第六章 思い出の唄者
天才・上村リカ
あと、忘れられないのが、上村リカさんね。この人は天才というか、常軌を逸したところのある人でした。まだ生きているんですが、もう表舞台には出て来ませんね。いっときはよく思い出したように電話が来ましたが、最近は電話も来ませんからね。昭和十八年(一九四三年)生まれの笠利の用安の人です。
小川学夫さんも彼女の唄に魅せられて、二人で一生懸命にチケットなんかをつくって、僕が彼女の着物なんかもつくって、いよいよあと一週間くらいってときに、彼女を呼んで、「あのね、人をひぼうするような唄だけは歌ってくれるなよ」って二人で年を押したんですよ。
というのは、当時は選挙で徳田虎雄と保岡興治のバトルがあって、彼女は徳田の方に肩入れして、さかんに持ち上げる唄をやっていたわけです。「それをやられたらちょっとマズいな」って思ったものだから、「選挙がらみの唄だけはするなよ」って言ったら、「私はそれを歌うためにあんたたちの話に乗っているんだから、歌うなっていうならもうやらん」ってひとこと言ってオシマイ。もう何を言っても聞かない。そういう人でした。
とにかく直情型だから、大変なのよ。舞台に出て歌おうとするでしょう。自分の気に食わない人が座っているのが見えたら「もうやらん」って、舞台を降りて帰っちゃうの。
一度ね、笠利の文化協会か何かの催しで、リカさんんいお願いして歌ってもらったんですよ。
そしたら、どこまでが本当なのかは分からないけれども、彼女の親の財産なんかを全部買い占めた土地ころがしが会場にいたらしいんですよ。とたんに彼女はその人の悪口を歌い出してね。そっちを見ながら指さして「死ね!」って言うのよ。「しねっこらう!」って言うんですよ。
そんなことされたら主催者も、もう立つ瀬がないでしょう。「やめろ!」というのに聞かないんですよ。だから僕が抱えて舞台から引きずり降ろしたことがありました。まあ、それでもちゃんと唄にはなっているんだから、その唄作りは見事ですよ。その場その場で、感情をむき出しにしてやるもんだから、説得力があるわけです。
彼女は、名瀬の小俣町に小さな一軒家を借りて住んでいて、それがあんまりいい家じゃないから、雨漏りがするんですね。そしたら、三味線を持って家主のところに出かけて、まず歌ったのがね、「うちの家主は位が高い、なんのくらいか酒喰らい」って。いい唄でしょう。その次は「なんとかせんと、わきゃ家はバラバラ」って訴えるわけよ。そりゃもう、気に食わなければ何でも言いたい放題なわけです。
あるとき大島の県立病院に行ったら、医者から「あんたはガンの疑いがある」って言われてね。あんまり「ガンだ、ガンだ」と言うもんだから、医者の前で「蟹よ蟹よ、住用の蟹よ」と「朝花節」の囃子を歌って、怨みたおして帰って来るんですよ。もう始末に終えない。(注:蟹はがんという読み方をする)
だから純粋っていえば純粋なんだけれども、ちょっと度が過ぎるからね。僕はね、彼女は絶対に奄美のシャーマンのなり損ないなんじゃないかって思うんですよ。何かこう、神がかっているんでね。だから一度、「あんたは巫病だから、一回ユタ様のところに行って、拝んでもらってごらん」って言ったことがある。「いやそうじゃない。自分はまともだ」と言って聞きませんでしたけどね。でも、とにかく唄はすごいのよ。
あるとき笠利の文化協会から呼ばれて、一緒に歌って、帰りに車に乗ったんです。そしたら、車の中で自分の三味線を出して歌うんですよ。それがうまくてね。「こんな才能があったらどんなに幸せだろうな」と思いましたね。それくらい唄には魅力があった。でも激しいの。気に食わんことは絶対に気に食わんというスタンスだから。
あるとき、「三味線が壊れた」というので、三味線を張り替えに出したことがある。しばらくして、完成したというので三味線屋に行って、「どれ」と手に取って弾いてみたら、自分の気に入る音じゃなかったのね。そしたらその場で、「おじさん、ちょっとそのナイフ貸してよ」と言って、パッパッと切って、「これダメ」。
でもね、彼女が本気になって歌い出したら、なんというか、こう髪の毛が逆立つような、そんな感じがするわけよ。本当に。そのくらい魂が入った唄をするんです。
