文豪の墓
三鷹の禅林寺に、妻方の墓があります。正月や盆、彼岸には墓に参ります。今年も元旦に行ってきました。禅林寺には、太宰治と森鴎外の墓があります。
通りひとつ隔てた、はす向かいのほうに、この二人の墓があります。妻方の墓とは通りは違いますが、直線の距離にして数メートルの所。たまにちょっと迂回して、この二人の墓の前を通って帰ります。今年の元旦は、太宰の墓はまだ花も少なく、酒もありませんでした。酒というのは、カップ酒や缶ビール、小さな壜酒、たまに一升瓶などで、酒好きな太宰に読者ファンが煙草なんかといっしょに墓前に置いていくのです。さすがに、正月前に墓の管理者が片付けたのでしょう。そんな墓の前で、一人のカメラマンが墓碑にカメラを向けていました。プロ、アマに限らず、こうして写真を撮っていくのも珍しくありません。
太宰の墓のはす向かいには、案外知られていない鴎外の墓があります。こちらは、どちらかと言うと少々いかめしく、ご立派で、どこか明治の邸宅を思わせるような風格です。作品や生涯に合わせたかのように、ちょっと荘厳さがあるように見えます。ふだんでも、太宰ほどには花は多くなく、ひそかに香が焚かれていたりします。この二人の墓が、斜めに互いに向かい合っているのです。
(寺の境内のほうには、鴎外の遺言碑が建っています。文学作品として吟味したように、遺す言葉も名文です。)
墓と作品
太宰も鴎外も、小学・中学の国語の教科書に載っていました(私の時はそうでした。今も載っているかどうか?)。ですから、これら文豪の作品は否応でも読んでいました。十年後、文学を本格的に勉強する段になって、改めて読んだことがあります。鴎外の文章は確かに格調高く、まじめで、芸術性も高い。すべて読んだわけではありませんが、『高瀬舟』『山椒大夫』(さんしょうだゆう)など、いわゆる定番作品が意外と、と言っては私なんかの分際で言うのもなんですが、それなりに評価の高い名作であることが再認識でき、読んで感銘を受けました。
太宰治は、『人間失格』『斜陽』でしょう。熱烈な読者には異論もあろうかと思いますが・・・。このあたりの作品の文章は、たいしたものだと思います(『津軽』もいいです)。これまた意外にも、と書くと、また怒られますが、教科書定番の『走れメロス』は、大人になって読んでも、いや、大人になって読んでこそ感動します。
それと、印象深いのは短編『トカトントン』。学生時代に読んだ記憶なので、違って解釈しているかもしれませんが、敗戦後の日常生活に戻っている中で、ふとした拍子に「トカトントン」という音が聞こえてくるという主人公の、なんというか、人生の虚無感っぽい作品がなぜか気になって、忘れられないで残っています。打ちひしがれた意識の奥底から突然蘇ってくる虚無の怖ろしい音。ひとたび大きな挫折や無力を経験した人は、それを克服しない限りふいにやってくる音。トカトントン、トカトントントン、トカトントン・・・。
玉川上水に二度も身を投げた太宰の墓は、その人と作品に見られるように、一見奔放で人間臭く、デカダン的でちょっとだらしないのかと思うに反して、ちゃんとした普通並みの墓なのです。そういえば、今年は太宰治生誕百年だそうで、6月19日の桜桃忌は、このお墓の前はさぞかし盛大に、供養の花や桜桃(さくらんぼ)、お酒でいっぱいに埋まることでしょう。
お時間ある方、ぜひ立ち寄って拝んでいってください。その時、ちょっと斜めに振り返って、森鴎外の墓にも掌を合わせみたらいかがでしょうか。