晴れたら野山に出かけよう!

おいしい空気をいっぱい吸って 愛しい花や小鳥に会いに出かけよう

暑い!!   警告”世界異常気象”

2015-07-14 17:11:37 | 思うこと

今日の暑さは ただ事ではない。 空には雲がなく 太陽がぎらついている。 玄関を一歩でると庭の敷石が灼熱に焼け 熱風が顔に吹き付けてきた。うわあ~ この暑さ何~?。  とても外へは出られないな。

この前 NHKスペシャル(6/18放映)で 世界異常気象が報道されていた。 今のまま世界中でCO2を出し続けると どんどん地球温暖化が進み  2050年夏には 東京で最高気温を40℃を記録し 「2100年には世界の平均気温が4度ぐらい上昇する」 と 科学者から警告がなされていた。 その結果 スーパー台風、大雨による洪水 海面上昇が起こり 海面が80センチほど上昇して、日本の街も軒並み水没してしまう というものだった。 (いや、既に 今日7/14 のニュースで群馬県館林市で最高気温が39.3℃を記録したと報じられていた。ウヘェ~) 2100年といえば まだ孫たちが生きている時代だ。 一刻も早く みんながCO2を出さないようにしないと 取り返しのつかないことになるだろう。

この暑さでは エアコンを使わなければ 熱中症になるので「適切に使用するように」ということだが できるだけ無駄なCO2の出さない生活を心がけねばならないことを 今一度肝に銘じたい。 みんなで CO2の出さない生活を心がけても、焼け石に水だが それでも 世界中の人々が意識をして心がけることが 大きな力になると信じたい。 わが町は緑が多く 大阪市内に比べれば2℃は低くて過ごしやすい。 家じゅうの窓を開け放って 扇風機を回し 麦茶を飲んで 家でごろごろ過ごしている。 車もできるだけ窓を開けて エアコンをつけないようにしているが、 窓を開けて走っているのは わたくしの乗る車ぐらいか、、、、

それにしても 今からこの暑さ。 どうしてこの夏を乗り切ろうか?


阪神淡路大震災から20年・・・・20年という歳月を思う 

2015-01-16 08:29:30 | 思うこと

あすは 震災から20年。そのあとに生まれた子供たちは 今年成人を迎えた大学生、高校生になっている。その人たちにとって、震災の記憶はなく 周りの人に聞いた知識が頭の中にあるだけだ。 ・・・・・今 20年という歳月を思う。

朝からNHKの「あさイチ」で そのころ生まれた子供たちが 震災を語り継ぐことの大切さを話し合っていた。

私が大阪の郊外 高師浜の海辺の町で生まれたのは 終戦の前の秋のことだった。その時代がどんなに大変な時だったのか 実感することもなく、深く考えることもないまま、戦争の影は全く感じずに大きくなった。  父は戦争にはいっていなかった。多分年齢が超えていたからだろう。 私には食糧不足でつらかったという記憶もないが 大人たちはどれだけ苦しい日々を送っていたことだろうか。 焼夷弾に逃げまどい 街が焼け野原になったのは まだ記憶に浅いことだったのだ。  私が幼稚園に通っていたのは  終戦からまだ5年しかたっていなかったのだ。 そういえば、10歳になるころまでは 電車のターミナルなどで 傷痍軍人が白い服を着、松葉つえをついて寄付を請う姿をがあったことを覚えている。 大人の心の中は まだまだ 戦争の時の思いが占めていたことだろうと思う。 中学校、高校に上がると 友人や周りに お父さんが戦死したという人が必ずいることを知った。 海軍にいた親友のお父さんも 生まれたばかりの子供を残して若くして没した。

私が20歳になったとき青春真っただ中で 戦争のことなど頭の片隅にもなく一人旅に出てオリンピックに湧く東京にいて できたばかりの新幹線に乗って意気揚々と帰ってきた。 どこにも戦争の影は見当たらなかったが あれは 戦後20年しかたっていなかったのだ。もっと戦争といウことに目を向けるべきだった。 

