ここのところ 連れ合いの体調が悪く しばらくblogをお休みさせていただきます。 また 再開できるかどうかわかりませんが 今までの御厚情を感謝します。 ありがとうございました。 また再開できる日が来ればいいのですが その節はよろしくお願いいたします。
いよいよ押し詰まりました。今年は寒いといっても 例年の寒さとは大違い。動きやすくて助かりますが、地球温暖化の影響と思えば喜ぶわけにはいきません。
年賀状を作るのも 大儀な年齢になりました。 イメージがわかずに、まだほとんど出来ていません。今から作ろうと思っていますが 元旦には間に合わなかったらお許しくださいね。
お正月にはやっぱり子供たちが孫を連れて 老親の様子を見に帰ってきてほしいとおもいます。 慣れていないせいもあるのでしょうが お正月は老夫婦二人っきりで過ごすのは寂しすぎるのです。 年を取るということは 寂しく辛いことが増えてくるということですね。そのためにも 連れ合いがいつまでも元気でいてほしいのですが そうでもない日が迫っています。まあ 現実を受け入れて、助け合って過ごしたいと思います。(口で言うのは簡単ですが 現実は喧嘩ばかりを重ねています。) 明日25日は 連れ合いの81歳の誕生日。また1年頑張ってくださいね。
今年もお正月料理は手作りで。 例年同じようなものですが みんなが揃うことを楽しみに準備しましょう。
毎年 今頃になると 山へ「フユイチゴ」摘みに行きたくなるが 今年はたくさん実をつけているところが思いつかなくて 出かける予定はない。(本当は行きたいんだが・・・・) 甘いもの好きの連れ合いは 朝食に必ず甘いジャムがほしいので 年中 出回る果物でジャムを作る。野生の果実では フユイチゴは 真っ赤な果実が とてもきれいなジャムを作る。 モミジイチゴのオレンジ色はあまりきれいな色に出来なかった。 野生のベリーは 採取するのがとても面倒だが楽しいひと時でもある。
昨日 知り合いの菜園で出来た人参を下さった。家にたくさんの人参の買置きがあったので古くなる前にジャムにすることを思いついた。出来上った人参ジャム。とてもきれいな色で 健康によいのはまちがいないだろう。 これはいいものができた。 おいしいです。
師走も12日というのに 気温は高く まだ晩秋といった感じがする。それでも お正月まであと2週間と少し。用意しておかねばならない買い物のために外に出る。 今年は紅葉が早く始まったように思ったが 今落葉樹は茶色になって セピアの世界を作っている。これはこれでいいものだ。私はケヤキの黄葉が好きだが ここの住宅の周りには見られない。なかなか 樹を見ても名前のわかるものは少ないが コナラ や クヌギ カシの木の仲間がおおい。晩秋のような セピア色の世界も素敵だ
背後は金剛山です
野山を散策するようになって ガガイモ科の植物を知った。
ガガイモ、コカモメヅル、オオカモメヅル、イケマ、コイケマ、スズサイコ キジョラン、フナバラソウ、クサナギオゴケ、等々があるが いずれも 花はとても小さいのに 種は花の数倍から10倍ぐらいの大きさになり 先端がとがって細長い鉄砲の玉のような形になり 晩秋になってそれがはじけると まるで老婆の白髪のようなふわふわの種ができる。 キジョランは その種の様子から 「鬼女ラン」と名付けられた。
フナバラソウの花(2015.6.4) と 果実(2014.10.4)
今年秋 ガガイモ科の「フウセントウワタ」の切り花をもらった。これは園芸の植物だが お花もとてもかわいく 生け花にしてしばらく楽しんだが そのあとドライフラワーにしておいたら その実がはじけて真っ白な種が出てきた。絹のようなつややかな果実です。面白いですね。
フウセントウワタの花と実
フウセントウワタがはじけたら ビックリポン!