民謡大会にも最初の頃は出ていましたが、もう唄自体がそういう激しい唄ばかりだから、実力はあったんだけど、優勝とかには縁がなかったですね。そのへんは、審査員もちゃんとわきまえていますからね。せいぜい特別賞とかそういう賞しかもらえませんでした。もう、「審査の基準を超えた特別な存在です」ってことでね。
僕は彼女の唄が好きだったから、「練習させてくれ」とおだてて、家に呼んでよく歌わせたものですよ。うまかったですよ。家内なんか、もうリカファンでね。「お父さん、唄はあの人のように歌いなさい。あの人は、心がそのまま唄になっているじゃないか」って、よく言っていましたよ。「あれが、ほんとの唄だよ」ってね。そのくらい、ズブの素人が聞いても上手な唄だった。
彼女の唄を聞かなくなって、もう二、三十年になりますかね。人の悪口を歌わなければよかったんですけれどね。それが悪口を歌うから、感情がムラムラと出てしまう。それが彼女のいいところなんだけど、唄が全部悪口になってしまうんですよ。普通の唄を普通の歌詞で歌ってもけっこういいのに、そこに自分のライバルみたいのがいると、もうダメなんですよね。
僕が昭和六三年(一九八八年)から毎年公演をしていた東京の「渋谷ジャン・ジャン」というライブハウスにリカさんを連れて行ったときに、東京にいた彼女の妹さんがたまたま聴きに来ていて、「六調」のときに太鼓を持って出て来たことがありました。それを一目見たとたん、リカさんの目から涙が溢れて、泣きながら太鼓を叩いていたのをよく覚えています。話によると、そういう性格だから、妹さんともあまりうまくいってなかったらしい。それが太鼓を持って出て来てくれたんで、嬉しかったんでしょうね。
とにかく人の言うことを聞かない人でね。沖縄の那覇まつりに出演したときも、同じカサン唄だからと彼女と一緒に舞台に出て「ユイスラ節」を歌おうとしたら、彼女は僕がどんなに頑張っても出せないような、ものすごく高いキーで歌い出したんですよ。「ちょっと待て。唄の掛け合いってのは、二人で歌うんだから、お願いだからもう少し下げて歌ってくれんね」って言ったら、「ダメ」って言うのよね。「それなら先に行ってよ、あんたが先に行って別々に歌えばいいじゃない」って。もう手の施しようがない。でも、その場だけで、後腐れは何もないのよ。そういう人でしたね。
100ページ~104ページ
唄者 築地俊造自伝 楽しき哉、島唄人生
目次
第一章 島唄人生の始まり
第二章 民謡日本一へ
第三章 島唄、海外へ
第四章 失敗談を少々
第五章 あの頃の奄美
第六章 思い出の唄者
第七章 島唄あれこれ
第八章 これからの島唄
◆付録CD◆第2回日本民謡大賞決勝(1979年)の実況録音! 日本一に輝いた「マンコイ節」ほか全7曲を収録。
二〇一七年七月一四日 第一刷発行
著者 築地俊造 梁川英俊
発行者 向原 祥隆
発行所 株式会社 南方新社
著者プロフィール
築地 俊造(つきじ・しゅんぞう)
1934年 鹿児島県大島郡笠利町川上生まれ。1975年 何回日日新聞社主催「第1回奄美新人民謡大会」で優勝、1979年 N.N.S(日本テレビネットワーク)主催「第2回日本民謡大賞」で優勝。日本民謡大賞および内閣総理大臣杯を受賞。民謡日本一となる。1988年以来、「渋谷ジャン・ジャン」等で首都圏でのライブ活動を続け、奄美島唄の普及に努める。1988年「鹿児島県芸能文化奨励賞」受賞、2002年 何回日日新聞社主催「中井文化賞」受賞。2008年 南日本新聞社主催「南日本文化賞」受賞。2013年「鹿児島県民表彰」、2014年「文部科学省地域文化功労者表彰」。2017年4月14日、逝去。
梁川 英俊(やながわ・ひでとし)
1959年 東京生まれ。鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系教授。1988年 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。ケルト諸地域の言語・歴史・文化を主要な研究対象とする一方で、南西諸島、勧告・多島等、ミクロネシア等の島嶼地域の調査・研究にも携わる。
追記
平成二十九年四月十四日、築地俊造さんは逝去されました(享年八十二歳)。
これまでの功績に対する深い感謝の念とともに、心から哀悼の意を表します。 梁川英俊
天才・上村リカ
