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春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

侠客、大前田栄五郎、欄間に惚れて!

2018-07-18 22:59:08 | 社寺


向日葵は、太陽を追いかけるけど
今、あしたも、明後日も、太陽は隠れてほしい!
「外に出るな」と、忠実に忠告を守れば、
1メートル四方で、頭カキカキ!

食事は喉を通らず、すきっ腹、
暑さの八つ当たりする物もかすみ、
外の景色を眺める勇気も湧かない。

ただ、ただ、涼しくても気分はぐったり。

群馬、赤城山に登る道、苗ケ島に金剛寺があって、
1761年前橋の大火で延焼した後、建てられたお寺。
地元で育った侠客「大前田栄五郎」の菩提寺でもあるけど、
1771年、文治郎は息子千治と松治、星野新次郎、黒田喜太郎らは、
檀家が造った、掘っ立て小屋に着く。
赤城山から流れる沢の水音は、
禊をしてから鑿を入れる文治郎をいい気分にさせる。

完成した1773年、8つの欄間は、
中国の故事、唐子遊びを題材にしたもの。
息子千治と松治は、仕出として使い走っしり。
43歳、関口文治郎有信は御公儀御棟梁の肩書を持っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


天井の花鳥図は、前橋藩士であり又御抱画師、
森東渓の次男、森霞巌の筆👇


 

 

 

 

 

 

 

 

 写真 2018.7.16 前橋・金剛寺 ※花は別な日

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半分、眠ってます!

2018-07-16 23:08:08 | Extra

 

写真、部屋の中で撮っているときは、いい。
外に出て、どこを撮ろうかと歩いた5分くらい、
カメラのボディーが、卵を焼いたフライパンのよう、
アッチチ!


群馬、前橋から伊勢崎、38度を超え、
前橋、金剛寺ではカブトムシが熱中症で治療を受ける前に道路で、ダウン!
実際そうかは、わからないけど、
ひっくり返っているのを見ていると、
みんな熱中症ではないかと、
葉っぱに乗せて供養。


そんな今日。
早めに寝ることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あつい。

2018-07-15 23:37:15 | Extra

 

暑いというより熱い。
予報、東京より高温になる群馬を訪れていて、
待ち合せの箕郷町の神主さん、一仕事を終えて戻って来ました。
車、境内に入れるなり、バック、前進、またバック、自宅の玄関前まで、
そのスピード、穏やかではない。
車から荷物をだし終えて、ゆっくりお話を・・・・。
その顔つき、もう熱中症状、足元フラフラだった。
私は疑問が解けて、すっきり。
けれど、人には言えない。

どこまで続くのこの暑さ。
心配していた被災地の不幸、
猛暑、休めるところも無く倒れるのも、
人が造ったといえなくない、天災のあおり。
年齢だけなら、私も黙って心配され、無力と揶揄される。
そんな私でも、日陰で涼みたい。
議事堂はクーラーがあるからいいけど、
日陰で人いきれの中の人たちは、どこで涼をとるのだろう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真 2018.7.15 榛名山 ユウスゲの道

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疳の虫、木鼻の龍鼻にひっくり返る、文治郎

2018-07-12 20:09:47 | 社寺


江戸で公儀彫物師、徳川家御用務めた高松又八郎邦教の愛弟子だった、
異才石原吟八郎が亡くなったのは1767年。

日光東照宮の修復を手掛ける又八郎の仕出として、
又八に可愛がられ、
息子吟八、
星野政八、小倉弥八、大塚三次郎、
石原常八郎、前原藤次郎、高瀬万之助、
文治郎らに技を伝え、
妻沼聖天堂で病に臥せってから、

鑿をふるうことは無かった吟八郎。

日光東照宮から関東特有の彫りは
上州花輪集団の彫師に代々、引き継がれ参拝者の目、今は点。

吟八郎が亡くなる2年前から若御子神社彫り始めた、
山名(高崎)八幡宮、
文治郎が、息子千次郎の嫉妬を背で受けて、
これぞ「跡目の彫師」と認めた福田源治郎。
以後、並木源治の名で、足跡を残す。

1769年6月14日
文治郎39歳、
勢多(高崎)山名の荒れ地、烏川の傍に、
「木鼻の龍鼻」が出来上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、へまをするわけで、脇障子、文治郎の作のファイルがないわけで・・・。

 

 

 

 

 

 

写真 2018.6.18 高崎市山名八幡宮

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藤岡「秋葉神社」・剣客と戦う文治郎

2018-07-11 01:30:22 | 社寺

 

1780年、50歳文治郎は11月14日、箕輪村の「不動寺」の欄間を彫り上げると、
息子、仙次郎と松次郎とともに、一旦は上田沢に戻り、
そこで2人に給金を渡し、文治郎はすぐ、藤岡の「秋葉神社」に向かう。
「秋葉神社」の大工、斎藤新蔵が手掛けてから30余年が経っている。
幾度の中断を経て、完成がまもなく、文治郎が弟子の中で最も腕を買った、
福田源治郎が最後の仕上げに、鑿をふるっている。
文治郎には「秋葉神社」に特別な思い入れがある。
「護身法印相」の免許皆伝を持つ文治郎、
鑿の腕も立つが、護身法のほかに、忍びの技も得意で、
人間同士の戦いにも腕が経つ。
本尊は、剣客、腕は立つが遠州秋葉権現の霊夢に感じた、
内藤鎮心が彫ったもの。
その話に意気を自分に置き換えていた。
20年前、武州秩父の「三峰神社」で11面観音を、彫っている。

意気は、文治郎、11月16日前橋の大火482軒の焼失の騒ぎも、

耳の後ろにおいて、粉雪舞う榛名の山を仰いで、
大間々から伊勢崎の街道を急ぐ。

12月20日、
最後の向拝紅陵の雌雄の龍を仕上げて、見上げる文治郎、

鑿の鋭さに、内藤鎮心と対等に戦えたと思った!

