新笠通信 奄美電信版

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17才の僕の目に何が見えていたか

2017-08-28 11:14:38 | Diaries
高校をそうそうと中退させられた彼が君の通っている高校の近くでよく姿をみせるといううわさでした。

さいしょから高校に行かなかった彼の姿も君の通っている高校のそばでよくみかけるときいていました。


彼の根っこは 高校の先生の指示なんかに従っていられるかというところにあります。起源を持ちます。

そして今でも、高校の教員なんかより自分は優れている、賢い。そういったことは疑いの余地ないことである。そのように思っているのであります。


高等学校といったしくみにコントロールされるつもりがない
高校の文化を受け入れるつもりがない 文化になじむつもりがない
影響を受けるつもりはない 影響を受け入れるつもりはない
指示に従うつもりはない
学ぶつもりはない
言うことをきくつもりはない

高校にいかなかった 学校の先生達をばかにしていた 男の子が 俺の人生つまらないと 暴れています。

あなた 中高校生達が いろんなことを 猛スピードで どんどん上達させていっている様子をまのあたりにすると いつも
おもしろくねえな おもしろくねえな と 顔全体で つぶやいていて、
いつのまにか あなたの立ち居振る舞いすべてが おもしろくねえな と 誰にでも伝わるぐらいにまで
なってきているのよ。

2017年8月25日金曜日のKTS鹿児島テレビ KTSみんなのニュース18:14~ で鹿児島の公立中学校で野球部の監督を続けていた水間先生に各地の教え子が合同して年の祝いをサプライズ開催したことを放送

2017-08-28 09:11:03 | Diaries
1989年、平成元年という年に中学1年生となった私たちは、奄美大島の笠利町の中学校に通うことになり、そこで1年間水間先生に保健体育の授業を受け持たれることになりました。

1年生の時も2年生の時も同じ2階にある教室で、進級時に3学級あったクラス人員の入れ替えで部屋が変わったという人もいました。

2年生の頃にはたばこに火をつける目的で校内に持ち込まれたとみられるライターが忽然と下駄箱、アルミ製の立派なロッカーの上に置かれていたりして、誰も気にとめることなく平然としていたというような状況でした。

当時の中学校は野球部をはじめ、バレーボール部からも剣道部からもたばこの煙が立ち上るという状況で、中でも野球部員からたばこのにおいがするといったことについては群を抜くという感がありました。

彼らは公式戦に出場できない、前提が整わない、スタートラインに立つことすらできないという意味が理解できないまま高校へと進学していくことになりました。

この時期に、授業を放棄せずに継続して出勤して頂いたという点において、笠利町を代表してあいさつされるべき、特筆されることだと思います。

私は教室が荒れていたという事情を知っていたから、誰がこういう子たちの面倒をみるのだろう?誰が好き好んで、こういう子だとわかっているのに、中学校で彼らと向き合おうと考える人間が出てくるのだろう?こういう子ばかりだと知っていたら、誰も教員なんかになりたがらないというのは当然のことではないかと思いました。そう、思えるのです。

何日おきに、いや何時間おきに触法行為が発生している。こうなると連帯責任もなにもあったものではなくて、はなから、最初から、ここは少年院なんだと断念して執務に当たる。さいしょからここは少年院なんだと思っていなければやっていられないようになり、強張っているうちに担当者の構えが看守のそれとなっていきやすいものです。

連帯責任の名の下に全体にダメージを与えたら改善するかと思いきや、なんら効果がみられず、むしろ私の行為で巻き添えにされた人間たちが苦悶している様子を面白がって、おまえらもわたしといっしょに地獄に堕ちろというような悪循環が生じているかのような状況でもありました。

笠利町の失敗とは、こういう報告の失敗、なのではないかと思います。

父親が育児を放棄したというのが先にくるのか、こういう子だから、父が育児を放棄したというのが先なのか、当時の担当者たちは今でもまるでわかっていないのかもしれません。

授業についてこれないからなのか、興味がないからなのか、悪態をつく生徒がいます。
社会に飛びだしていっても、上手にならない、おもしろくない、ことがあるとすぐに悪態をつきます。

上手になるには?面白くなるには?となっていく道しか残されてはいないはずですが、いつまでたってもそれどころではないというところをうろうろしています。

スタートラインのはるか後方で、自分が壊した人間関係、あるいは誰かに壊された人間関係、あるいははじめから壊れていた人間関係に足を引きずられて悶絶しているのです。

どういう人間の巻き添えを受けずに生存競争を生き残る。みんな自分のことで必死、精一杯で、慈善事業の人間であっても自分のところに収容している人間を守らねばならないものだから、どういう人間の巻き添えを受けているどころではないのです。