あと、忘れられないのが、上村リカさんね。この人は天才というか、常軌を逸したところのある人でした。まだ生きているんですが、もう表舞台には出て来ませんね。いっときはよく思い出したように電話が来ましたが、最近は電話も来ませんからね。昭和十八年(一九四三年)生まれの笠利の用安の人です。
小川学夫さんも彼女の唄に魅せられて、二人で一生懸命にチケットなんかをつくって、僕が彼女の着物なんかもつくって、いよいよあと一週間くらいってときに、彼女を呼んで、「あのね、人をひぼうするような唄だけは歌ってくれるなよ」って二人で年を押したんですよ。
というのは、当時は選挙で徳田虎雄と保岡興治のバトルがあって、彼女は徳田の方に肩入れして、さかんに持ち上げる唄をやっていたわけです。「それをやられたらちょっとマズいな」って思ったものだから、「選挙がらみの唄だけはするなよ」って言ったら、「私はそれを歌うためにあんたたちの話に乗っているんだから、歌うなっていうならもうやらん」ってひとこと言ってオシマイ。もう何を言っても聞かない。そういう人でした。
とにかく直情型だから、大変なのよ。舞台に出て歌おうとするでしょう。自分の気に食わない人が座っているのが見えたら「もうやらん」って、舞台を降りて帰っちゃうの。
一度ね、笠利の文化協会か何かの催しで、リカさんんいお願いして歌ってもらったんですよ。
そしたら、どこまでが本当なのかは分からないけれども、彼女の親の財産なんかを全部買い占めた土地ころがしが会場にいたらしいんですよ。とたんに彼女はその人の悪口を歌い出してね。そっちを見ながら指さして「死ね!」って言うのよ。「しねっこらう!」って言うんですよ。
そんなことされたら主催者も、もう立つ瀬がないでしょう。「やめろ!」というのに聞かないんですよ。だから僕が抱えて舞台から引きずり降ろしたことがありました。まあ、それでもちゃんと唄にはなっているんだから、その唄作りは見事ですよ。その場その場で、感情をむき出しにしてやるもんだから、説得力があるわけです。
彼女は、名瀬の小俣町に小さな一軒家を借りて住んでいて、それがあんまりいい家じゃないから、雨漏りがするんですね。そしたら、三味線を持って家主のところに出かけて、まず歌ったのがね、「うちの家主は位が高い、なんのくらいか酒喰らい」って。いい唄でしょう。その次は「なんとかせんと、わきゃ家はバラバラ」って訴えるわけよ。そりゃもう、気に食わなければ何でも言いたい放題なわけです。
あるとき大島の県立病院に行ったら、医者から「あんたはガンの疑いがある」って言われてね。あんまり「ガンだ、ガンだ」と言うもんだから、医者の前で「蟹よ蟹よ、住用の蟹よ」と「朝花節」の囃子を歌って、怨みたおして帰って来るんですよ。もう始末に終えない。(注:蟹はがんという読み方をする)
だから純粋っていえば純粋なんだけれども、ちょっと度が過ぎるからね。僕はね、彼女は絶対に奄美のシャーマンのなり損ないなんじゃないかって思うんですよ。何かこう、神がかっているんでね。だから一度、「あんたは巫病だから、一回ユタ様のところに行って、拝んでもらってごらん」って言ったことがある。「いやそうじゃない。自分はまともだ」と言って聞きませんでしたけどね。でも、とにかく唄はすごいのよ。
あるとき笠利の文化協会から呼ばれて、一緒に歌って、帰りに車に乗ったんです。そしたら、車の中で自分の三味線を出して歌うんですよ。それがうまくてね。「こんな才能があったらどんなに幸せだろうな」と思いましたね。それくらい唄には魅力があった。でも激しいの。気に食わんことは絶対に気に食わんというスタンスだから。
あるとき、「三味線が壊れた」というので、三味線を張り替えに出したことがある。しばらくして、完成したというので三味線屋に行って、「どれ」と手に取って弾いてみたら、自分の気に入る音じゃなかったのね。そしたらその場で、「おじさん、ちょっとそのナイフ貸してよ」と言って、パッパッと切って、「これダメ」。
でもね、彼女が本気になって歌い出したら、なんというか、こう髪の毛が逆立つような、そんな感じがするわけよ。本当に。そのくらい魂が入った唄をするんです。
民謡大会にも最初の頃は出ていましたが、もう唄自体がそういう激しい唄ばかりだから、実力はあったんだけど、優勝とかには縁がなかったですね。そのへんは、審査員もちゃんとわきまえていますからね。せいぜい特別賞とかそういう賞しかもらえませんでした。もう、「審査の基準を超えた特別な存在です」ってことでね。
