けてくれた。
『昔の野菜は味が濃かった、今の野菜はあまり美味くない』
そして
『インド辺りに行けば、きっと日本の昔の野菜のように美味いだろう…』
と、おれの父親が言っていたが、実際そんなこともなかった。これまでインドでサラダ類も食べてきたが、日本の野菜と比べ特別美味いとも思わなかった、今取り分けてもらった生野菜のなかの人参を食ってみる、やはり大差はない。
気になったのは、クリームシチューのような白いスープだった。インドへ来てから初めてみる色のスープだ。一口食ってみる…。
カレーだ…、色の違うカレーだ…。
インドのレストランで、メニューのカレーのコーナー以外のところに書かれている物を注文し食ってみると、やはりカレー味のカレーだ…、ということは多かった。
暑くもなく寒くもなく、青空とそよ風が心地よい、デッキチェアでくつろぐオーナーとしばらく話をした。
『キミは、なんでインドへ来ようと思ったんだ?』
インドへやって来てから何度もされた質問である。だが、この時のおれは、本当のところなんでインドへやって来たのか、その理由をおれ自身わかっているようでわかっていなかったのだ、と言うより、わかっていないこと自体、わかっていなかったのだ。
これより数年前、スペインのバルセロナを一人旅で訪れた。刺激的な街だった。
その後大学を卒業し、結婚したい、と思っている女性もいた。就職し、家庭を持てば時間の制約も気にすることなく、行き当たりばったりのきままなぜいたくな旅、そんなことはもう二度とできないかもしれない、人生最後かもしれない気ままな旅はどこへ行くか、バルセロナ以上に刺激的な街、国、インドしかない、その程度の感覚であった。
だが、この日記シリーズの最初でも述べたように、日本を発つ直前のおれは、充実した社会人生活と彼女のK子、冒険心なんてものはどこかに消え失せていたのである。それでも無理やりにでもやって来た本当の理由におれが気付くのは、日本に帰ってから数年後のことである。
『なんでインドへ来ようと思ったんだ?』
その理由を自分自身で良く理解していなかったおれの、こう聞かれたときの答えは決まっていた。
『ボクは、マハトマ・ガンディーを尊敬しています、あのガンディーを輩出したインドという国がどんな国なのか見てみたかったのです』
この言葉は半分くらいは本当だったかもしれない。
このころおれはクリスチャンだった。絶対的な神の愛、キリストの博愛、それとガンディーの非暴力非服従、という思想に共通するものを感じていた。
インドにおいてもガンディーは英雄である。インドのいたるところにガンディーの銅像が建っていたし、このプリーの街の公園にもあった。高額紙幣である100ルピーの肖像もガンディーだ。
外国人から自国の英雄を尊敬している、と言われれば、インド人も多少は誇らしく、気分も良いだろう、どこかにそんな感覚もあったかもしれないし、これまでおれがそう答えて嬉しそうにしたやつはいても、気を悪くしたように見えたやつはいなかった。
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ところが、この時のオーナーは少し違う反応だった。相変わらず半開きの目のまま、表情は変えずに、気持ちの良い昼下がりの時間に合わせるような穏やかな口調で言った。
『確かに、ガンディーはインドの独立の父として、インドだけではなく世界から称賛されている、だが、ガンディーは戦後の分裂したインドの元凶でもある…。私は、チャンドラ・ボッシュこそがインド独立の英雄だと思っている…』
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チャンドラ・ボース、名前はもちろん知っていたが、この時のおれには大した知識もなかった。ボースが英雄…、それよりもおれは、ガンディーがインド分裂の元凶という言葉をインド人から聞いたことに驚いていた。
オーナーは、それらのことについて詳しく語りだしたが、難解な言葉も多く、深くは理解できなかった。そして最後にこう言った。
『キミたち日本人は、かつて白人の人種差別に、有色人種として唯一立ち向かった勇敢な国民だ、インドもともに戦ったと思っている』
『だが…、ヒロシマ、ナガサキにAtomic Bombを落とされていながら、今はアメリカの言いなりだ…』
おれは言葉が出なかった。なんと答えていいかわからなかったのだ。