その後 子供たちが巣立った後この年になって 沢山たくさんの戦争のことに目を向けるようになった。 また 各地で大震災が何度も起こって多くの人々が傷ついた。 私は体験していないが テレビや新聞には 戦争の悲惨さ 震災の悲惨さを伝える番組があふれるほど放映されている。そこで私が学んだ  それらの苦しみに寄り添い 戦争のこと、震災のことを、後世に伝えなければならない。 いまさら子供にそんな話を切り出すこともできないが 孫たちには語りかけてみたい。 


敬老の日

2014-09-19 05:54:11 | 思うこと

ちょっと前までは 「敬老の日というと、誰かお年寄りをお祝いしてあげる日」だと思っていたのに 今年は「敬老の日だから、ひょっとしたら息子たちが来るかもしれないな?」と すっかり自分達のこととして受け入れている自分に気が付いた。 そりゃ、押しも押されもせぬ老人だものな。 4歳と6歳の孫から、お昼から行くと連絡があり きれいなお花をもって訪ねてきてくれた。

2012年の日本で100歳以上の人が約54,000人。 平成元年(1989年)ではわずか3,078人だったようだ。この間の伸び方、すごーいね。

医療の進歩で寿命が長くなるのはありがたいようなものの はたしていいのだろうか?と考えてしまう。今の平均寿命は 男女とも80歳を超えましたね。2013年の平均寿命は 男性80.21歳 女性86.61歳だそうですが 健康寿命は70.42歳、73.62歳(H22年)で 人の助けが必要な時期がかなりあるのは辛いですね。 税金 等の公費で支払う 年金 医療費 介護費 が増えて それらを支える若い人の負担が増えるばかり。 老人は今の社会保障に甘えないで 既得権に固執しないで 少しでも分相応に負担しなければ と思う。

 


世の中の迷惑な人・・・無法者

2014-08-20 03:04:08 | 思うこと

この世で迷惑な人はいろいろいるが 最たる人は暴力団。 その手らしい人がいると 避けて、避けて通りたい。 この前 満員の狭い飛行機の中(ピーチはいっそう狭い)で 私たちの2筋前の座席にそれらしき大きな人が窮屈に腰を下ろした。 何も ピーチに乗らなくてもよいのに・・・・  座るなり 足を組み通路を隔てた仲間と大声でしゃべりだした。組んだ脚先のピカピカのエナメルの靴が通路に突き出している。 時に 客室乗務員の女性にちょっかいを出し 乗務員も迷惑そうだが注意することも出来ない。後ろの座席には女がいて 体を半分後ろ向きにして その女の手をしっかり握って 1時間半大声でしゃべりとおした。誰も注意できない。なんと不愉快な時間だったことか。逃げ場のない隣の座席の人は どんな思いだったことか。 飛行機の中では大声を立てない、暴力団員は飛行機に乗せないというルールは作れないものか?

迷惑な人の2

昨夜7時ごろ 急用があって和泉市に向かって片道1車線の細い国道を走っていた。 道路は帰宅を急ぐ人で、ずいぶん混雑していた。 うしろの方で単車が「バリバリバリバリ」爆音を立てて付いて来る気配がある。 信号が赤になって 私たちの車の前に3台ほどが停止した後に停止した。 とたんに「ガッツーン」と衝撃を感じた。と、車の後ろから右前方にすり抜けて、「バリバリ」と赤信号の交差点の前まで車の間を縫っていき 右折するのが見えた。あれだ!と思ったが 暗くなった上に細い道をとっさに追いかけることはできなかった。忌々しいが どのように車が傷ついたか確認もできず 追いかけることもできず 割り切れない思いで広くなった道に出て少し行くと 目の前に バリバリと音を立てるバイクが出てきてこちらを見ている。 あれだ! と追跡しようとしたら たちまち細い入り組んだ道に紛れ込んだ。しばらく追いかけたが 相手は早いし 細い道であっという間に 暗がりの路地のどこかへ入り込んで分からなくなった。これ以上追跡も出来ず 車を見ると後ろが大きくへこんでいる。 「怪我がなくてよかった」というものの どうも我慢がならない。 最寄りの警察に届けて帰宅した。 「今度からは 車のナンバーを見ていてくださいよ」と言われたが あの暗がりで 黒いバイク、黒い服を着た若者らしき男という以外 車種もナンバーも確認することなど不可能だ。 車に追突されたのなら 相手に責任を求められるが 小回りの利くバイクとなるとあっという間に逃げてしまいどうもならない。 とんだ災難だ。 あーあ・・・・