剣客内藤鎮心が空を見上げる、向拝紅陵の彫り👇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真 2018.7.9 藤岡「秋葉神社」

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熱田神社、50里文治郎鑿を背負って

2018-07-09 23:57:09 | 社寺


信濃,長野県も雨が降り、美和ダムも高遠ダムも放水していて、
観ていると、今回の災害がフラッシュバックする。

 


伊那長谷村の百数十戸の氏子が3最高の宮作りたいと300両の大金を集めた。
33歳文治郎は、10年前、妻沼の聖天宮で仕事をした、
宮大工棟梁、林兵庫守正清の門人、武州の池上善八郎のたっての願いで、
黒保根村から50里200キロ離れた、信濃国伊那に金井村の善蔵と出向いた。
文治郎の師匠石原吟八郎は、このころ、病気で伏すことが多く。、
50里の道中に耐えられなかった。

気っぷの良さ、度胸の良さ、道中、山賊をも後ずさりさせた文治郎、
滝に打たれて、鑿を研ぐ。
近所の協力を得て、熱田神社の裏山、フェンスで入山禁止の近くに、
滝らしいと段差、堰堤になっているが勝手にここで禊をしたのでは・と。(後日)
この神社が国の重要文化財になるとは、
文治郎まさか思いも・・・・。


 

 

 

 

 

文治郎の障子。板の木目を生かした秀作。👇

 

 

 

 

 

 

 


いつも猫が現れる。

 

 

写真 2018.7.8 長野県伊那市

 

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早く 探して。

2018-07-07 23:55:23 | Extra

 

 

を握って投げ合ったガキの頃の遊び、
投げる前につぶれて、頭からかぶった泥
を持たず雨宿りして、入れと言われて彼女の傘で、
ドキドキした日。

そんなもんじゃないんだ、ね、
雨と泥土で、生活を一変させて、
国の半分だよ、変わったのは、
八王子だってテレビを抱えるほどの地震があって、
天変地異、来るなら来いと、開き直りなど、
報道を見ていたら、とても言えない。
犠牲になる一瞬、思えば切ないね、
悔しいね!
生きたい、大声も上げられなかったろうに。
早く探して、速く。

 

 

 

 

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はまなす。

2018-07-05 16:38:47 | Extra

 

シラサギカヤツリ、教えてもらった名前。
あのシラサギカヤツリ、どうなったでしょう?

雨、まだ続くと・・・、家にいても、
外に出ればなおさら、心配尽きないでしょう。
被害はないか、買い物は出来るか、食べているか・・。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

2018.7.3 箱根

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文治郎のデビューは、極彩色で。

2018-07-04 20:53:09 | 社寺

 

 関口文治郎が、妻沼の歓喜院に師匠石原吟八郎と、
10里の道を急いだのは1750(推定)19歳の時。
すでに、吟八郎の兄弟分、吉田茂八の弟子、
のち江戸で名を残した、後藤茂右衛門や小沢五右衛門は、
境内の掘っ立て小屋で、汗を流し、鑿を打ち込んでいた。

1670年妻沼大火で失った聖天堂の再建は、
1735年から
妻沼の宮大工、名工林兵庫正清が一世を懸けていた仕事である。

吟八郎が鑿を入れ、文治郎は仕出に精を出していたのだが、
徐々に吟治郎が病に冒され、鑿は文治郎があずかることに。
文治郎はここから始まる。

まさか2012年、彩色、ピカピカで「国宝」になるとは、思いもせず、
文治郎この後は、極彩色を好まなかったのだけど・・・

左甚五郎の作と言い伝えられる「鷹と猿」は、
れっきとした文治郎の作。👇

 

 

 

小沢五右衛門の作が、文治郎の作☝ の長押の上に👇


吟八郎の兄弟部の弟子、後藤茂右衛門が、👇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真 2018.6.17 埼玉県妻沼聖天堂

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宿稲荷・明治は間もなくそこに・・。

2018-07-01 20:28:59 | 社寺

 

 

 

文治郎が亡くなって、江戸後期、
文治郎の兄弟分、石原常八郎の弟子たちは、
自由闊達な想像力を、鑿の刃先に渾身の力を加えている。
材質も、ぜいたくに厚い板に彫り込んだ重厚感に、
一点一点に早まる鼓動を抑えきれない。

『一見の価値あり」と教えてもらい、
現地着けば、ちょっとがっかりして引き上げた、
高崎市柏木沢「不動寺」の近く。

石原常八稚一家の彫り物が、あるとは知らず、
榛名神社で始まり、榛名神社で終わる、今回、
教えてもらわなければ、生涯見ることは無かったかもしれない。

彫師は石原常八一家、黒保根花輪の彫刻師集団。
石原吟八作と間違えてコメントし、
鳥居では真夏の天気に加えて、緊張感で鼓動が、ドッキンドッキン、
彫り物、見上げれば暑さ忘れるほどの、
「宿稲荷」が 👇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「きょうは、大満足だった、なッ?」
「ウン!」

 

写真 2018.6.30 高崎柏木沢

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