岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

詩歌に於ける抒情について

2015年03月16日 23時59分59秒 | 私の短歌論
「短歌は詩である。詩であると言うことは端的に言えば、抒情詩である。」

 これは佐藤佐太郎の『純粋短歌』の一節である。僕はこの言葉は、或る意味で面白い言葉だと思う。

 まず第一。この言葉は端的ではない。「短歌は、定形詩であり、抒情詩である。」と言えばそれで済む。『純粋短歌』の初版本が出版されたのが、短歌否定の「第二芸術論」が盛んにもてはやされた時期だったので、言い様が丁寧(ある意味諄い)ものとなったのだろう。

 第二。では「詩」とは何かが、規定されていない。読んだ人間は、煙に巻かれたように感じる。尤も、この時代は、言葉遊びのような詩は無かったから、わざわ言う必要がなかったのだろう。

 以前、このブログの記事で「現代短歌新聞」を話題にした。岡井隆が「詩人は短歌を読まない。歌人は現代詩を読まない。」と発言したのを紹介した。このブログはフェイスブックと連動しているから、ある詩人から「私は短歌を読んでいます。岡井隆の言い様はおかしいですね。」とコメントを頂いた。「そもそも岡井隆は、おかしなことを言っている。」と言われたので、「それでは『岡井隆批判』を『現代詩手帖』に投稿したらいかがですか、と言ったら、そのつもりだと言われた。注目しているが、その気配はない。

 さてその詩人が「西脇順三郎など、言葉遊びですよ」と言うが、僕には異論がある。西脇順三郎の作品は、言葉遊びではない。「言葉による美的世界の構築」への強い意思が感じられる。「美へのこだわり」とでも言おうか。

 では叙情詩の抒情とは何か。「詩人の聲」を聞いていると、優れた作品には、鮮明な主題がある。リズムもある。

 だが最近もっと重要なことに気付いた。高橋睦郎の聲を聴いて、酒を飲んだときの話しだ。高橋睦郎はこう言った。

「勝れた詩は『珍しさと懐かしさ』『新しさと懐かしさ』を持っている。」高橋らしい言い方だ。これを聴いていて、僕の脳裏にある言葉が浮かんだ。「愛おしさ」である。

 抒情と言うのは人間の喜怒哀楽だ。そこで僕の思考はとまっていたが、この「愛おしさ」が加わることで、理解が深まった。高橋の言う「懐かしさ」は、読み手の心に沁みとおってくる情感を言うのだろう。たしかに高橋の作品からはこれが感じられる。これはノスタルジーに似た感情で、故郷への「愛おしさ」に近い。

 「詩人の聲」で、回数を重ねた詩人の作品には「愛おしさ」が必ずある。人間への愛おしさ、自己への愛おしさ、故郷への愛おしさ、人間の生き方への愛おしさ、社会への愛おしさ、美的世界への愛おしさがあり、それが作品の明確な主題となっている。もちろん韻文だからリズムはある。散文詩でも、言葉と聲にリズムがある。

 言葉を上手く配列しただけの作品、理屈に傾く作品との違いはここにある。しかもその愛おしさが、作者の価値観から滲み出ている。そうでないものは、愛おしさがあっても、どこか取って付けたようなところがある。文体の上手さは、外面的なフォルムでしかない。いくら言葉を巧みに扱っても、誤魔化しは効かない。

 外面的フォルムにこだわり過ぎた作品のフォルムは、簡単に壊れる。これは一時間聲を出すと、一目瞭然だ。だから「詩人の聲」の公演は怖い。誤魔化している自分が見える。だから小手先ではなくて、何にどう感動したかの整理も必要だし、それが飾らずに表現されているかという配慮も必要だ。

 西脇順三郎の作品には、言語による美的世界の構築への、「愛おしみ」がある。そのフォルムは、西脇が体得している西洋文明への造詣の深さに支えられている。作品の魅力はここから出てくるのだろう。

 最後に付け加えると、人間や社会を深く掘り下げるのも、欠く事の出来ない問題だろう。




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