 


原爆の日に思うこと

2014-08-07 12:35:51 | 思うこと

昨日は広島原爆投下の日、9日は長崎原爆投下の日。 夏は 新聞でもテレビでも 戦争関連の番組が多い。私は出来るだけそれらを見るようにして また録画して残すようにしている。 私は 終戦前の年に生まれていますが父親は戦争には行っていないので 軍隊の悲惨さは聞くことがありませんでした。でもいろんな悲惨なことを新聞 テレビで見聞きし、考え 二度と戦争は起こしてはならないと思っています。最近 周辺国の動きを案じて自衛力の強化が図られている。私は 自衛隊も反対です。もし 侵略してくる国があっても一切対戦しなくていいと思っています。オリンピックなど、スポーツで 国同士の競争に夢中になっていますが 私は 個人の成績はほめたたえればいいですが 「日本頑張れ!」 というのは 好きじゃないのです。 理想すぎますが「世界は一つ」になればいいのに と思っています。

戦争の悲惨さを体験した人が どんどん少なくなっています。今こそ 後世に語り継いで 二度と戦争を起こさないようにしなければなりません。私自身も 知らない戦争を知り また 子供や孫たちに伝えなければならないとおもいます。そのためにも 自分の目をしっかり開きたいとおもいます。

 


憲法9条にノーベル平和賞を

2014-06-21 08:10:35 | 思うこと

友人から 署名をしてほしいと依頼があった。「憲法9条によって、70年間戦争することなく平和を守ってきた日本国をノーベル平和賞にノミネートされたので ぜひ実現するようにみんなで運動を広げていこう」というものだ。安部政権の進めている 「集団的自衛権行使の容認」「特定秘密保護法」など 素晴らしい憲法9条が変えられようとしているのだ。

神奈川県の一人の女性から起こった 「ノーベル平和賞をもらって 全世界に憲法9条の素晴らしさを知らしめよう」というこの運動はみんなの力で大きくしたいとおもいます。ネットでもこの運動に参加できます。このblogを見てくださる方も是非賛同してください。

 

 http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/11/-article-9-of-the-constitution_n_5130275.html

http://nobel-peace-prize-for-article-9.blogspot.jp/

 http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%81%AB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%82%92%E5%BA%83%E3%82%81%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-%E7%89%B9%E3%81%AB%E7%AC%AC9%E6%9D%A1-%E3%82%92%E4%BF%9D%E6%8C%81%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%B3%9E%E3%82%92%E6%8E%88%E4%B8%8E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84-please-award-the-nobel-peace-prize-to-the-japanese-citizens-who-have-continued-maintaining-this-pacifist-constitution-article-9-in-particular-up-until-present#share


最近読んだ本で感じたこと

2014-05-30 21:26:10 | 思うこと

いずれもお医者さんが書いたもので  久坂部羊の「日本人の死に時」(かなり古い発行) と 近藤誠の「医者に殺されない心得47」の2冊です。

私がそこから読み取ったのは 

「人生は長生きすればいい」というものではなく 人生の終末を迎えるにあたり、医療の発達でひたすら「生」を長らえるためにいろんな治療をすることは本人を苦しめるだけであり 生ある間に充実した人生を過ごし あとは召されることにあがらうことはせずに時を迎える そんな生き方をしたい ということだ。 そういう「その時」の迎え方は とても穏やかなもののようだ。

