ワイン造りがギリシャに到達し、フェニキア人と共にギリシャ人の地中海沿岸への植民活動が始まります。そこから地中海沿岸に一気にワイン生産が広がります。ワインが重要な交易品だったからです。
紀元前753年にローマが建国されます。前後して市民を中心にした都市が出現します。互いの都市は商売の競争相手ですから、力と力のぶつかり合いは必然的に起こります。その中から派遣国になったのがローマだと思っています。そのローマが負けた集団へ略奪の限りを尽くしたのかと、言われれば信仰の自由、生活習慣、風俗はそのままに同化はしても略奪はなかったと思っています。ただし、ローマ人物語の中に書かれてあることを参照すると、ですが。
私は塩野七生著「ローマ人物語」を参考文献の一つにしています。この本の感想を言えば。定住をしないガリア人がブドウ栽培をしていたとは考えづらく。ガリアがローマの属州化をされ、ローマ市民権を得たのち、定住をするようになり採取狩猟から農業へと生活の糧得る方法が変化した。以前から交易品としてあったワインをローマ兵から引き継ぐ形で醸造を始める。こう考えることが自然であると私は思っています。何も紀元前からガリア人がワインを造っていなくてもいいと思うのですが。ギリシャからローマ、そして、ガリアへと伝わるワイン造りを快く思わないと、しか、思えません。
このような歴史感と符合するのが、ケルト文化につて書かれた本です。著者は忘れました。ここではローマ人を強欲な民族であり、ケルトをブリタニアまで追い詰めた侵略者として取り上げています。その事は見解の違いなので問題はないのですが。ケルト人について戦いを好まず平和で優しい人達であると際立たせるには、効果があると思います。しかし、塩野七生さんが言うところのパスクロマーナの意味していること考えると、ああそうですかと納得は出来ないと考えています。
なぜ、この世界に足を踏み入れる時にイタリアを選んだのか、確たる確証が在った訳ではなく、イタリアワインにシンパシーを強く感じたからです。イタリア的な何かに音叉のように共鳴したからです。20数年前に最初のイタリア旅行の時に感じた、一般論で語られるイタリア人と現実に合い対したイタリア人の気質の間には大きなギャップがあり。むしろ、その時にワインを通して感じたシンパシーが確信めいたものに変化した一瞬でした。その後の、塩野七生さんのイタリア関連の著書を読んでいくと、今まで言葉にならなかったことが文字になっていました。
私が語れるのは、たかだか飲み食いの話です。単純にイタリアワインのオタクです。嫌いだと書かれるのはいいとして、事実なり、歴史を歪曲されることはとても悲しいことです。。
続く。
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