やみとひかり
光と闇ではどちらが多いと思いますか
最初は光だったと思いますか
最初は闇だったと思いますか
最初は闇だと思います
宇宙は闇でできています
光っている部分は1パーセントにも満たないと思います
光るには光のまわりをまわっていなければ光りません
光るにはまわっていなければなりません
地球が回転していなければ1日中光の世界と1日中闇の世界とでまっぷたつに分かれます
人間社会は闇だと思いますか 光だと思いますか
ほとんどが闇だと思っている人もいます
ほとんどが光だと思っている人もいます
どちらもまちがいです
ほとんどが闇だと思っている人は光の世界を知っているはずです
ほとんどが光だと思っている人は闇の世界を知っているはずです
ふつうに生活をしていたら反対側の世界をみることができません
どちらの世界の指導者も反対側の世界を見させないように近づかせないようにしているからです
光とはどういう世界なのでしょう
闇とはどういう世界なのでしょう
光とは陽があたりっぱなしの世界です
闇とは陽があたらないでい続ける世界です
人間社会は光と闇が交互にやってくるほうがよいのです
人生楽ありゃ苦もあるさということです
よくない世界というのは多くの人が自分だけに陽があたり続けるようにと願う世界です
少しでも多くの人が闇の中でい続けさえすればその人たちの分の陽が自分に余計にあたると考えて間違いないからです
みんなが一生懸命陽があたる状態をキープしようとすれば世界の回転が止まってしまいます
地球の回転をとめて太陽があたる場所を固定するようなことです
人間社会の回転をとめると陽があたっている人と陽があたっていない人とにまっぷたつに2分されます
闇の中にいる大多数の者はいつまでも闇の中にいることの不利益を受忍し続けることはないでしょう
属性がまっぷたつに分かれることは危険なことです
利害関係が一致している集団が2つできあがることは危険なことです
陽の光をめぐって争奪するシナリオがととのってしまいます
ずっと光の世界でいた人たちのほとんどは闇の世界でいる人たちの事情がわかりません
ずっと闇の世界でいた人たちのほとんどは光の世界でいる人たちの事情がわかりません
反対側の事情がよくわからない闇の世界の人がけんかをしかけてきたら光の世界の人たちは陽をわけたくないのでとっくみあいのけんかをしておっぱらってしまうでしょう
陽の光があたっている人はまちがっても陽があたっていない人に分けようなどとは思わないため奪われないように守るのです
陽の光があたっていない人はまちがっても陽があたっている人が分けることなどないと思っているため手に入れようと攻めるのです
宇宙空間はほとんどが闇であるので人間社会もほとんどが闇であると思います
宇宙空間で太陽のような燃えている恒星以外で光っているのは惑星や衛星として実際に存在しまわっている星だけです
人間社会では太陽のように燃えて光っている人はいないのでみんなは月や地球のようなものです
みんなが人間として存在しているのであれば衛星や惑星のようにくるくるまわっている人だけが陽の光をあびることができます
まず自分が人間として存在していることに気づいていなければまわっていたとしても人間以外の動物となんらかわりありません
人間として存在していることに気づいたらようやく太陽のように光っているものをさがして発見することができます
光っているものが見つかったのならそのまわりをぐるぐるまわっていればずっと光をあびることができますね
闇とは自分が人間として存在していることにわざと気づこうとしないようなことをいいます
人間として存在していることに気がつくと社会の大部分は闇であることに気づくからです
闇に気づいたら光が必要だと思うようになってしまいます
光を中心として存在していることに気がついている人間たちはまわっていなければならないと思うようになってしまいます
存在が消滅するまで永遠に光を中心としてまわる覚悟ができないから光に気づこうとしないのです
人間として存在していることに気づくと困難な課題がおしよせてくることがわかっているから人間としての存在にあえて気づこうとはしないのです
ほとんどの人間と比較して陽の光がわりとあたっている人は人間以外の動物のままでいてもそうそうすぐには陽の光に困らないと考えているから人間としての自覚を薄くしけもののままの状態を維持しておかないと解決しないといけない課題に次から次へと直面してしまうとうすうす気づいているのです
まずは光を光、闇を闇としてしっかり存在を認めなければなりません
世界のほとんどは闇であると考えられます
光を中心にまわっている人にしか光はあたっていないということです
闇だらけだとすれば光を見つけ光を中心にまわらなければなりません
光を中心にまわっているうちにお月様が自分を中心にまわるようになるかもしれません
光を中心にまわっていないとうさぎちゃんは自分のまわりをまわってくれないでしょう
そういうわけで月ゲットするためには太陽のようなもののまわりをくるくるまわっていなければならないのです
闇の世界におかれている人たちは光を求めて当然です
闇の世界にいて自分が人間として存在していることを認めたがっていない人たちにさまざまな種類の光があることを伝えなければなりません
まず人間になってもらわなければ光を探す作業を説明しても意味がわかってもらえません
まず人間として存在していることを自覚した上で光がさしてこない理由をわかってもらわないといけません
存在を知って探し方を知ってあとはくるくるまわるだけなのですけどね
うちの子と同じぐらいの歳の近所の子の進路を考えることができますか?