年をとってから癌になるのは 多くは老化現象といえるようだ。だから 癌になるのはごく自然のことなんだ。何歳で癌に気づいたか。それが遺伝子の変異で年若い時であり、まだ子育て中なら 何が何でも少しでも長く生きたいと 神にもすがりたくなるのは当然だが 私のように人生の終盤に来ているものは、もう病にあがらうことはせず、自然のままで 「生あるうちは日々を精一杯生きて 明日死んでもいいように今日を生きたい」  なんて、これは理想ですが これを肝に銘じて日々を過ごしたいとおもいます


東日本大震災から3年

2014-03-11 08:16:20 | 思うこと

連日 テレビもラジオも現地からの報道、被災者の声で埋め尽くされている。そして今日は あの日から3年目の3月11日。亡くなったり行方不明の方は約2万人にもなる。 地震、津波 原発の災害・・・・いずれも筆舌に尽くせないが、どこを切り取って報道しても悲惨なものばかりだ。老いた人 幼い子供たち これから日本を支えていく若者、子供を育てるお母さん、一家の大黒柱、いずれもこれからどうして平穏な生活を得ることが出来るのか? 自分がこの中の一人だったらどのように過ごしているだろうか。どんなに不安で 苦しくて 絶望的な気持ちになっていることだろう。誰が悪いのか? 政府か? 東電か?  出口のない 解決の糸口がなかなか見つけられない 悲惨な状況の中で  どうしたら この試練を乗り越えられるのだろうか?  私たちは何をすればよいのだろうか?  復興に使うための増税だろうか? もう一度 震災時の時のようにみんなで義援金を出し合ったら、少しは有意義に使ってもらえるだろうか?


秋田県の秘湯

2014-02-04 10:00:02 | 思うこと

東北地方は温泉の宝庫である。  昨夜,民放テレビで 秋田県湯沢市の雪深い素朴な温泉を紹介していた。 雪景色の中の温泉はとりわけ大好きである。 周りが真っ白の山々に囲まれ 軒先に太い長いつらら下がっている 。 いいなぁ~ 小安峡温泉・・・・・・ 秋田県には鳥海火山帯と那須火山帯が貫いていて、この辺りは、いたるところにいろんな温泉が散在している。 一度訪ねたいと思っていた栗駒山も近い。 わー、行きたいなぁ。  退院して、元気になれたら、自分へのご褒美に、このあたりにゆっくり療養に行きたいな。  花の咲くころがいいな。 よーし、何としても行くぞ~。   


「夫の墓に入りたくない?」・・・女性の本音

2014-01-27 08:29:47 | 思うこと

面白かったですねぇ 今日のあさイチ(NHK)。

最近の統計では 女性達の思いは 「夫の墓に入りたくない、死んでまで夫と一緒にはいたくない」が 6割。 街のインタビューでは 男性は女性のこんな気持ちに茫然としているようだ。 男性は奥さんも同じ墓に入ってほしい人が多いようだ。 現実を思えば そのデータの数字はうなづける。

私は 死んだあとのことは考えないが 遺骨は散骨でもいい。散骨してもらうとすれば好きな山がいい。『私はお墓の中にいません。眠ってなんかいません。千の風になって・・、・・』と考えたい派だ。 ところが 私たち夫婦には 京都の菩提寺に墓があるが 自宅の近くに小さい墓地を買ってしまった。京都の寺院との付き合いが煩わしいのと、遠いということから 自分たちの墓として あたらしいその地に求めてしまったのだ。今は少し後悔している。「買うんじゃなかった・・・」   買ってしまった(権利のみ)お墓は 他人に権利を売り渡すことはできない。子供には権利を譲ることができるが、子供も「そんな墓はいらない」と言うだろうから、その墓地を使用しないとそれを取得したお金は無駄になってしまう。私は 主人には深く感謝しているので、一緒に墓の中に埋葬してもらうことは全く異存はない。だが「子供たちにはお墓のわずらわしさをかけたくない」と思っている。仏教徒ではないので仏教的な考えには全くとらわれない。「無宗教の墓がいい」と思っている。子供や孫たちが たまには私のことを思い出してくれたら、春には花が咲き 山並みを一望する 明るいそのお墓に遊びに来てくれたらうれしいかな?