☆ おまけ・・・ 実りの秋 果実特集です
野山でみられるスズメウリもかわいいけれど 友人にもらった「オキナワスズメウリ」 この頃 よその庭先でときどき見かけることがありますが おもちゃのようなかわいい果実ですね
左「スズメウリ」果実 と 右「オキナワスズメウリ」 ほぼ実物大です
思い出話をもうすこし
私が初めて 劔岳・立山に行ったのは 22歳の夏だった。そのとき出会ったのが内蔵助山荘でアルバイトをしていた若い青年達だった。私は友人と二人連れだった。その小屋で楽しいひと時を過ごし それから、何回も内蔵助山荘に行くことになった。小屋の親父さん佐伯利雄さんは 立山の麓にあるガイドの村芦峅寺(あしくらじ)の人で熊打ちの名人だった。お尻にはいつもカモシカの皮をぶら下げておられた。 立山にある山小屋の経営者は 芦峅の人が多く 立山信仰で麓から立山に案内した芦峅ガイドと呼ばれた。ネットに五十嶋一晃氏の書かれた文献「芦峅ガイドの系譜」がある もちろん ケーブルもバスもない時代の話である。 第1次南極観測隊のメンバーに芦峅寺から4名、越冬隊には佐伯富男氏が選ばれて活躍された。芦峅寺の住民1000人のうち2/3は佐伯姓、1/3は志鷹姓で占められているそうだ。だから 南極観測隊に参加した芦峅寺の5人はみな佐伯さんである。そんな立山ガイドの中でも「剱の文蔵」と呼ばれる人がいた。 剱沢小屋の親父さんで 私の知っている文蔵さんは 小屋の周りで腕を組んで登山者を見守るようにぶらぶらしておられた。
ある年の秋 私たちは室堂に着くなり近くにあった「山岳救助隊」の詰所に寄ったら、入口に大きな板が立てかけられ その板にその前日仕留めたツキノワグマの毛皮が貼り付けにされて干してあった。 それが2つあった。中では内蔵助山荘の志鷹三義氏 佐伯文蔵氏 警備隊長の神保氏が 迎えてくださった。 中に入ると 部屋の中にはロープが張られ そのロープには真っ黒な「熊の胆」が二つ、ひもでぶら下げられていた。(熊の胆は 1g1万円という高価なものである) そして 部屋の真ん中の大鍋で「熊鍋」がぐつぐつ煮えているところだった。 もちろん 熊鍋をごちそうになって その晩はそこに泊めてもらった。
左 佐伯文蔵氏 右 志鷹三義氏
志鷹三義さんとは 早朝の人気のない上高地でばったり会ったこともあった。あれは 穂高から槍へ縦走せんと 上高地についたばかりのことだった。志鷹氏は長靴姿で 長野県へ視察に来ておられたとのことだったが その偶然にびっくりした。
また あるとき 女性3人で有峰湖畔の折立から 太郎兵衛平に向かった。リュックには 簡単な毛バリの付いた竹の釣り竿、わらじ、ザイルをくくりつけていた。すれ違う人は 若い娘が釣竿を背中に山に向かうのをいぶかしがったが 私たちは意気揚々だった。翌日 薬師沢から黒部上の廊下をさかのぼって行った。水の流れは速く 膝上まで水につかりながら 3人でしっかりロープにつかまって 右岸、左岸と渡渉しながら赤木沢まで行った。釣りなどほとんどしたことがない私たちだった。ガイドブックでは イワナは警戒心が強いので 必ず川下からそーっと行って針を投げ入れるようにと書いてあったが 深いトロには イワナがうじゃうじゃ見える。1時間で10匹ばかり釣り上げ 薬師沢小屋付近までもどり 川原に居合わせた東京の青年と一緒に火をおこしイワナを塩焼きにして食べた。小屋に行くと知り合いの立山ガイドがいて イワナの骨酒までごちそうになって イワナ尽くしの山旅だった。
いろいろと楽しい思い出はいっぱいある。 小学4年と1年の子供を連れて 剱岳を目指した。 カニのたてばいの岩場に打たれた鉄のくさびの間隔が大きくて 6歳の子供にとっては 頭上のボルトにぶら下がるようにしながら 上へ上へと登って行った。 母親に連れられて 小学1年生で剣岳を極めたのは記録的なことだったかもしれない。帰りが遅くなって 小屋の人を心配させたものだ。 思えば 無謀なことばかりしてきたように思う。 お世話になった人々は 今は皆亡くなられてしまったが しかし なんと人との繋がりの深い のんびりとした山旅だったことだろう。
もう山登りはできないが 心に山があるというのは幸せである。
最近NHKで 写真家田淵行男氏が何度も放映された。田淵行男氏は 山岳写真家の草分けだ。 安曇野を愛し 北アルプスを愛し ことに常念山脈での高山蝶を愛された写真家で もう25年も前に83歳で亡くなられたが 岳人には知られた人だ。 その人のことがドラマ化して放映された。
私も昔一度ばかり奥穂高への道でお会いしたことがある。 まだ20歳そこそこのことで 友人と二人涸沢からザイテングラードを上っていた時のことだ。背中のキスリングに トレードマークがついていたので 「アッ!田淵さんだ!」と声を上げた。手にしていたブルーガイドブックは 彼の著書で エッセイに導かれる写真集といっていいほど 写真で行く手をガイドしてくれていた。今もその時サインしてもらったガイドブックが本棚に並んでいる。 もちろんそれは すべて白黒写真です。白黒写真って 迫力があっていいですね。
ネット画像より
田淵さんの写真集は 今では古書店でもなかなか手に入らないものですが 私は1冊持っているのです。 素晴らしい写真ばかりです。