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伝統と味わい楽しむ 土濱笑店で「食の勉強会」

2017-07-25 20:39:47 | Diaries
アジアフードビジネス協会 奄美の料理に興味

【東京】一般社団法人アジアフードビジネス協会(田中秋人理事長)はこのほど、渋谷区の奄美料理店で「食の勉強会」を開催した。参加者たちは「島みその3点盛り」「鶏飯」などの島料理を味わいがら活発な意見交換を行った。

 同協会は4年ほど前、食をキーワードに「アジアに進出する企業をサポートすること」(渡辺幹夫理事)を主な目的に設立・食と健康とは密接な関係にあることから、「はやっている居酒屋などをディスカッションしやすい人数の10人全戸で訪れ、食の課題を見いだす」という。
 3ヶ月に1度のペースで行われる勉強会。今回は、同協会事務局次長でお好み焼き千房経営企画室・橘川昭夫さんと交流のある、喜界島出身で東京奄美会青年副部長・原田尚樹さんのはからいで実現した。
 舞台は奄美琉球居酒屋「土濱笑店」(渋谷区神南町12-4アーガス神泉ビル2階)。お好み焼き千房直営統括本部部長・源氏雄三さん、千房ぷれじでんと広尾店店長・原敬規さんら「食のプロ」も奄美料理に興味があるとのことで参加した。
 ほかに、インターネットホームページの企画制作などのイデア代表取締役・村上桂子さん、デザイン・スマホアプリんの光雅代表取締役・小川和男さんら業種を超えた人っちが顔をそろえた。また、喜界島出身で東京農大副学長の豊原秀和さんも出席。「ワンフネ」などの料理を解説、メンバーは奄美の伝統と味わいを楽しんでいた。
 今年の夏はハワイに行く計画だったが、今回の勉強会に参加し、奄美に興味を持ち、行き先を変更する参加者も。なかには、奄美を初めて訪れる予定の人もいて情報を仕入れていた。
 「土濱笑店」は、土濱あかりさん(奄美大島・笠利町出身)が2009年にオープン。奄美出身のアーティストや黒糖焼酎のラベルが壁を埋め尽くしている人気店。健康長寿のもと・奄美料理と黒糖焼酎を堪能しながら参加者たちは、奄美に思いをはせ鋭気を養っていた。



奄美新聞 2017年(平成29年)7月25日 火曜日 (8)
http://amamishimbun.co.jp/index.php?QBlog-20170724-2
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一般財団法人アジアフードビジネス協会

交流勉強会案内
2017年度AFBA 第18回交流勉強会のご案内
日時など

【日 時】2017年7月10日(月)18時00分~20時00分
【会 場】土濱笑店
 〒150-0045 東京都渋谷区神泉町12-4 アーガス神泉ビル2F  TEL:03-6416-1027
 京王井の頭線【神泉駅】徒歩3分東京メトロ半蔵門線、
 東急田園都市線【渋谷駅】徒歩11分JR山手線【渋谷駅】
 ハチ公口徒歩13分神泉駅から184m
【定 員】10名前後
【締 切】2017年7月3日(月)
 ●主催:一般財団法人アジアフードビジネス協会
 ●参加対象:当協会会員及び同伴者、お気軽にご参加ください。
 ●参加費:5,000円(税込)

開催概要

店舗視察勉強会

「奄美料理を食べながら地域活性を語る」
コーディネーター橘川昭文氏(アジアフードビジネス協会事務局次長千房ホールディングス㈱経営企画室室長)

2018年夏に奄美群島(奄美大島、徳之島、沖縄北部、沖永良部)は、ユネスコ自然遺産への登録を控えています。自然遺産は世界遺産の1/4と少なく、日本では最後の自然遺産ではといわれています。この地域は自然以外にも、長寿でも有名な地域でもあります。豊かな自然と、気候、そしてそこで収穫される食材が長寿を支えているといわれています。
今回はそんな長寿を支えている、奄美の料理を食べながら、今外食で注目されている”健康”への取り組みについて、皆様とざっくばらんに皆様と話し合ってみたいと思います。

唄者 築地俊造自伝 楽しき哉、島唄人生 定価 (税込2,700円)