 


阪神・淡路大震災の記憶

2014-01-17 15:17:30 | 思うこと

19年前の今日( 1995年1月17日)am5:47 まだ夜明け前の暗闇の中で 阪神・淡路大震災が起こった

あの時 私はまだ寝床の中にいた。

突然の大きな揺れに身を固くしたが すぐに収まるだろうと思ったのになかなか収まらなかった。やっと収まって階下に降りて行ったら 長男がリビングに居て おおきな家具が倒れてこないように 必死で家具を抑えていた。台所は 食器棚の観音開きのところは、中からガラスや陶磁器の食器が床に落ちて 足元は壊れた破片が散乱していた。ラジオでは 震源地が神戸の灘区あたりだと告げ 御影に住む叔父一家のことが懸念された。その日のことは あまり詳しくは覚えていないが テレビでは 神戸の街で次々と火災が発生して 亡くなった人の数を告げていたが 見る見るうちにその数がどんどん増えていった。阪神高速道路が横倒しになっている映像が映し出されその震災のひどさが如実に感じられた。御影の叔父さんと連絡がついたのはいつだったか覚えていないが 東灘区の激震地にあったのに 一家の人々にいのちは別状なかったことが分かったのはほっとした。しかし ライフラインが途絶えて,被災地の人々の生活は 困窮を極めた。翌日も 翌日も 市街地では火災が発生し ことごとく 建物がぺしゃんこになって 多くの人々がその下敷きになっているのに 道路が寸断し 消防車も通れず、生きているのに火災が迫り 助かった家族の必死の救出もかなわず 火災に飲まれていった人々のことが報道されていた。寒空の中にほおりだされ 水も食料もなく トイレさえ使えず 屋外で震える人々。それが どんなに恐ろしいものだったか、被災した人々は どんなにつらく恐ろしい体験をされたことか。

電車の走らないレールの上を あちこちで大きな口を開けた道路を   何十キロも歩いてひたすら被災地に支援物資を運ぶ人々。私たちも 幹線道路は救助する車は通れるが 一般車はまともにたどり着ける道路もなく まわりまわってやっと神戸にたどり着いて 叔父の家族を見た時のことを思い出す。街中 ぺしゃんこに壊れた建物が道路をふさぎ 行き先々で行く手を阻まれて立ち往生したことを思い出す。

2011.3.11 東日本大震災は お昼のことだったが テレビのニュースで知ったあの津波の恐ろしさには 絶句するばかりだった。海から街の路地に向かって 建物も車も人も 何もかも飲み込みながら押し寄せてくる津波の恐ろしさに 世の中にこんな恐ろしいことがあるのか 目を疑るが現実だった。こちらの被災は あの恐ろしい神戸の大震災を なおはるかに上回った。

あれから19年たった今 御影の叔母たちは 今は何もなかったかのようにふるまっていてくれるが 心の中はどんなに恐ろしい記憶が今も疼いていることだろう。神戸の街は 外目には いつもおしゃれで 震災の傷跡は目につかない。しかし 自然災害の恐怖が現実に起こり その災害に飲まれて 今も苦しみの中にある多くの人々。家族を失って 今もそのつらさから抜け出せられない多くの人々、痛みに打ちひしがれている人々のことを 忘れてはいけない。あの恐ろしい出来事を決して風化させてはならない。

19年目の今日 テレビで あれからのつらい日々を映し出している。せめて その人たちのこころに思いをはせて その苦しみに寄り添って  そのつらさを分かち合いたい。

 