『まあ、難しい話はこれくらいにして…』
オーナーはそう言っておれに水割りを作ってくれた。
しばしの談笑ののち、おれは部屋に戻りベッドに寝転んだ。そして考えた。
このとき、おれはそれなりに熱心なクリスチャンであった。また、おれの父は中国は素晴らしい国だ、と言ってはばからない人であったし、家では共産党の機関紙『赤旗』も購読していた。かつての日本軍が大陸で、それこそ普通の人間が想像すらしえない残虐な方法でアジアの人々を虐殺した、と家でも学校でも聞かされて育った。どこで撮られたものかもわからない、日本軍によって首を切り落とされた、とされる死体の写真なども見たことがあった。
そんなおれは教会に毎週通い、平和を祈り、過去の蛮行を同じ日本人として反省し続けなければいけない、戦争などは決して起こしてはならない、そう考え反戦反核の集会にも行ったりして、ギターをかき鳴らし皆で歌ったりもしていた。
そんなおれだったから、アジア人の口から直接出た
『キミたち日本人は、かつて白人の人種差別に、有色人種として唯一立ち向かった勇敢な国民だ』
という言葉は衝撃的なものであった、そしてそれは、この時のおれには、とても受け入れ、消化できる言葉ではなかった。
おれがボースのことをもう少し知り、やがてキリスト教と決別していくのはこの旅を終え、少しの時間が経ってからである。
信仰を持つこと、それはその人のアイデンティティそのものである、キリスト教においては、すべてが神の計画のもとに世界が動き、信徒は神のために生きるのである、逆に言えば、それが無ければ生きる意味もない、だから決別すると決めてからしばらく、おれは自我の崩壊のような状態に見舞われ、精神科にも通うことになる。
それでもおれにキリスト教からの決別を決心させたもの、その一つにこの日のオーナーの言葉は少なからずのきっかけをおれに与えたことは間違いのないことであった。
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この日、オーナーに言われた言葉は、全く別な場所で全く別の人からも数回言われました。インド以外でも似たようなことを言われたことがあります。
チャンドラボースが、この街、プリーのあるオリッサ州の出身であったことも大きかったのかもしれません
※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。それ以外の「イメージ」としている画像はフリー画像で、あくまでも自分の記憶に近いイメージであり、場所も撮影時期も無関係です。
30年近く前の、私のインド放浪、当時つけていた日記をもとにお送りしております
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おれが宿泊していたホテルは、バブーのオジが経営するホテルであった。こじんまりとしていたが清潔で、シャワーは水しか出なかったがなかなか快適に過ごすことができていた。
オーナーの娘にマリアという3歳の少女がいた。マリアは時折おれの部屋に勝手に入って来ては、何が面白いのか、おれの旅行バッグを開けて中身を物色したりしていた。
インドの女性らしく、女性と言っても幼女だが、目鼻立ちがくっきりとして、将来はさぞかし美人になるであろうことは一目でわかった。
朝になるとホテルの前に、大きな荷台をつけたサイクルリクシャがやって来る。その荷台には、ブラウンのサスペンダー付きスカートや半ズボンに真っ白なブラウス、シャツを着たマリアと同じ年頃の子供が数人乗っている。同じ制服を着たマリアも、リクシャ引きに抱きかかえられ荷台に乗せられる。幼稚園へ行くのだ。通園バスならぬ、通園リクシャである。
街には、学校へも行けずミッキーマウスで朝から晩まで働いているシメンチャローや、海岸でみすぼらしい格好で貝細工を売っている少年などが大勢いる、マリアは経済的にはとても恵まれた子だ。
ある日の昼時、おれはそろそろ昼飯を食いに出よう、と思いながらもゴロゴロとベッドに寝そべり本を読んでいた。本と言ってもガイドブックである。
『コヘイジ…』
誰かが小さな声でおれを呼ぶ、開けっ放しの入り口のドアを見るとマリアが立っている。
『〇▼@=¥*+#…』
何かを言っているがわからない、だがジェスチャーでおれにこっちへ来い、と言っているようだ。腰を上げマリアの方へ行くと、マリアはおれをバルコニーへと誘う。