自分のうちの子になら今こうしてああしてそうしなければならないと伝えることができますか
よそのうちの子になぜ今こうしてああしてそうしなければならないと伝えることができないと思いますか
自分のうちの子に方向性を与えられない親がいます
よそのうちの子には方向性を与えてしまったりもします
よそのうちの子に方向性を与えることのほうがはるかにらくであるといえます
方向性を与えたのち将来責任を問われるようなことはないからです
方向性を与える人は自己責任をおしつけることができるからリスクをとらないでよいのです
自分の子に方向性を与えたらさいごまで責任をとらないといけなくなったりもします
将来のことまではわからないから小さい子供達に具体的な方向性を与える者がいません
あれしなさいこれしなさいと勧めると一生だまされたと思うようになってしまう人がでてくるかもしれません
方向性を与えることができる親そのものが少なくなってきていると考えられます
学校にいかせている間は他の組織に一任しすぎてしまってきっかけを与えるというかんじんなことをおろそかにしていると思います
方向性を持たない親というものが存在しそのような親の子が方向性をもつ確率は低いといえます
方向性を持たない生き方をしている親の性質を子供がひきずってしまいます
子供に恵まれずに養子をもらった親の子育てをニュートラルなものだとし基準として考えてみたらこれだけのことは最低限ほどこすであろうというようなことをおこたってはいけないということです
自分の子供だとついつい伝えそこなったりするようなことがあると思います
同様に他人の子供だとついつい伝えそこなったりするようなことがあると思います
自分の子供も他人の子供も神様の子供ですよ
やりのこしたことがあってはいけないしあまやかせてもいけないのです
子育てしている姿は修行している姿ですその姿は評価されます
修行をおろそかにしている姿などというものも評価されます
修行を意図的に回避したりすると将来修行をする時間を与えられてしまいます
やみの中にいる人は光るものを避けていないか自分を見つめなおしてみなければならないと思います
光の前に出さないようにしている別の人物が存在しているのかもしれません
光の前に出してしまうと自分のまわりをまわってくれなくなると考えている人がいるかもしれません
自分のまわりをまわる人をたくさん集めている人がいるかもしれません
その人のまわりをまわっても光らないのは中心にある人が光っていないからです
光ってもいないのに自分のまわりをまわるたくさんの人を集めている人が闇の支配者なのです
光っている人ならばその人をまわっているすべての人が光を受けて輝いているはずです
光るものは人であるともいえるでしょう
たくさんの人を輝かせている人が光なのです
人が輝きを失う瞬間というのを考えてみましょう
人がまわらなくなった瞬間というのを考えてみましょう
光ったり陰になって見えなくなったりすることの繰り返しがなくなってしまってただ輝きを失い続けている状態というのを考えてみましょう
人はどのようなときに悲しむでしょうか
どのような人なら悲しませてもかまわないと思いますか
悲しませてはいけない人の順番がわかっていなければなりません
悲しませてはいけない人を悲しませている人の自由を奪うことが社会の目的です
どういう人が自由を奪われて当然であるかということです
自由を奪って罰を受けさせないといけない人がいつの時代にも存在していたからルールが発達したのです
悲しんではいけない人を悲しませるようなことが続いているから罰を与えるしくみができているのです
人が輝きを失う瞬間というのは罰せられるべき人が出現した瞬間であるともいえます
あなたが光を受けて輝くことを悲しむ人がいないか注意が必要です
人はまわるべき場所でまわらないときれいに輝くものではありません
きれいに輝いている姿を喜んでくれる人がいるからいるべき場所をまちがってはいけません
おやすみ
光と闇ではどちらが多いと思いますか
最初は光だったと思いますか
最初は闇だったと思いますか
最初は闇だと思います
宇宙は闇でできています
光っている部分は1パーセントにも満たないと思います
光るには光のまわりをまわっていなければ光りません
光るにはまわっていなければなりません
地球が回転していなければ1日中光の世界と1日中闇の世界とでまっぷたつに分かれます
人間社会は闇だと思いますか 光だと思いますか
ほとんどが闇だと思っている人もいます
ほとんどが光だと思っている人もいます
どちらもまちがいです
ほとんどが闇だと思っている人は光の世界を知っているはずです
ほとんどが光だと思っている人は闇の世界を知っているはずです
ふつうに生活をしていたら反対側の世界をみることができません