2017-07-25 15:17:18 | Diaries
第六章 思い出の唄者

天才・上村リカ

 あと、忘れられないのが、上村リカさんね。この人は天才というか、常軌を逸したところのある人でした。まだ生きているんですが、もう表舞台には出て来ませんね。いっときはよく思い出したように電話が来ましたが、最近は電話も来ませんからね。昭和十八年(一九四三年)生まれの笠利の用安の人です。
 小川学夫さんも彼女の唄に魅せられて、二人で一生懸命にチケットなんかをつくって、僕が彼女の着物なんかもつくって、いよいよあと一週間くらいってときに、彼女を呼んで、「あのね、人をひぼうするような唄だけは歌ってくれるなよ」って二人で年を押したんですよ。
 というのは、当時は選挙で徳田虎雄と保岡興治のバトルがあって、彼女は徳田の方に肩入れして、さかんに持ち上げる唄をやっていたわけです。「それをやられたらちょっとマズいな」って思ったものだから、「選挙がらみの唄だけはするなよ」って言ったら、「私はそれを歌うためにあんたたちの話に乗っているんだから、歌うなっていうならもうやらん」ってひとこと言ってオシマイ。もう何を言っても聞かない。そういう人でした。
 とにかく直情型だから、大変なのよ。舞台に出て歌おうとするでしょう。自分の気に食わない人が座っているのが見えたら「もうやらん」って、舞台を降りて帰っちゃうの。
 一度ね、笠利の文化協会か何かの催しで、リカさんんいお願いして歌ってもらったんですよ。
 そしたら、どこまでが本当なのかは分からないけれども、彼女の親の財産なんかを全部買い占めた土地ころがしが会場にいたらしいんですよ。とたんに彼女はその人の悪口を歌い出してね。そっちを見ながら指さして「死ね!」って言うのよ。「しねっこらう!」って言うんですよ。
 そんなことされたら主催者も、もう立つ瀬がないでしょう。「やめろ!」というのに聞かないんですよ。だから僕が抱えて舞台から引きずり降ろしたことがありました。まあ、それでもちゃんと唄にはなっているんだから、その唄作りは見事ですよ。その場その場で、感情をむき出しにしてやるもんだから、説得力があるわけです。
 彼女は、名瀬の小俣町に小さな一軒家を借りて住んでいて、それがあんまりいい家じゃないから、雨漏りがするんですね。そしたら、三味線を持って家主のところに出かけて、まず歌ったのがね、「うちの家主は位が高い、なんのくらいか酒喰らい」って。いい唄でしょう。その次は「なんとかせんと、わきゃ家はバラバラ」って訴えるわけよ。そりゃもう、気に食わなければ何でも言いたい放題なわけです。
 あるとき大島の県立病院に行ったら、医者から「あんたはガンの疑いがある」って言われてね。あんまり「ガンだ、ガンだ」と言うもんだから、医者の前で「蟹よ蟹よ、住用の蟹よ」と「朝花節」の囃子を歌って、怨みたおして帰って来るんですよ。もう始末に終えない。(注:蟹はがんという読み方をする)
 だから純粋っていえば純粋なんだけれども、ちょっと度が過ぎるからね。僕はね、彼女は絶対に奄美のシャーマンのなり損ないなんじゃないかって思うんですよ。何かこう、神がかっているんでね。だから一度、「あんたは巫病だから、一回ユタ様のところに行って、拝んでもらってごらん」って言ったことがある。「いやそうじゃない。自分はまともだ」と言って聞きませんでしたけどね。でも、とにかく唄はすごいのよ。
 あるとき笠利の文化協会から呼ばれて、一緒に歌って、帰りに車に乗ったんです。そしたら、車の中で自分の三味線を出して歌うんですよ。それがうまくてね。「こんな才能があったらどんなに幸せだろうな」と思いましたね。それくらい唄には魅力があった。でも激しいの。気に食わんことは絶対に気に食わんというスタンスだから。
 あるとき、「三味線が壊れた」というので、三味線を張り替えに出したことがある。しばらくして、完成したというので三味線屋に行って、「どれ」と手に取って弾いてみたら、自分の気に入る音じゃなかったのね。そしたらその場で、「おじさん、ちょっとそのナイフ貸してよ」と言って、パッパッと切って、「これダメ」。
 でもね、彼女が本気になって歌い出したら、なんというか、こう髪の毛が逆立つような、そんな感じがするわけよ。本当に。そのくらい魂が入った唄をするんです。
 民謡大会にも最初の頃は出ていましたが、もう唄自体がそういう激しい唄ばかりだから、実力はあったんだけど、優勝とかには縁がなかったですね。そのへんは、審査員もちゃんとわきまえていますからね。せいぜい特別賞とかそういう賞しかもらえませんでした。もう、「審査の基準を超えた特別な存在です」ってことでね。
 僕は彼女の唄が好きだったから、「練習させてくれ」とおだてて、家に呼んでよく歌わせたものですよ。うまかったですよ。家内なんか、もうリカファンでね。「お父さん、唄はあの人のように歌いなさい。あの人は、心がそのまま唄になっているじゃないか」って、よく言っていましたよ。「あれが、ほんとの唄だよ」ってね。そのくらい、ズブの素人が聞いても上手な唄だった。
 彼女の唄を聞かなくなって、もう二、三十年になりますかね。人の悪口を歌わなければよかったんですけれどね。それが悪口を歌うから、感情がムラムラと出てしまう。それが彼女のいいところなんだけど、唄が全部悪口になってしまうんですよ。普通の唄を普通の歌詞で歌ってもけっこういいのに、そこに自分のライバルみたいのがいると、もうダメなんですよね。
 僕が昭和六三年(一九八八年)から毎年公演をしていた東京の「渋谷ジャン・ジャン」というライブハウスにリカさんを連れて行ったときに、東京にいた彼女の妹さんがたまたま聴きに来ていて、「六調」のときに太鼓を持って出て来たことがありました。それを一目見たとたん、リカさんの目から涙が溢れて、泣きながら太鼓を叩いていたのをよく覚えています。話によると、そういう性格だから、妹さんともあまりうまくいってなかったらしい。それが太鼓を持って出て来てくれたんで、嬉しかったんでしょうね。
 とにかく人の言うことを聞かない人でね。沖縄の那覇まつりに出演したときも、同じカサン唄だからと彼女と一緒に舞台に出て「ユイスラ節」を歌おうとしたら、彼女は僕がどんなに頑張っても出せないような、ものすごく高いキーで歌い出したんですよ。「ちょっと待て。唄の掛け合いってのは、二人で歌うんだから、お願いだからもう少し下げて歌ってくれんね」って言ったら、「ダメ」って言うのよね。「それなら先に行ってよ、あんたが先に行って別々に歌えばいいじゃない」って。もう手の施しようがない。でも、その場だけで、後腐れは何もないのよ。そういう人でしたね。 