気持ちの良い青空の下、バルコニーへ出ると、敷物の上に豪華な料理と、ビール、ウイスキーなどの酒が並べられている、傍らにはデッキチェアでくつろぐバブーのオジであるオーナー、その奥さん、そしてもう一人若い女性が座っていた。
おれはマリアに連れられ、海側に背を向けるように腰かけた。とろんとした半開きの目のまま、オーナーが言った。
『コヘイジ、たまには一緒にランチでもしよう』
これまでオーナーとはほとんど口を聞いたことはなかった。顔を合わせれば挨拶ぐらいはしていたがそれ以上のこともなかった。大体インド人は、実際はそうでもないのだが、態度がぶっきらぼうに見えるやつが多い、このオーナーもそうだったし、おれに対して好意的なのか、そうでもないのか、よくわからないのである。だから、この突然のランチの誘いはとても意外なことであった。
オーナーにビールをついでもらい、奥さんが料理を取り分けてくれた。
『昔の野菜は味が濃かった、今の野菜はあまり美味くない』
そして
『インド辺りに行けば、きっと日本の昔の野菜のように美味いだろう…』
と、おれの父親が言っていたが、実際そんなこともなかった。これまでインドでサラダ類も食べてきたが、日本の野菜と比べ特別美味いとも思わなかった、今取り分けてもらった生野菜のなかの人参を食ってみる、やはり大差はない。
気になったのは、クリームシチューのような白いスープだった。インドへ来てから初めてみる色のスープだ。一口食ってみる…。
カレーだ…、色の違うカレーだ…。
インドのレストランで、メニューのカレーのコーナー以外のところに書かれている物を注文し食ってみると、やはりカレー味のカレーだ…、ということは多かった。
暑くもなく寒くもなく、青空とそよ風が心地よい、デッキチェアでくつろぐオーナーとしばらく話をした。
『キミは、なんでインドへ来ようと思ったんだ?』
インドへやって来てから何度もされた質問である。だが、この時のおれは、本当のところなんでインドへやって来たのか、その理由をおれ自身わかっているようでわかっていなかったのだ、と言うより、わかっていないこと自体、わかっていなかったのだ。
これより数年前、スペインのバルセロナを一人旅で訪れた。刺激的な街だった。
その後大学を卒業し、結婚したい、と思っている女性もいた。就職し、家庭を持てば時間の制約も気にすることなく、行き当たりばったりのきままなぜいたくな旅、そんなことはもう二度とできないかもしれない、人生最後かもしれない気ままな旅はどこへ行くか、バルセロナ以上に刺激的な街、国、インドしかない、その程度の感覚であった。
だが、この日記シリーズの最初でも述べたように、日本を発つ直前のおれは、充実した社会人生活と彼女のK子、冒険心なんてものはどこかに消え失せていたのである。それでも無理やりにでもやって来た本当の理由におれが気付くのは、日本に帰ってから数年後のことである。
『なんでインドへ来ようと思ったんだ?』
その理由を自分自身で良く理解していなかったおれの、こう聞かれたときの答えは決まっていた。
『ボクは、マハトマ・ガンディーを尊敬しています、あのガンディーを輩出したインドという国がどんな国なのか見てみたかったのです』
この言葉は半分くらいは本当だったかもしれない。
このころおれはクリスチャンだった。絶対的な神の愛、キリストの博愛、それとガンディーの非暴力非服従、という思想に共通するものを感じていた。
インドにおいてもガンディーは英雄である。インドのいたるところにガンディーの銅像が建っていたし、このプリーの街の公園にもあった。高額紙幣である100ルピーの肖像もガンディーだ。
外国人から自国の英雄を尊敬している、と言われれば、インド人も多少は誇らしく、気分も良いだろう、どこかにそんな感覚もあったかもしれないし、これまでおれがそう答えて嬉しそうにしたやつはいても、気を悪くしたように見えたやつはいなかった。
イメージ
ところが、この時のオーナーは少し違う反応だった。相変わらず半開きの目のまま、表情は変えずに、気持ちの良い昼下がりの時間に合わせるような穏やかな口調で言った。
『確かに、ガンディーはインドの独立の父として、インドだけではなく世界から称賛されている、だが、ガンディーは戦後の分裂したインドの元凶でもある…。私は、チャンドラ・ボッシュこそがインド独立の英雄だと思っている…』
イメージ