どちらの世界の指導者も反対側の世界を見させないように近づかせないようにしているからです
光とはどういう世界なのでしょう
闇とはどういう世界なのでしょう
光とは陽があたりっぱなしの世界です
闇とは陽があたらないでい続ける世界です
人間社会は光と闇が交互にやってくるほうがよいのです
人生楽ありゃ苦もあるさということです
よくない世界というのは多くの人が自分だけに陽があたり続けるようにと願う世界です
少しでも多くの人が闇の中でい続けさえすればその人たちの分の陽が自分に余計にあたると考えて間違いないからです
みんなが一生懸命陽があたる状態をキープしようとすれば世界の回転が止まってしまいます
地球の回転をとめて太陽があたる場所を固定するようなことです
人間社会の回転をとめると陽があたっている人と陽があたっていない人とにまっぷたつに2分されます
闇の中にいる大多数の者はいつまでも闇の中にいることの不利益を受忍し続けることはないでしょう
属性がまっぷたつに分かれることは危険なことです
利害関係が一致している集団が2つできあがることは危険なことです
陽の光をめぐって争奪するシナリオがととのってしまいます
ずっと光の世界でいた人たちのほとんどは闇の世界でいる人たちの事情がわかりません
ずっと闇の世界でいた人たちのほとんどは光の世界でいる人たちの事情がわかりません
反対側の事情がよくわからない闇の世界の人がけんかをしかけてきたら光の世界の人たちは陽をわけたくないのでとっくみあいのけんかをしておっぱらってしまうでしょう
陽の光があたっている人はまちがっても陽があたっていない人に分けようなどとは思わないため奪われないように守るのです
陽の光があたっていない人はまちがっても陽があたっている人が分けることなどないと思っているため手に入れようと攻めるのです
宇宙空間はほとんどが闇であるので人間社会もほとんどが闇であると思います
宇宙空間で太陽のような燃えている恒星以外で光っているのは惑星や衛星として実際に存在しまわっている星だけです
人間社会では太陽のように燃えて光っている人はいないのでみんなは月や地球のようなものです
みんなが人間として存在しているのであれば衛星や惑星のようにくるくるまわっている人だけが陽の光をあびることができます
まず自分が人間として存在していることに気づいていなければまわっていたとしても人間以外の動物となんらかわりありません
人間として存在していることに気づいたらようやく太陽のように光っているものをさがして発見することができます
光っているものが見つかったのならそのまわりをぐるぐるまわっていればずっと光をあびることができますね
闇とは自分が人間として存在していることにわざと気づこうとしないようなことをいいます
人間として存在していることに気がつくと社会の大部分は闇であることに気づくからです
闇に気づいたら光が必要だと思うようになってしまいます
光を中心として存在していることに気がついている人間たちはまわっていなければならないと思うようになってしまいます
存在が消滅するまで永遠に光を中心としてまわる覚悟ができないから光に気づこうとしないのです
人間として存在していることに気づくと困難な課題がおしよせてくることがわかっているから人間としての存在にあえて気づこうとはしないのです
ほとんどの人間と比較して陽の光がわりとあたっている人は人間以外の動物のままでいてもそうそうすぐには陽の光に困らないと考えているから人間としての自覚を薄くしけもののままの状態を維持しておかないと解決しないといけない課題に次から次へと直面してしまうとうすうす気づいているのです
まずは光を光、闇を闇としてしっかり存在を認めなければなりません
世界のほとんどは闇であると考えられます
光を中心にまわっている人にしか光はあたっていないということです
闇だらけだとすれば光を見つけ光を中心にまわらなければなりません
光を中心にまわっているうちにお月様が自分を中心にまわるようになるかもしれません
光を中心にまわっていないとうさぎちゃんは自分のまわりをまわってくれないでしょう
そういうわけで月ゲットするためには太陽のようなもののまわりをくるくるまわっていなければならないのです
闇の世界におかれている人たちは光を求めて当然です
闇の世界にいて自分が人間として存在していることを認めたがっていない人たちにさまざまな種類の光があることを伝えなければなりません
まず人間になってもらわなければ光を探す作業を説明しても意味がわかってもらえません
まず人間として存在していることを自覚した上で光がさしてこない理由をわかってもらわないといけません
存在を知って探し方を知ってあとはくるくるまわるだけなのですけどね
うちの子と同じぐらいの歳の近所の子の進路を考えることができますか?