僕は彼女の唄が好きだったから、「練習させてくれ」とおだてて、家に呼んでよく歌わせたものですよ。うまかったですよ。家内なんか、もうリカファンでね。「お父さん、唄はあの人のように歌いなさい。あの人は、心がそのまま唄になっているじゃないか」って、よく言っていましたよ。「あれが、ほんとの唄だよ」ってね。そのくらい、ズブの素人が聞いても上手な唄だった。
彼女の唄を聞かなくなって、もう二、三十年になりますかね。人の悪口を歌わなければよかったんですけれどね。それが悪口を歌うから、感情がムラムラと出てしまう。それが彼女のいいところなんだけど、唄が全部悪口になってしまうんですよ。普通の唄を普通の歌詞で歌ってもけっこういいのに、そこに自分のライバルみたいのがいると、もうダメなんですよね。
僕が昭和六三年(一九八八年)から毎年公演をしていた東京の「渋谷ジャン・ジャン」というライブハウスにリカさんを連れて行ったときに、東京にいた彼女の妹さんがたまたま聴きに来ていて、「六調」のときに太鼓を持って出て来たことがありました。それを一目見たとたん、リカさんの目から涙が溢れて、泣きながら太鼓を叩いていたのをよく覚えています。話によると、そういう性格だから、妹さんともあまりうまくいってなかったらしい。それが太鼓を持って出て来てくれたんで、嬉しかったんでしょうね。
とにかく人の言うことを聞かない人でね。沖縄の那覇まつりに出演したときも、同じカサン唄だからと彼女と一緒に舞台に出て「ユイスラ節」を歌おうとしたら、彼女は僕がどんなに頑張っても出せないような、ものすごく高いキーで歌い出したんですよ。「ちょっと待て。唄の掛け合いってのは、二人で歌うんだから、お願いだからもう少し下げて歌ってくれんね」って言ったら、「ダメ」って言うのよね。「それなら先に行ってよ、あんたが先に行って別々に歌えばいいじゃない」って。もう手の施しようがない。でも、その場だけで、後腐れは何もないのよ。そういう人でしたね。
100ページ~104ページ
唄者 築地俊造自伝 楽しき哉、島唄人生
目次
第一章 島唄人生の始まり
第二章 民謡日本一へ
第三章 島唄、海外へ
第四章 失敗談を少々
第五章 あの頃の奄美
第六章 思い出の唄者
第七章 島唄あれこれ
第八章 これからの島唄
◆付録CD◆第2回日本民謡大賞決勝(1979年)の実況録音! 日本一に輝いた「マンコイ節」ほか全7曲を収録。
二〇一七年七月一四日 第一刷発行
著者 築地俊造 梁川英俊
発行者 向原 祥隆
発行所 株式会社 南方新社
著者プロフィール
築地 俊造(つきじ・しゅんぞう)
1934年 鹿児島県大島郡笠利町川上生まれ。1975年 何回日日新聞社主催「第1回奄美新人民謡大会」で優勝、1979年 N.N.S(日本テレビネットワーク)主催「第2回日本民謡大賞」で優勝。日本民謡大賞および内閣総理大臣杯を受賞。民謡日本一となる。1988年以来、「渋谷ジャン・ジャン」等で首都圏でのライブ活動を続け、奄美島唄の普及に努める。1988年「鹿児島県芸能文化奨励賞」受賞、2002年 何回日日新聞社主催「中井文化賞」受賞。2008年 南日本新聞社主催「南日本文化賞」受賞。2013年「鹿児島県民表彰」、2014年「文部科学省地域文化功労者表彰」。2017年4月14日、逝去。
梁川 英俊(やながわ・ひでとし)
1959年 東京生まれ。鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系教授。1988年 東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。ケルト諸地域の言語・歴史・文化を主要な研究対象とする一方で、南西諸島、勧告・多島等、ミクロネシア等の島嶼地域の調査・研究にも携わる。
追記
平成二十九年四月十四日、築地俊造さんは逝去されました(享年八十二歳)。
これまでの功績に対する深い感謝の念とともに、心から哀悼の意を表します。 梁川英俊
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