チャンドラ・ボース、名前はもちろん知っていたが、この時のおれには大した知識もなかった。ボースが英雄…、それよりもおれは、ガンディーがインド分裂の元凶という言葉をインド人から聞いたことに驚いていた。
オーナーは、それらのことについて詳しく語りだしたが、難解な言葉も多く、深くは理解できなかった。そして最後にこう言った。
『キミたち日本人は、かつて白人の人種差別に、有色人種として唯一立ち向かった勇敢な国民だ、インドもともに戦ったと思っている』
『だが…、ヒロシマ、ナガサキにAtomic Bombを落とされていながら、今はアメリカの言いなりだ…』
おれは言葉が出なかった。なんと答えていいかわからなかったのだ。
『まあ、難しい話はこれくらいにして…』
オーナーはそう言っておれに水割りを作ってくれた。
しばしの談笑ののち、おれは部屋に戻りベッドに寝転んだ。そして考えた。
このとき、おれはそれなりに熱心なクリスチャンであった。また、おれの父は中国は素晴らしい国だ、と言ってはばからない人であったし、家では共産党の機関紙『赤旗』も購読していた。かつての日本軍が大陸で、それこそ普通の人間が想像すらしえない残虐な方法でアジアの人々を虐殺した、と家でも学校でも聞かされて育った。どこで撮られたものかもわからない、日本軍によって首を切り落とされた、とされる死体の写真なども見たことがあった。
そんなおれは教会に毎週通い、平和を祈り、過去の蛮行を同じ日本人として反省し続けなければいけない、戦争などは決して起こしてはならない、そう考え反戦反核の集会にも行ったりして、ギターをかき鳴らし皆で歌ったりもしていた。
そんなおれだったから、アジア人の口から直接出た
『キミたち日本人は、かつて白人の人種差別に、有色人種として唯一立ち向かった勇敢な国民だ』
という言葉は衝撃的なものであった、そしてそれは、この時のおれには、とても受け入れ、消化できる言葉ではなかった。
おれがボースのことをもう少し知り、やがてキリスト教と決別していくのはこの旅を終え、少しの時間が経ってからである。
信仰を持つこと、それはその人のアイデンティティそのものである、キリスト教においては、すべてが神の計画のもとに世界が動き、信徒は神のために生きるのである、逆に言えば、それが無ければ生きる意味もない、だから決別すると決めてからしばらく、おれは自我の崩壊のような状態に見舞われ、精神科にも通うことになる。
それでもおれにキリスト教からの決別を決心させたもの、その一つにこの日のオーナーの言葉は少なからずのきっかけをおれに与えたことは間違いのないことであった。
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この日、オーナーに言われた言葉は、全く別な場所で全く別の人からも数回言われました。インド以外でも似たようなことを言われたことがあります。
チャンドラボースが、この街、プリーのあるオリッサ州の出身であったことも大きかったのかもしれません
※引用元を示し載せている画像は、撮影された方の了承を頂いた上で掲載しております。それ以外の「イメージ」としている画像はフリー画像で、あくまでも自分の記憶に近いイメージであり、場所も撮影時期も無関係です。
待ちに待った小説。
今回の・・・わかるわぁ~ 深く同意。
俺が小平次さんの立場だったら 同じように
覚醒したのかも・・・
宗教は違えど 全く相違ござらん。
おはようございます!
コメントありがとうございます!
私はキリスト教と決別しましたが、イエスの博愛についてまでを否定する気もなく、真面目に信仰している人たちや、以前お世話になった牧師先生などは、もう交流はありませんが今でも尊敬もしています
ただ、私が決別した理由は、神の言葉とされる聖書は、間違いなく人間のその時の都合で書かれたものである、と確信したこと
唯一絶対の神に生かされている、という考えや、その他のことも含めて、少なくとも日本に人は合わないと感じたこと
根本的に対立を煽る思想になりかねないこと、というより歴史上は常に対立を煽り続けいまだに戦争の要因になっていること
日本の武士道精神、古来からの道徳感、天皇を君と頂く国体、これらの方がキリスト教よりもはるかに平和に対し貢献できる、と強く感じたこと
などなど
いずれにしても、それまでの自分自身の否定でもありましたので、大変な思いをしまたよ
ありがとうございました