自分のうちの子になら今こうしてああしてそうしなければならないと伝えることができますか
よそのうちの子になぜ今こうしてああしてそうしなければならないと伝えることができないと思いますか
自分のうちの子に方向性を与えられない親がいます
よそのうちの子には方向性を与えてしまったりもします
よそのうちの子に方向性を与えることのほうがはるかにらくであるといえます
方向性を与えたのち将来責任を問われるようなことはないからです
方向性を与える人は自己責任をおしつけることができるからリスクをとらないでよいのです
自分の子に方向性を与えたらさいごまで責任をとらないといけなくなったりもします
将来のことまではわからないから小さい子供達に具体的な方向性を与える者がいません
あれしなさいこれしなさいと勧めると一生だまされたと思うようになってしまう人がでてくるかもしれません
方向性を与えることができる親そのものが少なくなってきていると考えられます
学校にいかせている間は他の組織に一任しすぎてしまってきっかけを与えるというかんじんなことをおろそかにしていると思います
方向性を持たない親というものが存在しそのような親の子が方向性をもつ確率は低いといえます
方向性を持たない生き方をしている親の性質を子供がひきずってしまいます
子供に恵まれずに養子をもらった親の子育てをニュートラルなものだとし基準として考えてみたらこれだけのことは最低限ほどこすであろうというようなことをおこたってはいけないということです
自分の子供だとついつい伝えそこなったりするようなことがあると思います
同様に他人の子供だとついつい伝えそこなったりするようなことがあると思います
自分の子供も他人の子供も神様の子供ですよ
やりのこしたことがあってはいけないしあまやかせてもいけないのです
子育てしている姿は修行している姿ですその姿は評価されます
修行をおろそかにしている姿などというものも評価されます
修行を意図的に回避したりすると将来修行をする時間を与えられてしまいます
やみの中にいる人は光るものを避けていないか自分を見つめなおしてみなければならないと思います
光の前に出さないようにしている別の人物が存在しているのかもしれません
光の前に出してしまうと自分のまわりをまわってくれなくなると考えている人がいるかもしれません
自分のまわりをまわる人をたくさん集めている人がいるかもしれません
その人のまわりをまわっても光らないのは中心にある人が光っていないからです
光ってもいないのに自分のまわりをまわるたくさんの人を集めている人が闇の支配者なのです
光っている人ならばその人をまわっているすべての人が光を受けて輝いているはずです
光るものは人であるともいえるでしょう
たくさんの人を輝かせている人が光なのです
人が輝きを失う瞬間というのを考えてみましょう
人がまわらなくなった瞬間というのを考えてみましょう
光ったり陰になって見えなくなったりすることの繰り返しがなくなってしまってただ輝きを失い続けている状態というのを考えてみましょう
人はどのようなときに悲しむでしょうか
どのような人なら悲しませてもかまわないと思いますか
悲しませてはいけない人の順番がわかっていなければなりません
悲しませてはいけない人を悲しませている人の自由を奪うことが社会の目的です
どういう人が自由を奪われて当然であるかということです
自由を奪って罰を受けさせないといけない人がいつの時代にも存在していたからルールが発達したのです
悲しんではいけない人を悲しませるようなことが続いているから罰を与えるしくみができているのです
人が輝きを失う瞬間というのは罰せられるべき人が出現した瞬間であるともいえます
あなたが光を受けて輝くことを悲しむ人がいないか注意が必要です
人はまわるべき場所でまわらないときれいに輝くものではありません
きれいに輝いている姿を喜んでくれる人がいるからいるべき場所をまちがってはいけません
おやすみ
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