100ページ~104ページ

 
唄者 築地俊造自伝 楽しき哉、島唄人生

目次
第一章 島唄人生の始まり
第二章 民謡日本一へ
第三章 島唄、海外へ
第四章 失敗談を少々
第五章 あの頃の奄美
第六章 思い出の唄者
第七章 島唄あれこれ
第八章 これからの島唄

◆付録CD◆第2回日本民謡大賞決勝(1979年)の実況録音! 日本一に輝いた「マンコイ節」ほか全7曲を収録。

二〇一七年七月一四日 第一刷発行

著者 築地俊造 梁川英俊
発行者 向原 祥隆
発行所 株式会社 南方新社

著者プロフィール
築地 俊造(つきじ・しゅんぞう)
1934年 鹿児島県大島郡笠利町川上生まれ。1975年 何回日日新聞社主催「第1回奄美新人民謡大会」で優勝、1979年 N.N.S(日本テレビネットワーク)主催「第2回日本民謡大賞」で優勝。日本民謡大賞および内閣総理大臣杯を受賞。民謡日本一となる。1988年以来、「渋谷ジャン・ジャン」等で首都圏でのライブ活動を続け、奄美島唄の普及に努める。1988年「鹿児島県芸能文化奨励賞」受賞、2002年 何回日日新聞社主催「中井文化賞」受賞。2008年 南日本新聞社主催「南日本文化賞」受賞。2013年「鹿児島県民表彰」、2014年「文部科学省地域文化功労者表彰」。2017年4月14日、逝去。

梁川 英俊(やながわ・ひでとし)
1959年 東京生まれ。鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系教授。1988年 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。ケルト諸地域の言語・歴史・文化を主要な研究対象とする一方で、南西諸島、勧告・多島等、ミクロネシア等の島嶼地域の調査・研究にも携わる。


追記
平成二十九年四月十四日、築地俊造さんは逝去されました(享年八十二歳)。
これまでの功績に対する深い感謝の念とともに、心から哀悼の意を表します。 梁川英俊