ごちそうさん-半襟の美しさ

2014-01-07 11:59:16 | 思うこと

NHKの朝ドラの 「ごちそうさん」は 久しぶりにおもしろい。やっぱり関西人は 大阪局制作のものが性に合う。別に 毎朝真剣に見ているわけではないが テレビをつけるのが癖になっていて 台所に入るとすぐテレビをつけてしまうのだ。西門家の長女和枝の「いけず」に はらはらしながらも 「ここまでやるか~」と面白かった。

ストーリーも楽しみだが 登場してくる人たちの和服姿の半襟 これが実に美しい。mamioさんに教えていただいてから 特に注意して見るようになったのだが どれも刺繍が美しく、とてもおしゃれだ。 着物とよく合っていて素晴らしい。私はこんな立派な半襟は一枚も持っていないけれど 和服の美しさをつくづく思う。和食もいいし 和服もいいし 日本の文化も素敵ですねぇ。


お正月というものは

2014-01-02 14:14:54 | 思うこと

罪なものである。

テレビでは 「家族、家族」 と騒ぎ立てるが 家族のいない人も多い。  連れ合いが先だった人、結婚していない人、子供がいても帰省しないところもある。 そういう人たちは 正月準備一色の暮れの過ごし方は やるせないことだろう。 そうでなくとも 独りぼっちになったとき 周りが 「家族! 家族!」 の大合唱の中では どんなに寂しい思いをするだろう。  少なくとも私が独りぼっちになったときや 子供が帰ってこないときは たまらなく寂しいような気がするお正月。 ガラス戸越しに見る自宅の周辺でも あまり人が行き来することもなく なにかうすら寂しい。「らくでいいやん!」 とはいうけれど 気にせず自分の生活をしたらいいのだが 普段の生活と言っても パソコンを触るのも テレビを見るのも さほど楽しいものがない。元気な間は せいぜい 野山に出かけることにするか・・・・・

かくいう我が家では 昨日は 次男家族が全員で来てくれたが 長男のお嫁さんは来ない。  友人は「気を使う人がいなくて最高やん!」 というが 心の中は複雑なものがある。

世の中 自分が正しいと思う道を歩いてきたのに どうにもならないつらいことに遭遇する。「なぜ?」と悩み 自分を責めてうつ病になり さまざまな病気まで引き起こす。  これ以上耐えられないと思ったとき もう考えるのはやめにし、いろんなしがらみをすてて 毎日毎日を 自分なりに一生懸命生きることにだけ専心することにした。  それでなくても 高齢になって お医者さん通いが増えてくる。先を心配せずに 今日一日を 元気で過ごせるように 年の初めに当たって祈る。 


雨宿り・・・「止まない雨はない」

2013-11-04 15:29:42 | 思うこと

昨夜来よく降ったが 朝には上がってお昼ごろには 時々明るい日差しも見えた。
ちょっとウォーキングを と思って出かけたら 30分ほどたった頃 ポツリポツリと雨粒が顔に当たった。
天気予報では 午後は晴れてくるということだったので 心配はしなかったのに あっという間に本降りになった。
傘はないので 仕方なく 雨宿りするところを探した。
住宅地のはずれの 山道だったが 近くに市の小さなグランドがあったので そこに逃げ込んだ。
最初は うっそうと茂る木の下まで雨は落ちてこなかったが 次第に強くなり たまたま開いていたグランドの中の小屋根の下で雨の止むのを待った。土砂降りの雨がグランドを叩き付けて 見る間に流れになっていった。
いつになったら止むのだろう。
周りは山の中で その山に霧がどんどん流れるが 頭上の黒雲は一向に通り過ぎる気配はなかった。
腰を下ろすところもなかったが 「止まない雨はないだろう」と グランドの水たまりに激しく輪を描く雨を見つめていた。30分ほどたつと 雨足は細くなり 心なしかあたりが明るくなってきた。
幸い帽子をかぶっていたので 首にかけていたカメラを首からセーターの中にいれ 高台にある自宅へ帰ることにした。

この夏 白馬方面に出かけたとき 標高2000メートルの山中で 「この調子だと険しい山道を明るいうちに山小屋まで行くのは無理」と判断して 野宿することを決断した。この時も雨と風が吹き がたがたと震えるなか「明けない夜はない」し「止まない雨もない」と夜明けを待った。
「明けない夜はない」 これからも 困難に出会ったとき この言葉を胸に希望を見つけて乗り越えていきたいと思う。

帰宅したら 家人は留守で 車もなかったが 玄関の鍵はあいていたので助かった。
さては どこかへ探しに出たなぁ・・・・と思ったが 行き先も告げずに出ているのに どこへ行ったんだろう?
しばらくすると タオルと毛布を手にして帰ってきた。
「止まない雨はないのだから」と一言。(すみません。)


白神山地について思う

2013-11-02 06:35:26 | 思うこと

今秋 念願だった白神山地を旅した。

世界自然遺産に登録されたのは 1993年のことだ。
なぜか「ブナの森」というのは憧れ的な思いがあるが 若い頃 北アルプスを歩いたときにもブナの森はあったのに それほどまでにブナに深い思いを寄せていなかったように思う。
たぶん 白神山地の登録が一気に「ブナの森」への思いを高めたのだろう。
立山の中腹 大山の山裾 白山の山裾 尾瀬などで大規模なブナの森を見て 胸が躍った。
以前から 和泉葛城山頂付近にあるぶなの森はよく知られていたが そこに行ってもそれほど感動した覚えはない。
金剛山によく登るようになって 山頂部にぶな林があるのを認識して 身近なところにある「ぶなの森]をうれしく思った。
テレビなどで ブナの森の自然の豊かさを知るにつけ ブナへの憧れはいっそう深まった。
滴る水 森に咲く花 森に住む動物や鳥、魚。山に生える山菜やきのこ。そんな中で森と一体になって過ごしたいと思った。
京都の芦生へ行ったとき そのみずみずしいブナの森、かぐわしい木々 その中に咲く花 山をオレンジ色に染める紅葉 豊かな沢に魅せられた。夢は膨らみ 秋田県の森吉山の深い森を歩いた。どれもこれも ほんのちょっぴりぶなの森に触れたに過ぎない程度だ。
今回は 「世界遺産の白神山地へ行く」と、どれほど胸ときめかせたことだろう。
ところが安い飛行機で仙台まで行ったものの 白神は遠い。現地で本当の森を歩くには 4泊5日の旅行など観光旅行でしかありえなかった。体力がなく、歩くにも時間がかかり過ぎることも大きい。

夢に描いていた白神なのに 二つ森の山は 山頂近くまで広い林道が整備され 見晴らしのいい明るい山だった。秋田県側は 過去に伐採目的で 県境付近までほとんどブナの森が切り倒され 遠くまで見渡す明るい道路になってしまっていた。
十二湖の森は ブナの原生林 カツラ トチ ミズナラ などなど 奥深いしっとりとした森だったが 森の中はずーっと遊歩道が整備されていて 原生林のイメージからは程遠かった。暗門の滝などは 滝までの道がほとんどコンクリートが敷かれ 観光地だった。白神ラインから見る白神はブナの森がずーっと広がっていたが 車を降りて森の中をゆっくり楽しむには とても時間がなかった。

帰ってから 白神山地について書かれた本を何冊も読んだ。
春の山、夏の山、秋の山、渓流、などを杣人の歩いた道を探しながら楽しむには その地に住み、少しづつ慣れ親しまないと 初めて行ってめくらめっぽう歩いたところで 危険なだけで何の喜びも得られない。
しばしばたずねるには、白神は遠すぎる。もう体力も時間もない。
本を読んで その世界に思いをはせることにしよう。 豊かな自然がいつの時代までも守り継がれますように。
そして 豊かな自然を あまり観光客目当ての商品にしないでほしいと願う。